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【第3回】関東勢力地図の激変/関東三英傑が国主へ
       (1536~1552年)


1536年から1552年までの関東の主な出来事 年表を見る


日本の歴史の中で、戦国時代と呼ばれた時代。
一般的に1467年の応仁の乱、または1493年の明応の政変に始まると言われている。
しかし、それは畿内の話であって、もうひとつの室町幕府の東の直轄地であった関東の地では、もうひとつの戦国時代があった。
幕府などの公方・関東管領による、いわゆる旧勢力の支配体制に異を唱え、自ら国を広げ、勢力圏を拡げ始める有力大名が出現したのが、関東の戦国時代のひとつの現象であった。
戦さや、同盟、裏切り、和睦を繰り返し、数多くの国人、武将が点在していたが、16世紀中ごろになると、いわゆる力を持った"戦国大名"が出てきた。
そのひとつが、甲斐の武田氏である。
武力によって、甲斐を統一した武田信虎は、国境を接する地域に、さらに領地を拡げていこうとの野心に溢れていた。
しかし、国内ではたび重なる戦などで、民衆心理は疲弊していた。
その父・信虎を無血クーデターによって、追放したのが、武田晴信、後の信玄である。
1541年に21歳の若さで国主に就いた晴信は、有能な家臣を適材適所に使い分け、国内領民の不平不満を改善し、治政を重視し、国内を安定させつつ、対外的にも戦国大名の典型の如く、領土を拡げていった。
「風林火山」の孫子の旗のもと、調略と力ずくの両面を使い分けた侵略、拡大路線は、周辺領主には恐怖を与えた。
主に、晴信は、信濃攻略が有名だが、後に、西上野(群馬県西部)も勢力圏に入れる。
晴信は、先代の頃から引き継ぎ、国主になってからも、駿河の今川義元と友好関係を結んでいた(尾張の織田信長に桶狭間で憤死するまで)。
その同盟関係があればこそ、晴信は国主になって初期の頃、信濃攻略に専念できた。
戦国時代最強と呼ばれた武田軍団の基礎を作った時代だった。


奇しくも早雲から数えて三代目となる北条氏康が、小田原の国主になったが、武田晴信と同じ1541年。
"伊勢"から"北条"に名字を変えて、小田原、相模国から徐々に関東に勢力圏を拡げていった賢人、氏綱が亡くなって、嫡男である氏康が国主の座に就いた時、27歳になっていた。
父からの路線を踏襲しつつ、旧勢力(関東管領の山内上杉家や扇谷上杉家)の領地を奪い、公方・関東管領体制だった頃より良くなった・・・と思わせるような治政を行い、徐々に領民の人心を掴んでいった。
その氏康の有能ぶりが、関東、及び周辺地域に知れ渡ったのが、1546年のいわゆる河越夜戦である。
関東管領・上杉憲政と古河公方はじめ、関東の豪族で総勢8万の軍勢で、武蔵の河越城を囲まれながら、知略によってその1割ほどの軍勢で大逆転し、関東管領を上野に追いやり、扇谷上杉家を滅亡させた。
これにより、北条における関東支配が優勢となり、結果、関東管領・上杉憲政が、家臣筋である越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に助けを求めるといった事件が起こるわけである。
これが、氏康にとって新たな敵の出現を促すこととなる。
氏康vs景虎の戦いが始まるきっかけとなった。


越後の長尾景虎(上杉謙信)は、氏康とは15歳差、晴信(信玄)とは9歳差の年下となる。
父は、越後守護代だった長尾為景
主人筋の、越後守護の上杉成実を傀儡化し、守護代ながら、実質、越後国主だった。
しかしながら、広い越後を完全に掌握することはできず、嫡男の晴景に委ねる事となる。
だが、病弱で統率力に欠ける晴景に変わり、守護代に就いたのは景虎。1548年。この時19歳。
その2年後、嫡子のいない守護・上杉成実の跡を継ぎ、21歳で越後守護となった。
毘沙門天を信仰し、戦の強さはもちろん、義を重んずる精神は、戦国乱世の時代に新鮮さを感じさせ、いつの間にか景虎のいる越後は、戦に敗れた大名、武将の駆け込み寺的な国となった。
1552年、そんな景虎のもとに、主人筋にあたる関東管領・上杉憲政が、越後入りするのである。
北条氏康が、居城である平井城(群馬県藤岡市)を攻略し、上野の大半を占領したからである。それはつまり、関東管領が、領地である関東の地をすべて北条に奪われた事を意味する。
後に、憲政景虎に家督、名跡を譲り、景虎は後に上杉謙信を名乗るのである。
ここで、景虎は、北条氏康という敵と相対することとなる。

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