第2回 関東戦国史~国別 比較年表
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第4回 三大戦国大名 比較年表
(1553~1560年)へ

【第3回】

関東勢力地図の激変/関東三英傑が国主へ(1536~1552年)

・甲斐・武田家から信玄登場!
・北条家の命運を握る氏康登場!
・関東管領が越後の景虎を頼る! 解説を見る
武田家 越後上杉(長尾)家 北条家 その他 勢力地図
天文5 1536 元服して、12代将軍・足利義晴より晴の偏諱を賜り晴信(16)と名乗る。
7月、今川義元の斡旋により、京都の公家、左大臣・三条公頼の娘である三条夫人(16)を正室に迎える。

11月、晴信、初陣で海ノ口(うんのくち)城(長野県南佐久郡南牧村海ノ口)へ。

12月末、父・信虎が8000の兵で落とせなった佐久の海ノ口城を、晴信がわずか300の兵による奇襲によって攻略し、初陣を飾る。
?駿
3月、虎千代(7)、上条の乱から避難させるため春日山城近くの林泉寺(新潟県上越市)に入れられる。

8月、越後の実質的国主・越後守護代の長尾為景(48)は、朝廷に申請して綸旨を受け巻き返し、上条定憲方を鎮圧→休戦の条件か、反乱を引き起こした責任を取ってか不明だが、為景は隠居する→長尾為景(48)は嫡男・晴景(28)に家督を譲る 同月、晴景の弟の虎千代(7)も元服させ、平三景虎と名乗らせた。※虎千代(謙信)は三条長尾氏の出身
以降、「守護・越後上杉定実+守護代・長尾晴景」の新体制に移行・・・
ただし、定実の実権回復はならず
北条氏綱は、花倉の乱では、梅岳承芳(ばいがくしょうほう)、後の今川義元を支持
?駿

3月17日、駿河の守護大名・今川氏輝(24)死去→二人の弟による相続争いの花倉の乱勃発→6月、太原崇孚/雪斎禅師(たいげんすうふ/せっさいぜんじ)の補佐により、義元(18)が今川家の当主となる  勢力地図7   勢力地図7   勢力地図7   勢力地図7 
6 1537 今川義元信虎の長女を正室とし甲駿同盟成立→信濃侵攻へ
?駿
2月、反北条の色彩の強い甲駿同盟に対抗するため、北条氏綱が駿河に出陣→富士川以東占拠
?駿×駿

7月、氏綱が、扇谷上杉家の河越城攻略→扇谷上杉氏は松山城(埼玉県比企郡吉見町)に本拠地移転
上総(かずさ)の里見義堯(よしたか)は、北条氏綱に単独で対抗することは難しいと考え、小弓公方の足利義明と同盟を結ぶ→真里谷信隆を攻めて降伏させた→里見義堯は、久留里城(千葉県君津市久留里)に本拠移転→上総南部に勢力拡大  勢力地図8   勢力地図8   勢力地図8   勢力地図8   勢力地図8   勢力地図8 
7 1538 晴信(18)の長子・義信誕生(三条夫人との子)
?駿
×
越後守護・上杉定実は、後継者である男子に恵まれず、血筋としてもっと近かった曾孫、伊達時宗丸(伊達政宗の大叔父)が候補に挙がった。しかし、時宗丸の父・稙宗(たねむね)は家格の違いを理由に固辞していた。・・・しかし、下越の揚北(あがきた)衆の実力者・中条藤資(なかじょうふじすけ)時宗丸の母方の伯父)が積極的に働き、養子縁組を軌道に乗せる。 第4代古河公方・足利晴氏が、北条氏綱と同盟(父の高基の代から敵対していた叔父で小弓公方を自称していた足利義明を滅ぼすため)

→10月7日、氏綱は小弓公方・足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦う(第一次国府台合戦)※現在の千葉県市川市
氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に大勝し、足利義明を討ち取って小弓公方を滅亡させた
→北条氏は、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功
→古河公方・足利晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任した(実際には上杉憲政が関東管領にも関わらず)
?古河公方


