解説一覧 第2回(1506~1535年)へ


【第1回】 群雄割拠の幕開け/戦国時代は関東から始まった!
      (1438~1505年)

日本史における戦国時代の始期の考え方は諸説あります。
応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)に起きた「応仁の乱」が、その始期とされる考え方が多いようですが、実はその10年以上も前の享徳3年(1455年)から文明14年(1483年)の約28年間に渡って、関東では「享徳の乱」が勃発しています。

第5代鎌倉公方(初代古河公方)・足利成氏(しげうじ)が、部下である関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉家、鎌倉公方(古河公方)方が争い、関東地方一円に拡大しました。

その遠因とされるのが、室町幕府によって、いったん鎌倉府が滅ぼされた「永享の乱」(1438年)。
足利成氏の父・持氏が、中央政府である室町幕府・第6代将軍・足利義教(よしのり)に反抗し、結果的に敗れ、自刃させられた一件は憎悪の連鎖を生み、「享徳の乱」に繋がっていきます。

つまり、本当の戦国時代は関東から始まったと言っていいでしょう。
そこには、京都の室町幕府と、東国の施政を任されていた鎌倉公方という、特別な環境が遠因となっています。

ちなみに、鎌倉公方関東管領というのは、京都の室町幕府における将軍管領に相当します。

さて、関東の初期の戦乱には、3つの局面がクローズアップされます。
1つめは、足利幕府の衰退を背景とした、鎌倉(古河)公方関東管領(上杉家)の争い。
2つ目は、その関東管領職を代々受け継ぐ山内(やまのうち)上杉家扇谷(おうぎがやつ)上杉家との同族同士の争い。
3つ目は、その大乱の隙に登場した、戦国時代・下剋上の象徴的人物である北条早雲の動き。

さらに、広げてみれば、越後における守護・上杉家守護代・長尾家との争いも、関東の戦乱と絡んできます。

つまり、主家と家臣の関係であったものが、家臣が主家に反抗したり主家が家臣を殺したり、または同族同士で争ったりと、まさに何でもアリの戦国時代となったわけです。

【第1回】群雄割拠の幕開け/戦国時代は関東から始まった!
       (1438~1505年)


1438年から1505年までの関東の主な出来事 年表を見る

室町幕府は、足利尊氏によって14世紀はじめに京都に開かれた。
尊氏は、晩年、嫡男・義詮(よしあきら)に室町幕府を継がせ、次男・基氏を鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。
その後、京都の室町幕府は義詮の子孫が相続し、鎌倉府は基氏の子孫が相続した。
しかしながら、鎌倉公方は、組織的には室町幕府の支配下である。
同じ尊氏の子孫でありながら、基氏の系統は室町幕府を相続できないことで不満が鬱積し、それが下地となり、六代将軍・義教(よしのり)の時代に爆発した。
永享10年(1438年)、幕府方に、鎌倉公方・足利持氏は自刃に追い込まれ、鎌倉府は4代100年で滅亡した(永享の乱)。

この後、約10年間は関東管領の上杉氏が室町幕府を背景にして支配したが、関東の諸豪族を抑えるには、やはり伝統的な権威が必要と考えられ、足利持氏の遺子・成氏(しげうじ)が鎌倉公方に迎えられ、鎌倉府が復活する。

再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が、父の反対を押し切り関東管領に就任し成氏を補佐し始めたが、成氏は持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、(親の仇と思い)上杉氏を遠ざけ始めた
当然、憲忠は彼ら成氏派(反上杉派)に反発した。

関東管領を務めた山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清(太田道灌の父)らは、結城氏等の進出を阻止するため、宝徳2年(1450年)に成氏を攻めた(江の島合戦)。
この合戦は間もなく和議が成立したが、これにより鎌倉公方と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった。
上杉憲忠は、足利成氏により景仲方の武士の所領が没収されたことを契機に、成氏景仲ら憲忠家臣団との対立は所領問題に発展した。

そこで、上杉氏は新たに、公方として、足利政知(将軍・足利義政)の弟を招聘する。
しかし、政知は鎌倉に入ることが出来ずに山内上杉家が守護を兼ねていた伊豆の堀越(伊豆の国市)に留まって堀越(ほりごえ)公方と名乗った。
そして、ほどなく足利成氏は、鎌倉を出て、梁田・里見・結城・宇都宮などの豪族と結んで、下総の古河(こが)城に移った。
これ以降、古河の足利成氏を古河公方、堀越の足利政知を堀越公方と呼んだ。
関東の諸豪族も、二派に分かれて争い合ったのである。
◆勢力地図 2(1455~1477年)はコチラ 

