湯田川温泉は山形県鶴岡市の奥座敷として地元の温泉ファンに愛されている。その昔は庄内藩主の湯治場として栄えていた。
開湯は和銅5年(712年)と言われ、怪我をした一羽の白鷺が湯に浸かり傷を癒した伝説も残っている。
湯量も豊富で、鄙びた温泉街ではあるが、数軒の旅館が点在している。平成13年には国民保養温泉地にも認定された。
この宿がある庄内平野は、肥沃な土地柄のせいか、様々な農作物が収穫され、さらには日本海にも近いこともあり、海、山、川の3つの旬の味覚を味わえるところも魅力だろう。
また湯田川温泉は梅林と孟宗の里とも言われ、4月に入ると梅林公園では、北国の遅い春を告げる梅まつりが開催される。そして5月頃には、孟宗竹の旬の時期。美味しい孟宗汁がいただける。
「九兵衛(くへえ)旅館」は、その湯田川温泉屈指の人気宿として知られている。宿の創業は江戸時代中期。歴史と伝統を重ねてきた宿と言える。
現在、たった13室の小さな温泉宿なのだが、平成15年に別館として「珠玉(たま)や」(8室)をオープンさせた。
その繁盛ぶりの秘密を取材させていただいたのが、冬真っ只中の2008年2月中旬の頃だった。その日は想像していたよりも、雪深くはなかったが、それでも外の景色は白と黒の、まさに水墨画の世界だ。
その寒い冬だからこそ、温泉のありがたみが骨身にしみる。
泉質は「ナトリウム・カルシウム−硫酸塩温泉」(pH8.4)。熱すぎないお湯が特長の湯治向けの優しい温泉。
「九兵衛旅館」の大浴場は露天風呂と内風呂を備える「山の湯」と、源泉100%かけ流しの「川の湯」がある。時間により男女入替え制のお風呂となっていた。
「山の湯」は源泉かけ流し+循環ろ過の併用型。しかしながら、源泉の良さは充分に分かる。露天風呂は眺望が広がっているわけではないが、開放感は溢れている。
「川の湯」は、源泉100%かけ流しのお風呂。良質な温泉だからこそ、目をつむって瞑想しながらお湯に集中したい。タイルの湯舟がレトロな感じがまたいい。また、ユニークなのは水槽には魚も泳いでいた。
客室は「月の館」「時の館」「花の館」の3つのエリアに分かれている。そして源泉かけ流しの温泉風呂を備える客室は全部で5室用意されている。
まず「月の館」3室すべては、メゾネット型客室で、しかも源泉かけ流しのヒバで作られた湯舟の温泉風呂を備えている。そのうちのひとつ「まんまる月」は、1階にマッサージチェア2機、DVDプレーヤーを備えるフローリングの部屋で、2階には落ち着いた10帖の和室の構成。女将さんセレクションによる絵画はロビーなどにも多く展示されているが、この客室にも飾られていた。
「時の館」8室のうち1室が温泉風呂付きの客室となる。その客室「早春」は、源泉かけ流しの石風呂を備えた、落ち着いた雰囲気の12帖和室。
「花の館」2室のうちの1室「花ごよみ」は、源泉かけ流しの温泉風呂(ヒバ風呂)付きの10帖の和室となっている。大きな窓を開ければ開放的。
一般客室も趣がある。「時の館」の1室「小雪」は、古さを感じつつも、しっとりとした落ち着きを感じさせる和室。10帖、BT付き(ユニットバス)。
そして、「時の館」2Fには、あの地元・鶴岡市出身の直木賞作家・藤沢周平(1927−1997年)がいつも利用していた客室「桂」がある。8帖+T付きのこぢんまりした客室だ。直筆の掛け軸もあった。
藤沢周平がこの宿をよく利用していたのは、地元出身だからという理由だけではない。実は「九兵衛旅館」の女将でもある大滝澄子さんの湯田川中学時代の担任の先生が藤沢周平(本名:小菅留治)だったのだ。昭和24〜25年頃の話だ。その時のエピソードをいくつか女将さんに聞いた。
当時の藤沢周平は山形師範学校卒業後の22歳だった。
「よく覚えているのは、クリスマスパーティーですね。」
戦後まもないこの時代、食料も物も不足していた時代、女将さん(当時1年生)はもちろんクリスマスもよく知らなかった。その時、彼は生徒たちにクリスマスプレゼントとして、鉛筆や消しゴムを配ったという。もちろん教室には近所からとってきた木を持ってきてクリスマスツリーとして飾られていたという。
