プロフィール
越後守護・上杉房方の第三子。後に、山内上杉憲基の養嗣子となる。
27歳の若さで関東管領・上杉憲基が亡くなり、応永26年(1419)に、10歳で関東管領、及び上野、武蔵、伊豆の守護となった。
この時、主人である鎌倉公方は22歳の足利持氏。
応永30年(1423)には、幕府側に立つ小栗満重の乱を起こした常陸の小栗氏征伐に出陣し、小栗城を攻め落としている。
この頃から、持氏の京都の幕府に対する反抗行動が顕著になってきた。
応永35年(1428)正月、第4代将軍の義持が死去した時、4月に年号が正長に改元され、籤引きで、出家していた足利義教(35)が第6代将軍に就いた。
持氏(31)は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、憲実(19)はこれを諫止した。
持氏は、新将軍就任の賀使も送らず、さらに9月に永享と改元されても、新年号を用いなかった。
永享10年(1438)には、持氏(41)の子の健王丸の元服の際、憲実(29)が将軍の一字拝領を願い出るよう勧めたが、これも拒否した。
常に、幕府側と協調路線を維持してきた憲実だったが、持氏が憲実を暗殺するのではないかとの噂も出始め、憲実は身の危険を感じ、領国である上野に帰ってしまった。
永享11年(1439)、持氏は、すぐに憲実討伐に動き、一色・小笠原軍を派遣したが、武蔵分倍河原で、憲実に敗れる。
これに乗じて、幕府が介入し、憲実と結託して鎌倉府討伐を実行。
持氏は大敗を喫し、出家して鎌倉の永安寺に蟄居した。
憲実は、将軍義教に、持氏の助命嘆願をしたが、聞き入られず、自刃させられた(永享の乱)。
ここに、鎌倉府が滅亡した。
憲実は剃髪し、弟の上杉清方に託して、出家した。
遺児である、春王丸(10)と安王丸(8)は、下総の結城氏朝に保護され、幕府に反撃を試みた。
憲実もやむなく出陣したが、あえなく敗戦(結城合戦)。
その後、憲実は再び隠遁生活を送った。
将軍義教は、春王丸・安王丸を京への護送途中に殺させ、もうひとりの遺児、永寿王丸(2)は、母方の信濃の豪族・大井持光に逃げた。
後に復活した鎌倉公方・足利成氏となる。
そしてこの頃、憲実の強い反対にも関わらず、長男の憲忠が、関東管領に就任する。
憲実の恐れたいた通り、憲実を親の仇だと考えていた成氏は、享徳3年(1454)に憲忠を暗殺してしまう(享徳の乱)。
この後、憲実は諸国遍歴の旅に出た。
享徳元年(1452)には大内氏を頼って留まり、文正元年(1466)、長門大寧寺で死去した。享年57。
永享11年(1439)、日本最古の総合大学「足利学校」を再興した人物としても知られている。
その時は、あの永享の乱で、主君・足利持氏が自刃した年。
自分の所有していた文献・書物を大量に寄進した事を考えれば、その時点で、出家、及び隠遁生活を決めていたに違いない。