年 | 越後上杉家/長尾家 (越後) |
山内上杉家/扇谷上杉家 (関東) |
後北条家 (越後) |
その他 | 勢力地図 | |
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永正3 | 1506 | 【永正の乱勃発~越後国の内乱】(1506~1514年)般若野(富山県砺波市)の戦いで長尾能景(よしかげ)が戦死したため、子の為景(18/謙信の父)が長尾氏の家督を継ぎ越後守護代となる。 |
この年から永正5年までの3年間、駿河今川家の客将・伊勢盛時(北条早雲)(75)率いる今川軍が三河へ侵攻して、松平長親(長忠)と戦った。
さらに早雲は相模で検地を実施する(関東進出の布石)。 ※盛時の妹は駿河の守護・今川義忠の側室 |
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4 | 1507 | 8月、山内上杉家一族である越後上杉家の出身の越後守護・上杉房能(34/ふさよし)は、長尾為景(19)の謀反を疑っていたところ、逆に為景は越後府中(上越市の直江津)の房能を襲撃、天水越(十日町市)で房能を自刃させた。 | 伊勢盛時(76)は長尾為景(19)や長尾景春(65)と結んで関東管領・上杉顕定(54/越後上杉家の出身で山内上杉家当主)を牽制した。 |
室町幕府の三管領(斯波、畠山、細川)の一人、管領・細川政元(細川氏本家・京兆家の生まれ)が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺される(永正の錯乱)。享年42歳。将軍をしのいで事実上の最高権力者となり「半将軍」とも呼ばれていた。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元(1430~1473年)。
武田信玄の実父、武田信虎(14/初名は信直)、甲斐の守護・武田家の家督を継承 |
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5 | 1508 | 上杉房能の養子である上条上杉家出身の上杉定実(31/さだざね)が越後守護となった。実際は為景(20)の傀儡。 | 10月4日、武田信直(信虎)(15)が坊峰合戦(笛吹市境川村)において信直の叔父・信恵を破り、武田宗家の統一達成。 | |||
6 | 1509 | 定実(32)・為景(21)は越中・佐渡へ敗走。 顕定(56)は府内(越後府中)を制圧。 |
7月、房能の実兄である関東管領・上杉顕定(あきさだ/山内上杉家当主)は、養子の憲房(のりふさ/関東管領・上杉憲実の三男・周清の子)とともに、上野から越後に侵攻。 |
早雲(78)は、この頃により今川家から独立したようで、以後は関東進出を本格化させる。 8月、この隙を突いて早雲(78)は扇谷上杉朝良(37/ともよし)の本拠地・江戸城に迫った。上野に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出る。 |
【永正の乱~古河公方家の内紛】(1509~1518年)古河公方・足利政氏(48)と嫡男の高氏(25/後の高基)が古河公方の地位を争う。永正6年の対立では上杉顕定の調停で和解。 | |
7 | 1510 | 長尾為景(22)は、佐渡の軍勢を加え長森原(南魚沼市)の戦いで、援軍の高梨政盛(信濃国中野の武将/為景と縁戚関係)の活躍により、上杉軍を圧倒。 |
関東管領・上杉顕定(57)敗死。 顕定の養子(古河公方・足利成氏の次男、足利政氏の弟)である上杉顕実(生年不詳/あきざね)が関東管領を継承。 山内上杉家の弱体化進む。 両上杉家の共通の敵である早雲を討つべく扇谷上杉朝良(38)は、反目し合っていた山内上杉憲房(44)と共闘。 憲房は成田親泰・藤田虎寿丸・大石顕重・長尾景長らを派遣し、両上杉軍が結託して北条・上田軍の守る権現山城を攻める。 |
6月、関東管領・上杉顕定敗死の報を聞いた早雲(79)は、扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、相模国の東の要衝・権現山城(横浜市神奈川区幸ヶ谷)に配した。 7月、早雲は、駿河の今川氏親(40)らに援軍を得て早雲自らも後詰めに出陣したが、数に勝る両上杉軍に敗退。 早雲は、両上杉氏と和睦。 |
