今や、温泉リゾート地として全国的にその名が知れ渡っている由布院温泉。遠方からの宿泊客だけでなく、福岡・北九州都市圏をはじめとして九州一円からの日帰り客や観光ツアーの立ち寄りも非常に多いため、街並みの雰囲気とあいまって「九州の軽井沢」と称されることもある人気の観光地だ。
由布院を最初に温泉保養地にしたのは、別府における近代温泉地づくりの祖として知られる油屋熊八である。由布岳の麓の静かな温泉地を気に入り、「別府の奥座敷」として大正時代に私的な別荘を作ったことが、温泉保養地への第一歩。それに合わせるかのように大正末期には「ロマン主義」を携えてドイツ留学から帰国した林学博士、本多静六がこの地で『由布院温泉発展策』という講演を行い、ドイツのバーデンバーデンに学ぶ、自然を多く取り入れた静かな温泉地づくりを提案している。
つまり、由布院の静かで田園的な温泉地・温泉郷というイメージが付けられたのは実はかなり前のことになる。しかしながら、実のところは鄙びた温泉街だった由布院。それをイメージ通りの街に生まれ変わらせる過程に、昭和40年代から繰り広げられた「まちづくり」運動があった。結果として実を結ぶことになるこの運動であるが、各種メディアに取り上げられたことが大きいという。
数多くの努力が実を結び、1981年(昭和56年)11月、由布院温泉観光協会に平松大分県知事から「一村一品運動奨励賞」が贈られた。同年、湯布院町は環境庁の国民保健温泉地に指定される。1987年(昭和62年)、総合保養地域整備法(いわゆる「リゾート法」)が公布された。時はバブル期。リゾート開発の波は由布院にも押し寄せた。農村景観を残しながら温泉保養地としての決して無理をしない由布院にとって、外部資本による用地の物色は地価の高騰を招くやっかいな問題であった。 これに対抗し、湯布院町は1990年(平成2年)9月に「潤いのあるまちづくり条例」を制定。「成長の管理」や「地域ごとの展開の重視」が明記されているこの条例の元、真に安らぐ温泉街の形成を今も進めている。
「草庵秋桜」社長・女将の太田夫妻は、昭和52年からの10年間、由布院で鰻・すっぽん・鯉を用いた川魚料理の飲食店を経営していた。ひいきにしてくれるお客さんも多く付き、経営状態は良好だったのだが、一つだけ引っかかる点があった。それは3人いる子供の将来。3人を大学に行かせてやりたいけど、このまま飲食店を続けていたのでは、現実的に無理だということが分かっていたのだ。なんとかしてあげたいと思案を巡らす最中、なじみのお客さんから「食事を食べたら眠たくなるから、出来ることなら帰りたくない」と言われたことがあった。そのさりげない一言が、なじみのお客さんのため、そして何より子供たちの将来のために旅館業を営もうという決意につながったそうだ。
こうした経緯で、由布院の地に「草庵秋桜」は誕生した。上記の「リゾート法」が公布されたのと同じ年の昭和62年の事だ。宿名の由来は、“どこまでも広がる田園風景の中にある登場した「庵」”と“田園の畦道に咲き乱れていた美しい「秋桜(コスモス)」”から取られた。創業当時は、現在の離れがある場所に5部屋のみの本当に小さなお宿。飲食店のなじみのお客さんや、太田夫妻の作る川魚料理を目当てに来る宿泊客で賑わっていた。しかしながら、旅館業と料理を平行させることは非常に困難だった。特に料理に不安を覚えたそうだ。それまで飲食店を経営していたものの、専門は川魚料理で、旅館らしい洒落た料理は作れない。このままでこの旅館を大きく発展させる事が出来るのだろうかと常に考えていたそうだ。がむしゃらに取り組んだ1年間だったが、「無理」という二文字が脳裏に浮かぶ程にまで追い詰められた。そんな折、衝撃的な出会いがあった。24歳の青年が「料理を教えてやるよ」と、夜中に突然、厨房に現れたのである。それからの一年、その青年は毎夜毎晩厨房に現れては、和食の基本である出汁の取り方から、彼の知る料理の技術を二人に教えてくれたそうだ。
料理に自信が持てるようになると、一層客足が増した。以前とは別の意味で、旅館経営と料理人の両立が厳しくなった平成8年9月、ついに外部から料理長を招くに至る。その料理長こそが突然夜中に厨房に現れた青年、新江憲一氏だ。15歳で料理の道を志し、有名料亭「なだ万」などで修行を重ね、就任当時はすでに由布院でその名を知られる存在だったそうだ。現在、「草庵秋桜」総料理長と由布院料理研究会会長を兼任する彼が料理長に就任するや、料理が美味しい旅館としてそれまで以上にその名が知れ渡る事になる。その後も順調に客足を伸ばし、平成11年に離れ客室リニューアルを行う。観光客向けに「茶寮かすみ草」をリニューアルするなど、細部へのこだわりは常に実行しているが、現在の姿になったのは上記した平成11年の事である。