斎藤道三が守護代となり美濃の実権を掌握
8 1539 ?駿
養子縁組を巡り、越後国内は、賛成派と反対派に割れた
賛成派守護・上杉定実中条藤資(揚北衆)
反対派守護代・長尾晴景、揚北衆の大半(本庄氏、色部氏、竹俣氏など)・・・仮に、「越後上杉+伊達+中条」の縁戚連合ができれば、揚北衆は滅亡の危機を感じ取ったらしい
北条氏綱の娘が、古河公方・足利晴氏に嫁ぐ
?古河公方
×駿
9 1540 11月、武田晴信の妹、祢々(ねね)(13)が諏訪頼重に嫁ぐ
?駿
この頃、伊達氏との養子縁組を支持する中条藤資とこれに反対する本庄房長・色部勝長・鮎川清長の連合軍が争って揚北衆は分裂、独立性は衰退していく
10 1541 5月、武田信虎・晴信父子は、北佐久、南小県郡に出陣→諏訪頼重村上義清と協力し小県の滋野(しげの)一族を攻撃
海野氏(うんのうじ)の嫡男・海野幸義村上義清によって戦死→当主・海野棟綱や、真田幸隆は、上杉憲政の家臣、箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)主の長野業正を頼って上野に逃れる。

6月14日、武田晴信(21)が父・信虎を駿河に追放、国主の座に就く
7月4日、甲斐のクーデターの間隙をつき、上杉憲政は碓氷峠を越え、信濃佐久郡への出兵→諏訪の諏訪頼重晴信を侮り、単独で出兵→盟約関係にある武田・村上らに無断で憲政と和睦し、所領を分割する→晴信は裏切りと認識
?駿
7月19日、北条氏綱、病没。享年55。
北条氏康(27)が家督を継ぐ

10月、以前、氏綱に敗れた扇谷上杉朝定が、山内上杉家の上杉憲政と手を結んで、河越城を攻める
→北条の勝利
さらに今川軍との戦いも長期化。
×両上杉家
×駿
7月27日、ポルトガル船、豊後に漂着
11 1542 ※この頃、武田家の重臣・板垣信方が、城取り(築城術)に通じた駿河の牢人・山本勘助武田晴信に推挙
晴信、水害対策のため竜王堤の河よけ工事に着手。
時宗丸の養子縁組に対し、伊達家嫡男である伊達晴宗が反発し、養子縁組を推進する父・稙宗を幽閉し、破談とさせる(天文の大乱
→伊達氏側の内輪もめにより、養子縁組は自然解消
1月、防長両国の大名・大内義隆毛利元就などの諸勢力を引き連れて尼子氏に攻め込んだ(第一次月山富田城の戦い
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4月、祢々(ねね)御料人頼重の嫡男・寅王を出産
4月、守護・上杉定実は、守護代・長尾晴景と和睦→定実は実質引退を申し出た
6月、晴信高遠頼継と結び、諏訪に侵攻諏訪頼重が守る上原城(茅野市)を攻撃

→7月、頼重桑原城(茅野市)に逃げる
→一旦講和し、頼重を甲府へ移す
諏訪頼重を切腹させる大井貞隆はこれに乗じて長窪城を奪回)

9月、高遠頼継、諏訪の分領に不満、挙兵→晴信、頼重の遺児・寅王を擁して出陣→頼継を破り、上伊那郡に兵を進める

10月、晴信、諏訪全土を掌握→晴信は、自らを寅王の後見役とし、諏訪家の旧家臣を召し抱える
?駿
※守護代・長尾晴景は、父・為景とは違い、穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図った。しかし、主君である上杉定実の養子縁組問題で越後国内が乱れた際に中条氏らを抑えることはできず、その後も各地で叛乱が続いた。
揚北衆などは府内にも来ず、侮られ、さらに病弱だった事もあり、統率力、求心力が不足していた。
戦よりも芸事を好んだ人物でもあったらしい。






12月、長尾為景、病死→晴景の孤立化進む
6月、早雲寺が勅願寺となる
※勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことで、勅願寺になれば寺領が得られることもあり、戦国時代頃からは寺の側から働きかけて勅許をもらう例が多かった。

氏康(28)が、この年から翌年にかけて、一斉検地を行った























12月26日、三河国岡崎にて徳川家康(松平元信→元康)誕生。幼名・竹千代。父は弱小な一地方豪族(国人)である岡崎城主の松平広忠、母は於大の方
12 1543 1月、故・諏訪頼重の正室・祢々御料人(16)が病没(夫切腹のショックか?)