女将さんは当時ヒットしていた流行歌、美空ひばりの「悲しき口笛」もいっしょに歌ったことも覚えている。
「一番印象的だったのは、やはり放送劇ですね。先生が自らシナリオを書いてくださって・・・」
湯田川温泉の開湯伝説に出てくる白鷺をモチーフに脚本を作り上げ、生徒一人一人にセリフや、効果音など、それぞれのパートを割り振った。ちなみに女将さんの役は、姉娘「さくらこ」役だったとのこと。
しかし、彼が教鞭をとったのはわずか2年間だった。結核に冒され、昭和26年の新学期から休職し、その後教え子たちとは音信が途絶えた。
再会できたのは昭和48年(1973年)。「暗殺の年輪」で直木賞を受賞した藤沢が帰郷し、その年の10月に湯田川中学で講演会を行った時だ
それがきっかけとなって、鶴岡に立ち寄る際は教え子が営む旅館を利用するようになったというわけだ。
だからこそ、この宿には「藤沢周平コーナー」がロビーに配されている。そこには直筆の色紙や、女将さんあてに書かれた手紙や葉書が展示されており、彼の優しい人柄が偲ばれる。
また初版本をはじめ、彼の作品のほとんどがライブラリーに用意されていた。さらには藤沢周平に関する研究本も多く置かれていた。
主な作品に江戸時代の下級武士を描いたものが多かったように、現代の日本人が忘れかけている、つつましさや奥ゆかしさを見事に表現してきた。
シリーズものも多く、それはNHKの時代劇ドラマとしても採用されて話題を呼んだ。
代表的なのは「腕におぼえあり」(原作:「用心棒日月抄」「よろずや平四郎活人剣」など/1992年・1993年放送/出演:村上弘明、渡辺徹)、そして「蝉しぐれ」(NHK/2002年放送/出演:内野聖陽・水野真紀)なども高視聴率を記録した。
その他、NHK以外の民放でも数多くの原作が採用されてドラマ化された。
映画界の巨匠、山田洋次監督も近年、藤沢作品を取り上げ、「たそがれ清兵衛」(2002年公開/出演:真田広之・宮沢りえ)、「隠し剣 鬼の爪」(2004年公開/出演:永瀬正敏・松たか子)、「武士の一分」(2006年公開/原作:「盲目剣谺返し」/出演:木村拓也・壇れい)と立て続けに3本の映画を作り上げた。
また、「九兵衛旅館」の女将さんが藤沢作品で一番好きだという「蝉しぐれ」も黒土三男監督によって、2005年に映画化された(出演:市川染五郎・木村佳乃)。
その映画の公開時のポスターも2階のフロアに飾られていた。
ちなみに藤沢周平というペンネームは1965年頃(38歳)から使われてきた。その「藤沢」の由来は、彼がまだ無名時代の頃、同郷の女性、悦子さんと結婚したが、1963年彼が36歳の時、悦子さんは28歳の若さで亡くなった。彼女の実家は湯田川温泉に隣接する地区の藤沢ということで、ここから取ったものらしい。これも藤沢周平の人間的な優しさを感じさせるエピソードだ。
「九兵衛旅館」の公式HPをご覧になっていただければお分かりだと思うが、部屋と食事(追加料理など)の組み合わせの、いわゆる「泊食分離」とも言える方法で予約をすることができる。
だから、夕食無しの朝食のみの宿泊も可能というわけだ(ただし休前日や繁忙期は不可)。
この宿の料理は評判がいい。季節ごとに楽しめる旬の素材を用意し、趣向をこらしている。
季節ごとにオススメの食事プランを紹介すれば以下の通りだ。
1月〜2月は寒鱈(カンダラ)の膳、2月〜3月はアンコウの膳、4月は桜ますと山菜の膳、5月は孟宗の膳、6月、7月は岩ガキの膳と夏イカの膳、8月、10月はスタンダードプランのみ、9月はハタハタの膳、11月〜12月はズワイガニの膳。
夕食、朝食とも厨房近くの個室の食事処でいただくことになる。
取材日(2008年2月中旬)に出された献立をここで紹介しよう。夕食料金でいうと7,000円のプランになる。
まずは、手造りごま豆腐。毎日料理長が精魂込めて練り上げる、通年出される一品だ。
