年 | 出来事/人物 | 結果 | 出来事/人物 | 補足 | 勢力地図 | |
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永享10 | 1438 | 足利持氏(もちうじ)を諌めていた関東管領・上杉憲実が、身の危険を感じ、領国の上野に戻る | 対立 | 6代将軍は自分だと思っていた、4代鎌倉公方・足利持氏が将軍家に反抗 | 永享の乱 | |
11 | 1439 | 第6代将軍・足利義教(よしのり)は、上杉憲実と結託し、関東の諸大名に持氏包囲網を号令し、持氏討伐の勅令を奉じて朝敵に認定し、関東討伐を実行。 その後、6代将軍・足利義教は、関東に自己の勢力を広げていくために実子を新しい鎌倉公方として下向させようとしたが、この時点では、上杉氏の反対にあって頓挫している。 |
鎌倉公方・足利持氏は大敗して剃髪、恭順の姿勢を示したが、将軍・義教は上杉憲実の助命嘆願にも拘らず持氏を自刃させる。→鎌倉府の滅亡 永寿王丸(2歳/後の足利成氏)は、母方の信濃の豪族・大井持光のもとに逃げ、兄の春王丸(10歳)と安王丸(8歳)は、下総国・結城城の結城氏朝(うじとも)に保護された。 |
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この年、関東管領・上杉憲実が、日本最古の総合大学「足利学校」を再興。 | ||||||
12 | 1440 | 室町幕府は、討伐のため総大将・上杉清方や、今川範忠、小笠原政康などを派遣。 | 結城氏朝が、足利兄弟(春王丸・安王丸)を擁して挙兵。 後に、永寿王丸(3歳)も加わる。 |
結城合戦 | ||
嘉吉1 | 1441 | 幕府軍。 | 結城城を包囲され、結城氏朝討死。 | |||
持氏の遺児の三兄弟は、京都に送られる事になったが、将軍・義教の命により、途中の美濃で、春王丸(12歳)・安王丸(10歳)が殺害される。永寿王丸(4歳)は、幼年のため死を免れ、京都に届けられた。 | ||||||
京都において結城合戦の祝勝会の名目で招かれた将軍・義教が、家臣である播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(みつすけ)に暗殺された。→赤松満祐は、その後、幕府軍に討たれる。→将軍・義教が亡くなった事により、永寿王丸が赦免される。 | 嘉吉の乱 | |||||
文安 5 | 1448 | 憲実の長男・上杉憲忠が山内上杉家当主と関東管領に就任 | ||||
宝徳 1 | 1449 | 持氏の遺児である永寿王丸が京都から鎌倉へ移り、元服し、足利成氏(しげうじ)(12歳)を名乗り、鎌倉公方となる(鎌倉府の復活)。 | ||||
成氏は永享の乱で父を殺された経緯から憲実とその息子を激しく恨んでいた。 | ||||||
2 | 1450 | 山内上杉家の家宰・長尾景仲(憲忠の舅)は、扇谷上杉家当主上杉持朝と共謀して成氏を攻め滅ぼそうとしたが失敗し、逆に反撃を受けてしまう。 | 第5代鎌倉公方・足利成氏 | 江の島合戦 | ||
関東管領・上杉憲忠は直接この事件には関与していなかったが、家臣の責任を負う形で相模七沢に蟄居を余儀なくされた。 | ||||||
享徳 3 (12月) |
1455 (1月) |
関東管領・上杉憲忠を殺害 | 鎌倉公方・足利成氏 | 享徳の乱勃発(~1483年) | ||
山内上杉邸を襲撃し、長尾実景も殺害 |
里見氏、武田氏(成氏側近) |
・・・幕府方を味方に付ける上杉氏一族VS古河公方 | ||||
享徳 4 (3月) |
1455 |
憲忠の死後、弟・上杉房顕が関東管領に就任、従弟の越後守護上杉房定(房朝の従弟で養子)と合流して上野平井城に入った。 |
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享徳 4 (6月) |
1455 | 成氏は宇都宮等綱を降すなど各地を転戦していたが、本拠地鎌倉を駿河守護・今川範忠により占拠されたため、成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総古河に入った。以後成氏は古河城を本拠地とし古河公方(こがくぼう)と呼ばれた。