4月、晴信、板垣信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じ、翌5月には上原城を整備して入る


9月、小県郡へ侵攻し、同17日には長窪城(小県郡長門町)を攻囲し、大井貞隆は抗戦→家臣の相木昌朝芦田信守の内応にあい長窪城は開城、自身も捕えられ甲府へ連行される。また、貞隆に加勢した信濃佐久郡の望月一族も滅亡。
※武田家は知行100貫で山本勘助を召抱える予定であったが、晴信勘助の才を見抜き知行200貫とした→晴信が信濃国侵攻の際、勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明。勘助は加増され知行300貫となり、侍大将に任じられる。
?駿
揚北衆と呼ばれる下越に本拠を置く独立志向の強い国人領主らは、隙あらば中越、上越まで勢力を伸ばそうと狙っていた→
晴景は、揚北衆を抑えるべく、長尾景虎(14)を、林泉寺から出し、栃尾城(新潟県長岡市栃尾地区)に入城させる
景虎は出陣し、揚北衆の圧力に負けず、各地の反乱を鎮圧していった
景虎待望論が噴出してくる
景虎派古志長尾景信山吉行盛(三条城)、直江実綱(与板城)
晴景派上田長尾政景揚北衆の一部
※政景は、晴景、景虎兄弟の姉妹(後の仙桃院)を妻としていた。
※元来、上田長尾氏は山内上杉家の被官意識が強く、三条長尾氏(謙信)や古志長尾氏は国人意識が強かった。
真里谷武田家臣・後藤兵庫助が、北条氏の援軍を得て、真里谷武田家の属城・笹子城(城主・鶴見信仲)(千葉県木更津市笹子)を攻略・・・真里谷武田家の内紛 水野忠政没後の水野氏当主・水野信元於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた松平広忠於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。

8月25日、ポルトガル船、種子島に漂着→ポルトガル人により鉄砲伝来。
13 1544

11月、晴信(24)、荒神山城(上伊那郡辰野町)の藤沢頼親を攻める →晴信、福与城(長野県上伊那郡箕輪町)の藤沢頼親が抵抗する様子を見せたので一時上原城へ退いた

12月、高遠頼継、諏訪侵入
?駿
安房の戦国大名・里見義堯(よしたか)の攻められた上総の真里谷武田氏が、氏康(30)に援軍要請 7月、将軍・足利義晴、細川晴元と和睦
細川晴元は、正室が三条公頼の長女であるため、武田信玄、本願寺法主の顕如の義兄にあたる)
14 1545 頼重の娘・諏訪御料人(由布姫・湖衣姫)(14)が晴信(25)に輿入れ※山本勘助の献策

4月、晴信高遠城攻略→高遠頼継逃亡

6月、晴信福与城(長野県上伊那郡箕輪町)攻略→藤沢頼親降伏
板垣信方竜ヶ崎城(上伊那郡辰野町伊那富)を攻略→援軍の信濃守護・小笠原長時は居城である林城(松本市)に逃れる
黒田秀忠は、長尾為景の後を継いだ晴景が病弱で統率力が無かったため、独立しようと画策し、守護代・長尾晴景の弟、景康・景房らを殺害して謀反を起こす→晴景のもう一人の弟・長尾景虎(16)の命令を受けた村山与七郎に居城・黒滝城(新潟県西蒲原郡弥彦村麓一区)を攻められて降伏。
7月、今川が北条との戦いにおいて援軍を請う
7月、氏康(31)が駿河侵攻→今川義元が布陣
8月、晴信、今川義元支援のため、駿河の吉原に布陣
8月、今川義元が、関東管領・上杉憲政と呼応
9月21日、晴信今川義元北条氏康を和睦させる※以前より北条が占拠していた富士川以東の地を今川に還すのが条件
→これにより、武田は、信濃治政はもちろん、北信濃の村上義清対策に集中できた
?駿 ?
9月21日、武田晴信が、今川義元北条氏康を和睦させる※1537年から北条が占拠していた富士川以東の地を今川に還すのが条件
×駿?駿
→これにより、北条は、関東管領軍との戦いに集中できた

9月26日、関東管領・上杉憲政扇谷上杉朝定が、元々、扇谷上杉家の居城であった武蔵河越城を奪回すべく包囲
10月、北条氏の北進を防ぎたい古河公方・足利晴氏が、北条氏康と絶ち、武蔵河越城攻め参戦→古河公方・関東管領の連合軍約8万の大軍が城を完全包囲(兵力で圧倒)
古河公方
両上杉家
9月、松平広忠三河安祥城を攻めるも敗れる→松平氏の弱体化は、決定的なものとなる
15 1546 諏訪御料人武田勝頼を出産




