プロフィール
足利持氏 自害の図
第3代鎌倉公方・足利満兼の子。第3代将軍・足利義満の三男として生まれる。
応永16年(1409)、幼名・幸王丸は、父が死んだため12歳で家を継いだ。
翌年、元服して第5代将軍・足利義持の1字を与えられて持氏と称した。
その頃、叔父である足利満隆(第3代鎌倉公方・足利満兼の弟)が13歳の持氏に対して謀反を企てているとの噂が立ち、持氏が関東管領・上杉憲定(山内上杉家)に逃げ込むという騒動が勃発。
上杉憲定は、応永18年(1411)に関東管領を辞任している。
いまだ若年の持氏は、新たに関東管領となった上杉禅秀(氏憲/犬懸上杉朝宗の子)の補佐を受けていたが、しばらくすると、持氏は禅秀から距離をおき始め、対立が激しくなった。
それは、禅秀が持氏の支持する山内上杉家の人ではなく、叔父の満隆と同盟を組んでいた事も起因している。
ついに、応永22年(1415)に禅秀は関東管領を辞し、18歳になった持氏は、山内上杉家の上杉憲基(憲定の子/当時24歳)を後任とした。
ところが、応永23年(1416)、禅秀・満隆はクーデターを起こした。
禅秀の誘いに、陸奥、常陸、信濃、上野、下野、武蔵、相模、伊豆、鎌倉の武士たちが呼応した。
持氏は、憲基とともに、鎌倉を追われて小田原に敗走。
持氏は駿河に、憲基は越後に逃げた。
鎌倉は禅秀に一時制圧され、公方に満隆、関東管領に禅秀が就いた(上杉禅秀の乱)。
しかしこの反乱は、翌応永24年(1417)年に、鎌倉府が京の幕府に対して、反抗的にならないように配慮し、持氏側についた。
幕命を受けた越後の上杉房方・駿河の今川範政らによって鎮圧され、持氏らは鎌倉に復帰した。
乱が落ち着くと、持氏は敵に回った関東諸侯の討伐を開始する。
幕府側の常陸の山入氏や小栗氏も討ったため、鎌倉府と幕府の対立構造が明らかとなった。
応永25年(1418)年に、27歳の若さで関東管領・上杉憲基が亡くなり、翌年まだ10歳の上杉憲実(越後守護の上杉房方の子)が選ばれた。
この時、持氏は22歳。
主人をサポートする側の関東管領が、公方より若く、しかも幼少だったため、しばらく持氏は管領の業務までこなさなければならなかった。
応永35年(1428)正月、第4代将軍の義持が死去(後任の第5代将軍が早世したため、義持が政務を取り仕切っていた)。
4月に年号が正長に改元され、籤引きで、出家していた足利義教(35)が第6代将軍に就いた。
持氏(31)は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、憲実(19)はこれを諫止した。
持氏は、新将軍就任の賀使も送らなかった。
さらに9月に永享と改元されても、新年号を用いなかった。
永享10年(1438)には、持氏(41)の子の健王丸の元服の際、憲実(29)が将軍の一字拝領を願い出るよう勧めたが、これも拒否した。
常に、幕府側と協調路線を維持してきた憲実だったが、諦め、居城である上野に帰ってしまった。
永享11年(1439)、持氏は、すぐに憲実討伐に動いたが、これに乗じて、幕府が介入し、憲実と結託して鎌倉府討伐を実行。
持氏は大敗を喫す(永享の乱)。
憲実は、将軍義教に、持氏の助命嘆願をしたが、聞き入られず、自刃させられた。
ここに、鎌倉府が滅亡した。
遺児である、春王丸(10)と安王丸(8)は、下総の結城氏朝に保護され、幕府に反撃を試みたが、あえなく敗戦(結城合戦)。
将軍義教は、春王丸・安王丸を京への護送途中に殺させた。
もうひとりの遺児、永寿王丸(2)は、母方の信濃の豪族・大井持光に逃げた。
後に復活した鎌倉公方(初代・古河公方)・足利成氏となる。