延徳元年(1489年)、古河公方は、足利政氏が父・成氏から譲位され家督を継承する。
第2代古河公方の足利政氏(在籍1489~1512年)は、長享の乱(1487~1505年)においては、当初は扇谷上杉家を支持したが、上杉定正の死去(1494年)により扇谷上杉家が弱体化すると山内上杉家支持に転換した。
◆勢力地図 3(1478~1493年)はコチラ 

足利政氏は、明応5年(1496年)の武蔵柏原合戦(埼玉県狭山市)で山内上杉顕定と共に扇谷上杉朝良と戦った。
永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦い(東京都立川市)では伊勢盛時(北条早雲)今川氏親とも戦っている。

政氏は、永正2年(1505年)の両上杉氏和解後、弟の顕実を関東管領・山内上杉顕定の養子に入れたが、これをきっかけに嫡子・高基と対立、一時は和解したが、永正7年(1510年)の顕定敗死後の後継ぎを巡り、再び対立。
さらに次男・義明とも対立し、小弓御所として独立されてしまう(永正の乱)。
そして、簗田氏や宇都宮氏に支持された足利高基(第3代古河公方/在籍1512~1535年)との争いにも敗れ、古河城を失い、小山氏に身を寄せる。
政氏は、高基に公方の位を譲り、出家し道長と号し、小山氏の庇護も受けられなくなり扇谷上杉朝良を頼って武蔵久喜の館に引退した。

政氏は、太田道灌謀殺後の両上杉氏の対立に際し、父成氏の路線を引き継ぐ事により、関東における武家の棟梁たる地位の維持に努めようとしたが、その路線が裏目に出て、自身が息子達と対立する事態に陥ってしまった。
そして、その間に後に古河公方家を没落させる事になる北条氏が関東に着々と進出してくるのである。
◆勢力地図 4(1494~1505年)はコチラ 

京都の室町幕府では、管領につく家柄として、斯波・細川・畠山の三氏だったのに対し、鎌倉府の関東管領は、上杉氏一族で独占された。
その理由として、上杉氏は足利尊氏の実母の実家という姻戚関係があった。
しかしながら、上杉家も、山内(やまのうち)・犬懸(いぬがけ)・扇谷(おうぎがやつ)などの同族間で反目し合っていた。

応永年間には、犬懸上杉禅秀(氏憲)が関東管領になって権勢を誇ったが、鎌倉公方・足利持氏と対立して滅ぼされた(上杉禅秀の乱)。
その後は、山内上杉家が台頭して、越後・上野・伊豆などの守護職を掌握し、関東管領職を独占した。
分家的存在の扇谷上杉家は、相模・武蔵の大部分を領国とした。
そして、山内上杉家の家宰(家老)は、長尾氏が担当し、その一族は分国の守護代に任じられた。
上杉謙信の父・長尾為景も、山内上杉家の分国・越後の守護代であった。
対して、扇谷上杉家の家宰(家老)は、太田氏が務めた。
江戸城築城で有名な太田道灌も、扇谷上杉家の家宰(家老)であった。

文明8年(1476年)、関東管領・山内上杉顕定の重臣・長尾景春顕定との確執から突如謀反の兵を挙げると、山内上杉軍は危機に陥る。
これを救ったのは同族の扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(太田資長)である。
太田道灌の活躍で景春の反乱自体は鎮圧されたものの、関東管領である顕定と山内上杉家の権威は落ち込み、逆に、道灌の主君である扇谷上杉家の上杉定正の権威が高まった

これを憂慮した山内上杉顕定は、扇谷上杉定正に対して、道灌の才覚はやがて上杉一門を危機にさらされると警告して定正の猜疑心を煽る一方、古河公方・足利成氏との和解に踏み切って、秘かに扇谷上杉定正との戦いの準備を進めていた。
やがて、扇谷上杉定正道灌を遠ざけるようになり、道灌も万一に備えて息子資康足利成氏への人質に差し出した。
◆勢力地図 2(1455~1477年)はコチラ 

