はじめに
群馬県・猿ヶ京ホテルのオフィシャルホームページにて、「関東戦国史1438~1590」というタイトルで、数回に分けて連載を開始させていただきます。
このコンテンツを猿ヶ京ホテルがご紹介するのには理由があります。
関東における戦国時代を語るとすれば、実際の施政を行った「関東管領」を世襲する上杉家の存在を見過ごす事はできません。
上杉と聞けば、越後の上杉謙信。
ご存知のように、軍神と呼ばれた、戦国時代最強の武将の一人。
彼は、室町幕府の権威を取り戻そうと必死に活動した武将。
言わば、旧体制側の人間でした。
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対して、早雲を始祖とする北条家は、巧みな戦略を駆使して、相模、伊豆から関東一円に勢力を伸ばした、新勢力と呼べる家柄。
その地盤を確固たるものにしたのが、3代目の北条氏康。
彼は、戦さ上手の謙信と直接対決を避けながらも、関東を制圧していきました。
逆に、謙信と直接対決をしたのが、甲斐の武田信玄。
信玄は、甲斐本国だけでなく、信濃をほぼ掌握し、北信濃でぶつかったのが、有名な川中島の戦い。
その後、風林火山の旗印は関東に向かい、西上野(にしこうずけ/群馬県西部)の城を次々と落としていきました。
信玄、氏康、謙信の3人が健在の時代は、まさに古代中国の魏・呉・蜀の存亡を描いた「三国志」を彷彿とさせる歴史でもあります。
その関東の戦国時代の最終ステージの火ぶたを切ったのは、越山した上杉謙信の関東遠征。
当時、謙信の居城である春日山城(上越市)から、関東に出るには、「三国峠」が玄関口でした。
「三国峠」は、新潟県(南魚沼郡湯沢町)と群馬県(利根郡みなかみ町)の県境にある峠。
当時は、越後から関東に入る最短コースでした。
その峠を越え、初めて関東の地に立った謙信が、陣を敷いたのが、現在の猿ヶ京温泉周辺。
そうなのです。三国峠を越えれば、そこは現在の猿ヶ京温泉だったのです。
そして、その「猿ヶ京」の名付け親は、上杉謙信その人。
そんな因果もあって、ここに戦国乱世の一場面をご紹介しようと思っております。
小説、映画、ドラマ等で頻繁に取り上げられているため、戦国時代末期の歴史は詳しい方も数多いでしょう。
ここでは、室町幕府の弱体化に端を発す戦国時代の幕開けである「永享の乱」(1438年)から、関東管領ら旧勢力から領地を奪い、上杉謙信にも落とせなかった小田原城を本拠地とした「北条氏の滅亡」(1590年)までを、数回の連載によって、年表と図解を駆使して、できるだけ分かりやすい構成でご紹介しようと思います。
第1回は、関東戦国時代の幕開け。
謙信はじめ、信玄、氏康が登場する以前の歴史となります。
そこには、当時、最強と言われた彼ら3人の戦国大名が、なぜ関東に出現したか・・・という問いの答えも隠されています。
ぜひ、ご覧ください。
平成25年11月吉日
編集・執筆責任者 大竹仁一(温泉コム株式会社・代表)