1506年から1535年までの関東の主な出来事 年表を見る
「第1回」群雄割拠の幕開け/戦国時代は関東から始まった!(1438~1505年)で記したように、いわゆる戦国時代のプロローグは、まさに関東エリアで繰り広げられた。
その背景としては、大きく3つに分けられ、ひとつが鎌倉公方の分裂(足利氏の弱体化)、ふたつめが関東管領・上杉家の内紛、そして、新勢力である北条早雲の台頭があった。
今回の「第2回」の1506年から1535年でも、その動きが進み、さらに大きな"うねり"となっていく。
そもそも、"関東"とは、室町時代は、足利将軍の東の統括地の意味合いがあり、その鎌倉公方(古河公方)がいた周辺10ヶ国の事を指していた。
つまり、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)、武蔵(むさし)、相模(さがみ)の、箱根以東のいわゆる坂東八ヶ国に、甲斐、伊豆の二ヶ国を加えた地域をいう。
今でいえば、一都(東京)六県(群馬、栃木、茨城、千葉、埼玉、神奈川)に、山梨と伊豆半島を合わせたエリアの事だ。
その地で、日本でいち早く戦国時代に突入していくわけである。
主家筋を家臣が裏切り、さらには、将軍(足利氏)にさえ楯突くこともしばしば。
また、ある時には利害関係が一致して同盟を組んだり、ある時には敵対したりなど、離合集散を繰り返した事もこの時代の特徴。
このように将軍や守護大名が戦いに明け暮れる中、地方では守護代や国人(地方の豪族)などが独立性を高め、守護を失脚させるなど、上下関係が混乱してくる。
この現象を"下剋上"と呼び、戦国時代の風潮を表すキーワードとなった。
今回は、その"関東"に隣接する越後も、戦国時代に突入していく。
長尾為景は、その越後の地において、"下剋上"を実践した人物である。
主家筋の守護大名である上杉房能を討ち、家臣である守護代の為景が、実際の政権を握るといった状況が出てきた。
為景は、あの上杉謙信の実父。
越後(新潟)から三国峠を越えて、上杉謙信が関東に現れるのは、今回の時期より少しあとになる。
伊勢盛時(北条早雲)は、その類い稀な頭脳と行動力により、徐々に関東に勢力を伸ばしていった。
今川家の家臣筋であった頃に、駿河東部に所領を与えられ、そこを基盤に、まず伊豆に攻め入り、堀越公方家の足利茶々丸を滅ぼし、相模西部に侵攻。
小田原城を奪取し、相模・武蔵を主な支配地としてきた、扇谷上杉家と死闘を繰り返し、徐々にその勢力範囲を広げていった。
晩年には、三浦半島の三浦義同(よしあつ/同寸)を滅ぼし、相模の完全平定を果たす。
軍略を張りめぐらし、謀略も得意技だった。
それができたのも、古河(鎌倉)公方家と関東管領との抗争、両上杉家の内紛など、旧勢力が意味のない内輪もめを繰り返したためだ。
2代目・氏綱が家督を継ぐと、さらに関東侵攻を進めていった。
氏綱は、ゆくゆくは関東全域を手中に治めるには、軍事力だけではなく、何かプラスアルファが必要だと考えていた。
そこで、それまで名乗っていた"伊勢"という家名は、関東では"よそ者"に聞こえるので、関東になじみの深い鎌倉時代の執権・北条家にあやかり、我らこそその血筋だと創作し、"北条"をナノ乗るようになる。
当時、本当の味方と言えるのは、駿河の今川家しかなかった状況の中、新たに関東土着の豪族たちと同盟を組むためには、この改称は結果的に役立つこととなる。
さらに、山内上杉家、扇谷上杉家だけでなく、国境を接する甲斐の武田信虎(信玄の父)などとの戦いも激化していった。
そして、関東制圧の総仕上げとして、3代目の北条氏康が登場するのである。
関東が戦乱に明け暮れる中、時代は本物の実力者を求めていた。
時代だけでなく、そこに住む領民をはじめ、家臣団も強力な統率力を持つ支配者を求めていた。
京都の室町幕府の威光も名ばかりとなり、領国を広げることが、戦国大名の生きる道となり、独立志向がさらに顕著になってきたのも時代背景だ。
そんな中、いくつかの戦ののち、いわゆる実力ある戦国大名が出現してくるのである。
まず北条家に氏康が、甲斐の武田には晴信(後の信玄)、そして越後に長尾景虎(後の上杉謙信)が登場する。
いずれも、戦略、施政に優れた才を持ち、徐々に周辺の小豪族を飲み込み、勢力を伸ばしていった。
16世紀半ばの関東は、この北条氏康、武田信玄、そして上杉謙信の戦いの場となるのである。
そこには、それぞれの国の思惑と野望が交差する。