武田信直(信虎)(17)、甲斐東部郡内地方の領主・小山田氏を従属させ、当主の小山田信有(越中守信有)に実妹を嫁がせて講和し、郡内へ近い勝沼には実弟・勝沼信友を配した。 それまで対立の調停役だった顕定死後、山内上杉家の後継をめぐり、古河公方・足利政氏(49)と嫡男の高氏(高基)(26)の対立再燃。 古河公方・政氏の弟が、上杉氏に入籍して上杉顕実(あきざね)と名乗り関東管領職に就いた事が背景。 政氏に岩城常隆・由隆父子・佐竹義舜・小山成長が、高基に宇都宮成綱・結城政朝が加わり、関東各地で戦闘が続発した。 足利政氏・上杉顕実派は武蔵鉢形城、足利高基・上杉憲房派は上野平井城を拠点とした。 さらに政氏の次男・義明が下総で小弓公方(おゆみくぼう)として独立してしまう。 |
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8 | 1511 | 以前より増して、越後の国政は守護・上杉定実(34)から守護代・長尾為景(23)に完全に移行 | ||||
9 | 1512 |
越後守護・上杉定実派と、実際の権限を握る守護代・長尾為景派の不和が表面化。 |
【永正の乱~山内上杉家の内紛】(1512~1515年) 関東管領職は顕定の養子である上杉顕実(生年不詳/足利政氏の弟)が継承していたが、同じく養子である上杉憲房(46)はこれを不服とし横瀬景繁・長尾景長らの支援を受け家督を争う。 顕実は実兄の古河公方・足利政氏に援助を求めるが、憲房は足利高基(政氏の子で顕実の甥)を味方につけ対抗し、古河公方を巻き込み関東は2分された。 扇谷上杉家当主・上杉朝良(40)は仲裁に動いたが失敗。 上杉顕実は長尾顕方や成田顕泰らの支援を受けて武蔵鉢形城に入ったが、横瀬景繁・長尾景長らに攻められて敗北。山内上杉家当主の座を失い兄・足利政氏を頼って古河城へと逃亡した。 |
北条早雲(81)は和議を破棄、扇谷上杉方の岡崎城(伊勢原市)を攻略
その隙を狙って北条早雲(伊勢宗瑞)に相模を侵略していく。 |
足利高基(28)は、岳父・宇都宮成綱を中心に、結城政朝、小田政治などの支援によって、第3代古河公方となり、扇谷上杉家や山内上杉家と対抗して、勢力拡大に奔走した。 | |
10 | 1513 | 9月、上杉定実派が長尾為景派を急襲 | ||||
11 | 1514 | 5月、六日町合戦において為景(26)が定実派を討死させ、以後、実権は長尾為景の手中に | ||||
12 | 1515 | 上杉顕実の死によって、「永正の乱~山内上杉家の内紛」が終焉。 関東管領職も上杉憲房(49)が継いだが、この内紛で弱体化した山内上杉家は長尾景春(73)の離反を招き、朝良の甥、武蔵国の戦国大名で扇谷上杉家の当主・上杉朝興(28/ともおき)や相模北条氏の北条氏綱、甲斐武田氏の武田信虎(22)などと争うこととなる。 | 氏康(幼名・伊豆千代丸)、小田原城で誕生 | |||
13 | 1516 | 9月、為景(28)が越中守護代・神保慶宗と合戦~永正3年の般若野の戦いで父・能景を失った為景は、その原因は慶宗の裏切りと捉えていた。 | 北条早雲(85)が、扇谷上杉家出身の三浦義同(同寸)(66/よしあつ)の新井城(三浦市)を攻略し相模を平定。 上総の真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り、翌年まで転戦。 | 縄釣の戦いで宇都宮成綱が、足利政氏方の佐竹義舜を破ったことによって、足利高基(32)が名実ともに古河公方となった。後に山内上杉家とは和解して次男の晴直(上杉憲寛)を同家の養子としている。宇都宮成綱没後も嫡子の忠綱との関係も良好であったことが忠綱に宛てた書状から確認できる。晩年には嫡男の晴氏とも対立している | ||
14 | 1517 | |||||
15 | 1518 | 能登守護・畠山勝王が、為景(30)に越中一向一揆討伐の支援を求める。 | 扇谷上杉朝良(46)が死去し、養子の上杉朝興(31/ともおき)が家督を継承。 |
早雲の嫡男・氏綱(32)が、早雲の隠居により家督を継ぎ、当主となる。 これをきっかけに古河公方家の没落が始まり、北条氏が関東に着々と進出する環境が整っていく。 |
【永正の乱~古河公方家の内紛】(1509~1518年)の終焉~足利高基(34)が父・足利政氏(57)を出家させ、武蔵国久喜の館に隠居することで収束した。 | |
16 | 1519 | 紀伊・河内・越中の守護・畠山尚順(45/はたけやまひさより)が、猶子・畠山勝王を大将とし、同族の能登守護・畠山義総と長尾為景(31)を誘い、謀反を起こした神保慶宗(生年不詳)の討伐へ | 北条早雲(伊勢盛時)(88)、韮山にて死去 ※生存中は「北条早雲」の名は使われていない |
5月19日、後の駿河・遠江の守護大名・今川義元が誕生 | ||
17 | 1520 | 義総・為景連合軍に敗れ、神保慶宗、自刃 | ||||
大永1 | 1521 | 4月、為景(33)は越中の一向一揆を治めるため出陣。 12月、畠山尚順(47)が為景の越中平定の功を認め同国の新川郡守護代に任命。 |