※結果、関東は利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になる。 上杉氏の領国だった上総と安房は成氏派の武田信長、里見義実に攻められ、占領された。 |
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康正 2 | 1456 | 太田資長(道灌)が、家督を継ぎ、扇谷上杉家の家宰となる。 | ||||
長禄 2 | 1458 | 第8代将軍・足利義政は成氏への対抗策として、前年に還俗させた異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。 | 享徳の乱 | |||
政知には山内上杉家など、多くの家臣がいたが、実権は全て幕府に握られており、関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆の堀越に入り、堀越公方と呼ばれた。 古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との争いは、幕府から派遣された堀越公方・足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)との抗争にも拡大! |
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3 | 1459 | 関東管領・上杉房顕 | 古河公方・足利成氏 | 享徳の乱(太田庄の戦い) | ||
関東管領・上杉房顕は、五十子(いらこorいかつこ/埼玉県本庄市五十子)に城砦を築いて持朝・房定・教房・政藤ら一族の主だった者たちを結集させた。これを知った足利成氏は出撃した。10月14日、両軍は近くの太田庄(埼玉県熊谷市)で交戦した。この結果、上杉教房が戦死するなど、成氏側の勝利。 以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで約18年にわたって睨み合った(五十子の戦い)。 |
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寛正 7 | 1466 | 関東管領・上杉房顕、五十子で病に倒れて陣没。 | 享徳の乱 | |||
これに対して幕府は上杉房定(越後・信濃守護/上条上杉家の上杉清方の子で上杉房朝の養子、定昌・顕定・房能の父)の次男を房顕の養子として後を継がせるように命じ、上杉顕定が後継者となった。 | ||||||
応仁 1 | 1467 | 第8代将軍・足利義政の後継争いなどが要因で、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(宗全)らの有力守護大名の二大勢力が激突。九州など一部の地方を除いて全国に波及した。11年に及ぶ乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけのひとつとなる。主要な戦場となった京都は廃墟と化した。 | 応仁の乱(~1477年)勃発 | |||
文明 8 | 1476 | 足利成氏と対峙している中、山内上杉家の武将・長尾景春が反旗を翻す | 享徳の乱のさなか長尾景春の乱(~1480年)勃発 | |||
五十子陣で山内家家宰の長尾景信(白井長尾家)が死去した。白井長尾家の家督は子の景春が継いだが、家宰職は当主上杉顕定が景春の叔父で惣社長尾家の長尾忠景に与えた。景春はこれを深く恨み、乱を起こす。 | ||||||
9 | 1477 | 関東管領・山内上杉顕定+扇谷上杉定正は上野に逃亡 | 長尾景春が五十子陣を急襲、勝利 その後、関東各地で合戦 |
長尾景春の乱 | ||
西軍解体により、11年に及ぶ京都での戦闘が終わる。勝敗がつかないまま終わり、戦後罪に問われる守護もなかった。 | 応仁の乱(1467年~)終息 | |||||
10 | 1478 | 長尾景春の乱のさなか、戦いに飽きた足利成氏が、この上杉家の内紛を利用して、少しでも有利な条件で和睦をしようと打診してきた。 | ||||
12 | 1480 | 扇谷上杉家の家宰・太田道灌の活躍により、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)で勝利。 | 長尾景春が足利成氏を頼って落ち延びた | 長尾景春の乱、太田道灌の活躍により終わる | ||