5月、南佐久の領主だった大井貞隆の子、貞清が、内山城(佐久市内山)に籠り、反・武田を標榜
→晴信、兵糧攻めにて陥落させた
?駿 ?
2月、黒田秀忠は再び謀反を起こすが、長尾景虎(17)に攻められて敗れ、一族ともども自刃させられた→この戦功で長尾景虎の武名が一躍高まる


4月、北条氏康は援軍を率いて河越城へ→河越夜戦・・・北条氏康(32)が、古河公方・足利晴氏、関東管領・上杉憲政、扇谷上杉家当主・上杉朝定の連合軍を破る →古河公方、山内上杉家は大打撃を受け、扇谷上杉家は上杉朝定が死んで滅亡












12月、足利義藤(11)が、第13代征夷大将軍将に(後に足利義輝に改名)
16 1547 晴信(27)、家臣団の統制と治安の規定を盛り込んだ甲州法度を定めた。
8月、晴信、北佐久の志賀城(長野県佐久市志賀)に籠る笠原清繁を攻める
→清繁に後詰めを依頼された関東管領・上杉憲政は、家臣の金井秀景を送り込み、上野の平井城(群馬県藤岡市西平井)から3000の兵を派遣
晴信は、5000の兵を憲政の陣に当て、殲滅
→打ち取った300の生首を志賀城に運ばせ、城の周りに置き、威嚇
志賀城に籠る城兵は、狂ったように城外に討って出て、すべて打ち取られた
→城内に取り残された女・子供はすべて生け捕りとされ、甲府に運ばれ売られたという
※この常軌を逸した残虐な始末は、今後、信濃を平定するにあたり、抵抗すればこのような目に合うとの脅しのため、見せしめのためと言われている
?駿 ?
上杉定実は、守護代・長尾晴景と、人望が集まる景虎(18)の争いが起こるとこれを仲介し、景虎の擁立に尽力




9月、滅亡した元・扇谷上杉家の家臣、太田資正は、北条氏の隙を突いて松山城(埼玉県比企郡吉見町)を急襲して奪回
→12月、当主不在の岩槻城(埼玉県さいたま市いわつき区)を攻め、実力で家督を継いだ
→12月、親北条派の一部の家臣が離脱して北条氏に走った。しばらくして、すぐに北条側が巻き返し、松山城を任せていた上田朝直北条氏に寝返り、岩槻城も囲まれた
7月、細川晴元、足利義晴を山城白川城に攻める→和睦

松平広忠は織田氏に対抗するため駿河国の今川氏に臣従し、竹千代(6)は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし広忠は今川氏への臣従を貫いたため、竹千代は見捨てられた形となり、殺されてもおかしくなかったが、久松俊勝夫人となった於大の懇願もあったか、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り会ったと言われている。
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17 1548 1月18日、葛尾(かつらお)城(長野県埴科郡坂城町葛尾山)に本拠を持つ村上義清(47)が佐久へ進み、武田軍の追い出しにかかる
2月1日、晴信、7000の兵を率いて躑躅ヶ崎館(甲府市)を出陣→諏訪を経由して雪深い大門峠を越えて北上して上田原へ進攻
2月14日、上田原の合戦(上田市上田原)
武田晴信7000兵×村上義清5000~6000兵
武田軍は、極寒の信州への長征のため兵に疲れが見え、さらに上田原は村上軍が地形を隅々まで熟知している土地でもあり、戦況は武田軍が劣勢となる
晴信(28)は、板垣信方、甘利虎泰ら、有力武将を失う(武田軍は700もの兵を失う)
晴信自身も、左腕に傷を負う→村上義清も、押し出す余力は残っていなかった
※武田晴信、初めての敗戦(7分の敗戦)
3月3日、晴信、ようやく陣を解き、上原城まで兵を退く→3月26日、甲府に帰還
以降、武田を侮る信濃の武将らが蜂起の動き
4月5日、信濃守護・小笠原長時村上義清が、安曇の仁科氏や、藤沢頼親らと諏訪に乱入→4月25日、村上軍により、晴信の佐久の拠点である内山城を放火→7月、諏訪西方衆(矢島氏・花岡氏)といった神家(しんけ)一族が反乱を起こす→7月11日、晴信、躑躅ヶ崎館を出陣→信濃との国境に近い大井ノ森(山梨県北巨摩郡長坂町今井)に6日間陣を置く(油断をさせるため)→7月18日夕刻、晴信は騎馬隊だけを率いて大井ノ森を出発し、夜陰に紛れて塩尻峠へ
塩尻峠の戦い・・・7月19日未明、奇襲
→小笠原長時、本拠の林城(松本市)に敗走
→晴信、上田原の敗戦の汚名挽回
晴信、信濃制圧寸前
10月4日、林城の南8kmほどにある村井城(松本市村井)を占拠し、小笠原長時攻略の前線基地とす
1月、太田資正は、北条氏に降った。
12月、守護代・長尾晴景は、上杉定実の仲介のもと、景虎(19)に家督を譲って隠居
長尾景虎、越後守護代となる
18 1549 上田長尾政景、反・景虎色を強くする この頃、北条氏に対して劣勢の関東管領・上杉憲政が、越後の長尾景虎に救援を請う 3月、松平広忠が家臣の謀反によって殺害される 7月、ザビエルが鹿児島上陸
19 1550