文明18年7月26日(1486年8月25日)、相模国の糟谷館(神奈川県伊勢原市)にいた扇谷上杉定正の元に出仕していた道灌定正の配下によって暗殺されてしまう。
その後、太田資康は江戸城に戻り家督を継承したが、扇谷上杉定正は間もなく江戸城を占領して資康を追い出す(江戸城の乱)。
扇谷上杉家の支柱として内外の信望が高かった道灌の暗殺は、扇谷上杉家中に少なからず動揺を与えた。
(相模三浦氏では当主の三浦高救定正の実兄)が扇谷上杉定正に代わろうと図って、先代当主である養父三浦時高に追放されるという事件が発生している。)

この機を狙って、翌長享元年(1487年)、山内上杉顕定と実兄の上杉定昌(越後守護・上杉房定の長男/山内上杉顕定の兄)は、扇谷上杉家に通じた長尾房清の下野国の勧農城(栃木県足利市)を奪い、ここに両上杉家の戦いが勃発したのである。

長享2年(1488年)に入ると、山内上杉顕定は、実父の越後守護・上杉房定の支援を受けて、2月に太田資康三浦高救とともに本拠のある武蔵国の鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)を1000騎で出発、一気に扇谷上杉定正の本拠地・糟谷館(神奈川県伊勢原市)を制圧しようとした。
ところが、定正は留守を兄の朝昌定正の養子・朝良の実父)に任せて、同じ武蔵の河越城(埼玉県川越市)に滞在しており、直ちにわずか200騎でこれを追跡、糟谷館郊外の実蒔原(さねまきはら/神奈川県伊勢原市)で顕定軍に奇襲攻撃をかけた。
予想外の奇襲に顕定軍は敗れたものの、定正側も朝昌の居城の七沢城(神奈川県厚木市)を失った。
さらに3月には上野国の白井城(群馬県渋川市)に滞在していた上杉定昌(越後守護・上杉房定の長男/山内上杉顕定の兄)が自害を遂げており、扇谷上杉氏や長尾景春方の襲撃の可能性も否めない。

憤慨した顕定は6月に今度は河越城を襲おうとするが、今度は先に顕定に反逆して逃亡していた長尾景春足利政氏成氏の子、父の隠居後に古河公方を継ぐ)の援軍を引き連れて定正軍に加勢し、須賀谷原(すがやはら/埼玉県嵐山町)で衝突し、またもや定正軍が顕定軍を退けた。
11月には今度は定正軍が鉢形城に攻め寄せたため、顕定軍は高見原(埼玉県小川町)・鷹野原(埼玉県寄居町)で迎え撃ったが三たび敗北。

山内・扇谷両上杉の軍勢が激突した実蒔原・須賀谷原・高見原(鷹野原を含む)の3つの戦いを俗に「長享三戦」と呼び、いずれも扇谷上杉陣営の勝利に終わったが、太田道灌誅殺後の武将の離反は続き、逆に連敗した山内上杉陣営は後方に越後・上野国両国を有しており、その支援によって鉢形城を保ち続けていた

その後、上杉氏は古河公方と和睦し、堀越公方の支配圏は伊豆1国のみに限定され、公方の足利政知は延徳3年(1491年)に病死した。
それから、堀越公方内部に内紛が生じ、その間隙を縫って駿河今川氏の客将であった興国寺城城主・伊勢宗瑞(北条早雲)が、明応2年(1493年)に将軍足利義遐(堀越公方家出身で正式な就任は翌年)の命を奉じて伊豆に侵攻して堀越公方・足利茶々丸を駆逐、堀越公方から同国を奪ったのである。
この伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆討入りには、定正黒幕説がある。
◆勢力地図 3(1478~1493年)はコチラ 

ところが、明応3年(1494年)に定正の名代として相模の東西半分ずつを支配していた三崎城の三浦時高(9月23日)と小田原城の大森氏頼(8月16日)が相次いで亡くなり、その後継を巡って三浦・大森両氏は内紛状態に陥った。
さらに10月2日には鉢形城上杉顕定を討つために伊勢宗瑞(北条早雲)の援軍ともに出陣していた扇谷上杉定正が荒川渡河中に落馬して死亡したのである。
扇谷上杉家は養子の朝良が継承したが定正の死が戦況を大きく変えることになった。

