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【第4回】関東三英傑、初の激突と信長の登場
       (1553~1560年)


1553年から1560年までの関東の主な出来事 年表を見る


武田晴信は、この頃、国主になって10年を過ぎ、充実期を迎える。
信濃制圧も仕上げの時期にようやく到達しようとした時期で、ひと昔前と違い、同盟していた駿府の今川家と同等の国力を持つようになった。
その原動力になったのは、1554年の甲相駿の三国同盟の締結。
これにより、晴信は、さらに信濃制圧に集中できるようになった。
そして、北信濃の村上義清を追放することで、ついに越後の長尾景虎と国境を接する事になり、いわゆる12年、計5回に渡る川中島の戦いが始まる。
この頃の晴信は、より"負けない"戦さを仕掛けるようになった。
孫子の旗の如く、できるだけ、調略などを多用し、味方の損害を出さず、勝利を得る方法である。
敵対する越後の長尾景虎の"決戦型" とは真逆と言えよう。
力づくで、信濃守護職を手にいれた晴信は、出家し"信玄"と号した翌年、三国同盟の一角、今川義元が、織田信長によって首を取られる衝撃的事変が起きる。
その後、関東管領となった上杉政虎(長尾景虎)との川中島の決戦に挑むのである。


後北条家の三代目となる北条氏康は、関東管領・上杉憲政を越後に追いやって後、関東(古河)公方を傀儡化して、着々と関東に領土を拡げていった。
氏康にとっても、甲相駿の三国同盟は、タイムリーだった。
今川との西の憂いが無くなれば、関東制圧に集中できるからだ。
そして、もうひとつ、越後国主・長尾景虎の存在である。
この頃、武田晴信長尾景虎と大きな戦はないが、いくつか戦闘を交えており、うわさに聞く強敵だと認識せざるを得ない。
しかも、景虎は、越後に追放した関東管領・上杉憲政を庇護している存在。
いわば、景虎の越後は、氏康にとって不気味な仮想敵国となったのだ。
そして、1560年に恐れていた事が起きる。
ついに、軍神・長尾景虎が関東に現れたのである。


越後の長尾景虎は、歴史研究家の間では、"義"の人と称される。
中央の将軍家を敬い、乱れた世の中を元に戻そうとの正義心に燃えていた。
領地を奪われた武将に助けを求められたら、それに応じ、領地を回復させても、自らのものとせず、惜しみもなく彼らに還す。
当時の戦国時代は、国盗り時代と言われる中で、まさに稀有な戦国武将だった。
しかし、それは戦に出る家臣団の中では、恩賞を充分にもらえないとの不平不満が出るのも自然の摂理。
そんな折、自ら突然、国主の座を隠退するなどのパフォーマンスを行い、必死に理想と現実が交差する中、その独自のカリスマ性で越後を統一してきた。
それが、いつしか、戦の強さから"軍神"と呼ばれるようになり、将軍家などからも上洛の誘いを受けるようになる。
甲斐の晴信との北信濃の抗争(川中島の戦い)はすでに3回を数え、初の越山を果たし、関東にも進出した。

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