前菜は、山形県産のふきに南蛮味噌をかけたものと、地野菜のあさつきに岩のりをのせたもの、あっさりとした味わいをゴマの香りが引き立てるズワイガニのごま酢がけの三品。
お造りは、鯛とほっき貝のお刺身。かつら剥きにされた大根に包まれた花束のような盛り付けが印象的。
そして、山形牛リブロースしゃぶしゃぶ。霜降りながら油っこすぎない山形肉をさっと昆布だしに浸していただく。添えられたしめじ、エノキ、水菜、白菜など地で採れた野菜も美味しい。
次は、板長おまかせ握り寿司だ。酒田の寿司屋で修行していた板長ならではの逸品。本鮪、鱈の昆布じめ、ぼたん海老の握りずしは、味わいもさることながら、食事のよいアクセントとなっている。海の荒れていない時期であれば近海ものの魚介類を握るそう。ソイ、甘エビ、マス〆寿司、鱈の昆布〆など、季節によっての楽しみがある。
鰤の照り焼きが出た。こちらの品も季節によって、赤子カレイ、本マス焼きなど違う種類の魚料理を提供する。ネギと青唐、しいたけが添えられたしつこくない味が好評。
地野菜かぶら蒸しは、地ものの蕪、穴子、百合根、しいたけ、三葉、赤えびをすり合わせたやさしい味。冬のおもてなしにぴったりの一品
ここで寒鱈のどんがら汁が登場。山形の日本海側、この地方の郷土料理。漁師などが日常食するものだそうで、飾り気のない味つけが魚の旨味を引き出している。寒いこの季節には毎年出される、身体の温まる定番料理だ。
締めは、鱈(タラ)の子飯。スケトウダラ(スケソウダラ)ではなく、真鱈の卵を醤油漬けにしたおかずは、コシヒカリとの相性も良い逸品。海苔の香ばしさと相まって、満腹になっていてももう一杯おかわりがしたくなる。
デザートは自家製のバニラアイスとかぼちゃプリン。料理長自慢の品。パイナップルといちごが添えられた華やかな一皿で、和食の締めとしては意外性があるが、華やかな盛り付けは口の中を爽やかにしてくれ、食後まで続く。
朝食も美味しかった。小鉢には蓮根のきんぴら、黒森産のアスパラ菜、だし巻き玉子、いかの刺身、焼き魚と羽黒町産コシヒカリの九分つき米、なめこ汁といった定番メニューに加え、毎朝絞りたての豆乳を入れて蒸し上げて作る自家製豆腐というこだわりの品が。香の物も自家製のものが多い。この日はキュウリの漬物は自家製。普段は近所のおばちゃんが漬けたものなどをふるまうという。白いご飯の他、お粥も選択できる。
デザートも付いた。阿部料理長の手作りのヨーグルトブランマンジェに、マンゴとオレンジを添えたものが用意された。
湯田川温泉には2つの共同浴場が存在する。まず「正面の湯」は、立派な瓦屋根の風情ある佇まい。
管理人のいないお風呂なので、日帰り客の場合は、近くの「船見商店」か「大井商店」で入湯料200円を払い、鍵を開けてもらう方式で入る。旅館に宿泊の際は、その宿のフロントに頼めば鍵を貸してくれる。
「九兵衛旅館」の目の前にある「田の湯」も同様の方法で湯浴みができる。
「九兵衛旅館」には最近でも多くの著名人が訪れている。藤沢周平3部作のメガホンをとった映画監督・山田洋次さんはじめ、女優の木村佳乃さん(映画「蝉しぐれ」のおふく役)、直木賞作家の山本一力さん、俳優の原田大二郎さんなど。
女優さんもたくさん訪れている。日色ともゑさん、高橋洋子さん、栗原小巻さん、杉田かおるさん、そして渡辺文雄さんも。晩年に水戸黄門を演じた西村晃さんや、「カッパッパ〜♪」の黄桜のCMでおなじみのコマソンの女王・楠トシエさんも来館している。
昭和40年代〜50年代は、本当に多くのミュージシャンが訪れている。荒井由実時代のユーミン、堺正章さん、小柳ルミ子さん、キャンディーズ、布施明さん、チェリッシュ、ピンキーこと今陽子さん、森田公一さん、宇崎竜童さん率いるダウンタウンブギウギバンド、ダカーポら。
「九兵衛旅館」大滝専務によると、小柳ルミ子さんが、生きているウサギをプレゼントしてくれた(当時専務は小学生)との記憶が残っているとの事。
彼らは、東北コンサートツアーなどの際の宿泊場所としてこの「九兵衛旅館」を選んだのであるが、なぜ「九兵衛」だったのか・・・それには有名人ならではの理由がある。