まず、定正生存中から関係が悪化していた古河公方・足利成氏山内上杉顕定側に支持を変え、一方、相模三浦氏では三浦高救の養子・義同が内紛に勝って家督を継いだ。
このため、実父・三浦高救や婿の太田資康義同の口添えで扇谷上杉家に復帰したのである。
なお、10月17日には顕定の実父である越後守護・上杉房定が病死して顕定の実弟上杉房能が継承している。

永正元年(1504年)8月22日、山内上杉顕定は、扇谷上杉朝良の拠点である河越城の攻撃を開始するが、らちがあかないと見るや今度は南の江戸城を攻撃しようとした。
ところが途中で伊勢宗瑞(北条早雲)今川氏親と連合して武蔵国に向けて進軍中との情報を入手して武蔵国の立河原(東京都立川市)に軍を結集した。
9月27日上杉顕定・足利政氏連合軍と上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞(北条早雲)連合軍が立河原で激突し、上杉顕定側は2千人以上の戦死者を出して敗走した。

ところが、この報聞いた越後守護・上杉房能は兄の顕定を救うべく、守護代・長尾能景鉢形城に派遣して11月に今川・北条の援軍が撤退して守備が手薄となった河越城を攻撃し、その勢いで椚田城(東京都八王子市)と実田城(神奈川県平塚市)を攻め落とした。

永正2年(1505年)3月、再度顕定の軍勢に河越城を包囲された扇谷上杉朝良は降伏。
顕定はかつての戦場であった須賀谷原近くの菅谷館に朝良を幽閉して出家させ、朝良の代わりに甥の上杉朝興を当主に立てることを扇谷上杉家臣団に強要したが、扇谷上杉家臣団の反発が強く、また、古河公方・足利政氏と嫡男高基との不仲が表面化すると、顕定も方針転換をせざるをえず、朝良が解放されて河越城に戻ると直ちにこの話は無かった事とされた。
その後、永正4年(1507年)には、顕定の養子・上杉憲房朝良の妹の婚姻が成立して山内・扇谷両家の同盟関係が復活したのである。
◆勢力地図 4(1494~1505年)はコチラ 

関東の戦国時代初期のキーパーソンと言えば、伊勢新九郎盛時(北条早雲)
彼の登場で、旧勢力と新勢力の対決の図式がスタートする。

京都・室町幕府の家臣であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)と関東のつながりは、妹の北川殿が駿河守護・今川義忠と結婚した事が発端となる。
その北川殿龍王丸(今川氏親)を産み、その後今川氏の家督争いが起こり、伊勢盛時(北条早雲)は駿河に下向して調停した。
しかし、再び駿河で家督争いが起き、長享元年(1487年)、伊勢盛時(北条早雲)は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐し、駿河館を襲撃して小鹿範満とその弟小鹿孫五郎を破る。
龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り、正式に今川家当主となる
その功により、伊勢盛時(北条早雲)は伊豆との国境に近い興国寺城(静岡県沼津市)に所領を与えられた。
駿河へ留まり、今川氏の客将となった伊勢盛時(北条早雲)は甥である氏親を補佐した。
この頃に伊勢盛時(北条早雲)は幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれている。

明応2年(1493年)、早雲が堀越公方・足利政知の子である茶々丸(11代将軍足利義澄の兄弟)を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った
明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正伊勢盛時(北条早雲)に援軍を依頼。
定正伊勢盛時(北条早雲)は荒川において、山内家当主で関東管領・上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、伊勢盛時(北条早雲)は兵を返した。

明応4年(1495年)には、茶々丸の討伐・捜索を大義名分として甲斐に出兵し、守護・武田信縄と交戦。
そして、扇谷上杉家の家臣で、相模国・小田原城主だった大森藤頼を計略にかけ、小田原城を奪取した
小田原城は後に北条氏の本城となるが、伊勢盛時(北条早雲)は終生、伊豆韮山城を居城としている。
明応6年(1497年)には伊豆を完全に平定し、明応7年(1498)は甲斐で茶々丸を捕え殺害した。
伊勢盛時(北条早雲)今川氏親は連携して領国を拡大していった。

伊勢盛時(北条早雲)の今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501~1504年)には三河にまで進んでいる。
文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城下にて松平長親徳川家康の高祖父)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。

前述のように、長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内(やまのうち)上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。
この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)関東地方進出を許す結果となった。
◆勢力地図 4(1494~1505年)はコチラ 

解説一覧 第2回(1506~1535年)へ
ページ上部へ戻る