7月3日、晴信(30)、躑躅ヶ崎館を出陣→10日、村井城に入る→15日夕方、林城の支城を攻撃→小笠原長時(37)は、林城をはじめ、深志城(現在の松本城と同じ場所)、桐原城などの主要な城を捨て、平瀬城(松本市島内下平瀬)に敗走→北信濃の村上義清(50)を頼る
晴信、山本勘助に深志城を修築させて、信濃中部の拠点とし、馬場信春を城将とした

戸石城攻防戦
8月末、晴信は、村上義清の属城である戸石城を囲む※砥石城は、上田盆地の北側にある太郎山から東へ伸びた尾根の先端に築かれていて、周囲が崖に囲まれ、攻める箇所は砥石のような南西の崖しかないという難攻不落の山城。村上氏の小県方面の拠点。
武田7000兵×戸石城500兵 ※城兵500人のうち、半数はかつて晴信によって虐殺された志賀城の残党で、士気は高かった。この時、村上義清は、奥信濃の高梨政頼と戦っており留守だった。
9月9日、武田軍が総攻撃(8日間)。武田軍の武将・横田高松が戦死するなど、武田軍が苦戦
→10月1日、高梨氏と和睦した村上義清が2000の兵を引き連れ追撃→武田軍は1000人近い死傷者を出す・・・この武田の敗戦を「戸石崩れ」と呼ぶ
2月26日、上杉定実が病没。※定実の晩年は出家して玄清(げんせい)と名乗ったらしい。
定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、13代将軍足利義輝により、長尾景虎(21)が越後守護を代行した。
2月28日、将軍・足利義晴が、景虎に白傘袋と毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)の使用を許す※国主ポストを裏打ちする装飾具
氏康は、戦乱による民衆の疲弊を緩和するため、税制改革を行った 今川義元織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代(9)を取り戻す。 しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城今川氏から派遣された城代により支配された。
12月、長尾政景、叛乱を起こす
20 1551
5月、真田幸隆が調略により、戸石城を1日にして落とす→幸隆はこれで旧領を奪還成功→佐久、小県の豪族たちが、ことごとく武田方につく→村上軍に反撃の力なし
10月、晴信、小笠原方の平瀬城(松本市)を攻略
1~3月、景虎方×政景方

8月、長尾政景、景虎に降伏→以後、政景は景虎の重臣として働く


8~9月、防長両国の大名・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される(大寧寺の変)。
21 1552









8月、晴信、村上方の小岩嶽城(安曇野市穂高)を攻略→中信濃支配を固めた
11月、武田晴信の嫡男・義信が、今川義元の娘をめとる
北条氏康が、関東管領・上杉憲政の居城である平井城(群馬県藤岡市)を攻略
上杉憲政は、元は家臣筋であった越後の長尾景虎(23)のもとに逃れる
公方・関東管領の旧支配体制の事実上の崩壊
→景虎は山内上杉家の家督相続を持ちかけられるが辞退。しかし従五位下弾正少弼に任じられる
→7月、景虎の越後軍が関東へ初の越山(ただし景虎は同行せず)
1月、将軍・足利義藤三好長慶と和睦し帰京→細川晴元は若狭へ  勢力地図11   勢力地図11   勢力地図11 
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