やはり、芸能人は、特に女性はなかなか大浴場に入りにくい。しかし、「九兵衛旅館」にはその当時から、貸切の温泉風呂が存在していたのだ。現在の「時の館」棟の客室「風薫る」の隣にあったが、現在は残念ながら物置になっているという。
その他、研ナオコさん、小室等さんも訪れている。
お土産コーナーには魅力的な商品が並んでいた。「庄内の若くさ餅」は、一番の人気商品。お部屋でのお茶うけとしても用意されていた。もち米は希少品種「でわのもち」と手摘みのよもぎを使用したお餅。求める場合はフロントにチェックアウト前日20時までに予約しなければならない。その他、「とち餅」、「ひょっとこ饅頭」も予約制。
湯田川特産「たけのこ水煮」の孟宗カンヅメも人気だ。湯田川孟宗の旬は4月下旬から6月上旬。この旬の季節の「美味しさ」をそのままに缶詰にした。
「湯田川孟宗ごはんの素」「だだちゃ豆せんべい」「だだちゃせんべい」「藤沢かぶ たまり漬」なども人気だ。
「竹踏み乾留竹」という健康グッズもあった。
「九兵衛旅館」の建つ庄内平野は、三方が山に囲まれ、一方が海に開かれている。その海も太平洋岸の明るい海とは違い、特に冬場の海に降る雪のように寂しげで、旅行者ならば感傷に浸れるシチュエーションではある。その土地から、藤沢周平はじめ、芥川賞の丸谷才一、直木賞の佐藤賢一をも輩出している。それはやはり、この自然というより、日本の原風景が未だにここに残っていることが、創作意欲をかきたてる何かを誘発しているように思えてならない。
そして、ここ庄内平野の気質というよりも、東北地方の気質は、どちらかといえば奥ゆかしく、そして粘り強く実直なところがあるようだ。
この宿も同じく、真面目で控えめな気質の雰囲気はよく伝わってくる。常連客も多い宿ではあるが、そのほとんどの方が藤沢文学を愛好しているはずだから、おのずと宿の性格もそうなってくるのだろう。
これは、最近よくテレビや雑誌で見かける、建築デザイナー、インテリアデザイナーなどが無理やりやってしまう無理な“演出”を施した、薄っぺらなポリシーで作られた宿には絶対に出せない“品格”なのだ。
次世代を担う、専務の大滝研一郎さんは、女将さんが築き上げてきたこの佇まいを、さらに上のレベルまで引き上げていきそうな、そんな頼もしさを感じさせてくれる。
かけ流しの温泉の心地よさ、庄内の地の食材の美味しさ、心とカラダを同時に開放してくれる客室の快適さ、スタッフの自然な接客の気持ちよさ、そして、小さな宿の素晴らしさをこれほど感じさせてくれる宿は、なかなか見つからない。
最近、「九兵衛旅館」は、小学生以下のお子様は宿泊を受け付けない方針を打ち出した。小さなお子さんを持つご家族には不満な点はあるかもしれないが、これもこの宿でもかなりの苦渋の決断だったと推測される。
小さな宿が万人に受ける宿にするなんて、やっぱり不可能なのだ。狭い客層だけでも宿に来ていただいて、満足して宿を後にすることが、客側にとっても宿側にとっても絶対にいいはずなのだ。
この宿には、やはり大人が似合う。それも拝金主義など関係ない、金にも地位にもあまり興味がない。ただ、そばにいる家族を幸せにしたいと願う大人が似合う。
小さな宿ながらも、客室選びも楽しい悩みだ。大事なパートナーとの旅には、やはり温泉付き客室がオススメだ。いや、年老いた親を連れての孝行旅行にもいいかもしれない。永年連れ添った伴侶との温泉旅行にも、この宿の一般客室はいい。なぜかしっとりとなじむ。また、隣接する別館「珠玉(たま)や」の貸切風呂3つも利用できるし、地元の人と共同浴場で湯浴みもいい。とにかく、それぞれ様々な楽しみ方ができるが、宿泊料金が意外にもリーズナブルなことに驚く。これも人気の宿の秘密だなと得心した。
藤沢周平が教鞭をとっていた時代に、女将さんが生徒だったから、後に「九兵衛旅館」を常宿にしたのではなく、そういう関係でなくても、藤沢周平はこの旅館を常宿にしていたような気がしてならないのは私だけであろうか。(J)