14 (11/27) |
1483 (1/6) |
山内上杉顕定+扇谷上杉定正 | 和議 | 古河公方・足利成氏 | 享徳の乱、終わる | |
「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。成氏は幕府から赦免された。 これによって成氏が引き続き関東を統治する一方で、伊豆の支配権については政知に譲ることになった。 同時に景春の没落によって30年におよんだ関東の争乱は終わった。だが、この和睦は山内家と越後上杉家が主導したものであり、扇谷上杉家の当主定正は不満であった。太田道灌も充分な恩賞がないと感じた。また、この戦いの第一の功労者、道灌の勇名は広まり、主筋である扇谷上杉定正は不安を感じ始める。 |
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18 | 1486 | 扇谷上杉定正が、家宰・太田道灌を暗殺 | 扇谷上杉家内の動揺が広がると同時に、勢力が少しずつ衰えていった。 | |||
19 | 1487 | 関東管領・山内上杉顕定 | 扇谷上杉定正 | 長享の乱勃発(~1505年) ・・・山内上杉家の上杉顕定(関東管領)VS扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良) |
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上杉顕定と実兄の定昌(越後守護)は、扇谷上杉家に通じた長尾房清の下野国の勧農城(栃木県足利市)を奪い、ここに両上杉家の戦いが勃発。 この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東進出を許す結果となった。 | ||||||
延徳 1 | 1489 | 古河公方は、足利政氏が父・成氏から譲位され家督を継承 | ||||
古河公方・足利政氏は、長享の乱(1487~1505年)においては、当初は扇谷上杉家を支持したが、上杉定正の死去(1494年)により扇谷上杉家が弱体化すると山内上杉家支持に転換した。 | ||||||
明応 2 | 1493 | 伊豆の堀越御所の足利茶々丸を襲撃 | 伊勢盛時(北条早雲)が伊豆討ち入り | |||
3 | 1494 | 関東管領・山内上杉顕定 | 扇谷上杉定正+伊勢盛時(北条早雲) | 武蔵国の高見原(埼玉県小川町)にて | ||
荒川で落馬して、扇谷上杉定正が死去。援軍に来ていた伊勢盛時(北条早雲)は兵を退いた。 古河公方・足利政氏は、ここまでは扇谷上杉家を支持していた、これから後は、山内上杉家の支持に転換。 |
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4 | 1495 | 扇谷上杉家家臣・大森藤頼(小田原城城主) | 伊勢盛時(北条早雲)が、小田原城を奪取 | |||
5 | 1496 | 関東管領・山内上杉顕定+古河公方・足利政氏 | 扇谷上杉朝良 | 武蔵柏原合戦(埼玉県狭山市) | ||
6 | 1497 | 前・古河公方の足利成氏死去 | 伊勢盛時(北条早雲)が伊豆を平定 | |||
7 | 1498 | 足利茶々丸死亡(堀越公方の滅亡) | 伊勢盛時(北条早雲)が甲斐で足利茶々丸を殺害 | |||
文亀 4 | 1504 | 関東管領・山内上杉顕定+古河公方・足利政氏 | 扇谷上杉朝良・今川氏親・伊勢盛時(北条早雲)の連合軍 | 立河原の戦い | ||
永正 1 | 上杉顕定は上杉朝良の拠点である河越城(埼玉県川越市)の攻撃を開始し、さらに南の江戸城を攻撃しようとした。ところが伊勢盛時(北条早雲)が今川氏親と連合して進軍中との情報を入手して武蔵国の立河原(東京都立川市)に軍を結集して激突した。この立河原の戦いで上杉顕定側は2000人以上の戦死者を出して敗走した。 | |||||
2 | 1505 | 関東管領・山内上杉顕定 | 扇谷上杉朝良 | 長享の乱終わる | ||
永正2年(1505年)3月、再度顕定の軍勢に河越城を包囲された上杉朝良は降伏を表明した。戦後、朝良の処遇は二転三転したが、結局、扇谷上杉家の当主をそのまま継続した。 |
群雄割拠の幕開け/戦国時代は関東から始まった!(1438~1505年)
・関東管領上杉氏の内紛
・北条早雲の出現 解説を見る