武田信直、信虎に改名。 12月1日、武田信虎(28)の嫡男として信玄誕生。幼名・太郎。 |
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2 | 1522 | |||||
3 | 1523 | 二代目の氏綱(37)が伊勢氏から北条氏に改称→鎌倉時代の執権・北条家を名乗り、権威を創出しようとした。 | 毛利元就(27)が毛利家を継ぐ | |||
4 | 1524 | 信濃国中野(長野県中野市)を拠点としていた高梨政頼(政盛の孫)が為景(36)に援軍を請う | 扇谷上杉朝興は、甲斐の武田信虎に呼びかけ、相模北部の津久井郡を攻めた。 |
武田信虎(31)は、扇谷上杉朝興や山内上杉憲房とも和睦を結び、北条氏綱包囲網に加わった。 | ||
5 | 1525 | この頃、長尾為景(37)は関東上杉方の誘いを拒否し、北条氏綱と盟約 | 第3代古河公方・足利高基の次男・足利晴直(はるなお・はるただ)は、大叔父(祖父・政氏の実弟)の上杉顕実との争いに勝利して山内上杉氏の家督と関東管領職を継いでいた上杉憲房(当時は男子がいなかった)の養嗣子となり、上杉憲寛(のりひろ)を名乗る。 この年、憲房が死去したが、実子の憲政は幼少だったことから、跡を継いで関東管領となった。 |
北条氏綱(39)が、越後の長尾為景(37)と盟約結ぶ。 両上杉家と武田家による、北条包囲網に対抗するためである。 |
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6 | 1526 | 越後守護代・為景(38)の嫡男、長尾晴景(謙信の兄)が誕生 | 北条家の唯一の同盟者・今川家では、この年、今川氏親が没し、嫡男・氏輝(14)が跡を継いだ。 | |||
7 | 1527 | |||||
享禄1 | 1528 | |||||
2 | 1529 | |||||
3 | 1530 | 1月21日、竹の俣(南魚沼市)にて謙信誕生。幼名・虎千代。長尾為景(42)、虎御前(長尾顕吉の娘)の三男。 10月、上条城(新潟県柏崎市)主・上条(じょうじょう)定憲が、長尾為景に反乱を起こす※上条氏は越後守護・上杉定実の実家で、定憲は定実の甥→上田長尾房長、宇佐美貞満(上杉氏被官)、中条藤資(なかじょうふじすけ)(揚北衆)などが「反・為景」で結集※税収を独り占めする為景に不満?→以降、天文5年(1536)まで内乱が続く |
北条氏康(16)が、初陣の小沢原の戦いで扇谷上杉朝興(43)に大勝した。 |
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4 | 1531 | 越後内乱 | 9月、関東管領・上杉憲寛(第3代古河公方・足利高基の次男)は、上杉憲政を支持する家臣らに攻められ、追放される。 上杉憲政(9)が、山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領に就任。 このため、古河公方と山内上杉家は、またもや不和状態に陥る。 |
関東管領職をはく奪された上杉憲寛は、古河に戻ることが出来ず、真里谷信政を頼って、小弓公方・足利義明の支配下にあった上総宮原に移住して、足利晴直に改名した。 |
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天文1 | 1532 | 越後内乱 | 甲斐の武田信虎は、領内の反抗する豪族たちを武力で圧倒し、甲斐の統一を達成。 | |||
2 | 1533 | 6月、上条上杉定憲が、越後北部、阿賀野川以北に割拠する国人豪族の揚北衆(あがきたしゅう)や、上田長尾家当主である長尾房長とともに再挙兵。 |
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3 | 1534 | 長尾為景軍×
上条定憲軍の戦闘続く。 |
尾張の織田信秀の嫡男・織田信長(幼名・吉法師)誕生。 大友義鑑(よしあき)が勢場ヶ原(せいばがはる)合戦にて大内義隆と引き分け。 |
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4 | 1535 | 越後内乱 |
扇谷上杉朝興(48)は 氏綱の甲斐遠征の隙に乗じて、相模中央部まで攻略。 |
今川氏輝(23)の要請に応えて、 北条氏綱(49)・氏康(21)親子は甲斐に出陣し、 武田信虎の弟・信友を討ち取る。 | 第3代古河公方・足利高基(51)死去。 第4代古河公方・足利晴氏は北条氏綱に接近。 |
旧勢力の内紛と新勢力の台頭/関東三英傑の誕生(1506~1535年)
・北条による関東侵攻の激化
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