季節に応じて様々な表情を見せてくれる木々に囲まれた外観を眺めつつ館内に入ると、フロントの正面にロビーがある。名器と名高いマッキントッシュ社製パワーアンプ「MC7270」から、心地よいジャズの音色が流されているこのロビーは、大正浪漫が感じられる場を再現することをコンセプトに造られた。木々の温もりに溢れる居心地の良い空間だ。チェックインが済んだら、ウェルカムスイーツの蓬大福をいただき、早速部屋へ。
スイーツといえば、旅館に併設されている「茶寮かすみ草」にも足を運びたい。ここでは、女将さんお手製のチーズケーキと、専務が吟味し厳選した、神奈川県小田原から仕入れる豆で淹れた絶品のコーヒーを味わうことができる。おすすめはこの二つを同時に味わえるコーヒーセット(\900)だ。このお店で用いられる皿やカップは、陶芸が趣味である専務の師匠にあたる陶芸家の作品が用いられている。焼き物が作り出す独特な色合いに目を向けるのも面白い。
「草庵秋桜」の男女別大浴場は、それぞれに内湯と露天風呂が付いている。
泉質は弱アルカリ性単純温泉。内湯・露天風呂とも源泉掛け流し+循環を併用した温泉だ。やわらかく肌に染み入るお湯を満足のゆくまで味わってほしい。
客室は、「館内洋室」、「館内和室」、「メゾネット離れ客室」、「平屋離れ客室」の4タイプに分けられた、計13室。全ての客室及び館内の施設名は、女将さんが好きな山野草から名付けられている。では、タイプ別に主な部屋をご紹介したい。
初夏に咲く山野草から名付けられた、露天風呂付き離れ客室(平屋タイプ)「うめばちそう」306号室は和室8帖+12帖の間取り。サンダルを履いて出ることができる庭園で、四季折々の自然を楽しめる。また、大胆に周囲を岩で囲んだ客室露天風呂が付いているので、心ゆくまで浸かってほしい。ヒノキの内風呂もあり、サッシを取り払うと半露天風呂風に湯浴みが楽しめる点もポイントが高い。
夏から秋にかけて咲く山野草から名付けられた露天風呂付き離れ客室(平屋タイプ)「ゆうすげ」307号室は、和室8帖+12帖+板間の間取り。板間にはテーブルと椅子が配されており、庭園を眺めながら優雅なひとときを過ごすことができる。鉄ぺい石の湯船の露天風呂と温泉の内湯付き。露天風呂の縁にあるふくろうの置物が、より良い雰囲気を醸し出している。
秋に咲く山野草から名付けられた露天風呂付き離れ客室(メゾネットタイプ)「りんどう」302号室。間取りは、1階は和室10帖+二階に和室8帖の寝室。庭園側にソファーが置かれた小さな洋間が設けられており、ソファーに座って、流れる雲や風にそよぐ庭園の木々に思わす目をやりたくなる。うさぎと臼の置物が置かれていることから、「うさぎ風呂」と称されている露天風呂が付いている。
5月から6月にかけて咲く山野草から名付けられた露天風呂付き離れ客室(メゾネットタイプ)「はなしょうぶ」303号室の間取りは、1階は和室10帖+テラス+二階に和室8帖の寝室。暖かい時期であれば、庭園側に設けられたテラスへ出て、由布院の清々しい空気を吸い込みたい。夜になると明かりが灯り、幻想的な雰囲気を醸し出す灯篭が配された露天風呂も、この部屋の人気が高い要因のひとつ。
春先に咲く山野草からその名が付けられた露天風呂付き離れ客室(メゾネットタイプ)「ゆきのした 305号室」。間取りは、1階は和室10帖+二階に和室8帖。1階からは庭園が、2階からは遠くにそびえる山々の雄大な姿を眺めることができる。客室露天風呂は、甕と亀が飾りとなっていて、洒落っ気のある造りだ。
秋に咲く山野草から名付けられた、本館2階の「ききょう 206号室」は、和室8帖+和室8帖の二間からなる客室。由布院の街並みと、遠くに見える山々が織り成す雄大な風景が眺められることで人気の客室だ。
春に咲く山野草から名付けられた、本館2階「さくらそう 201号室」は、唯一の洋室。間取りはツインベッドが配された洋間+小上がりの和スペース3帖。小上がりの和スペースでお茶を啜りながら、由布院の街並みをのんびり眺める事ができる。
「草庵秋桜」が料理のおいしい旅館として知られ、また由布院の旅館で出される料理が全体的においしいという声が多く聞こえるのは、前述した新江氏の影響であると言っても過言ではない。彼が発起人となって誕生した「由布院料理研究会」は、月1回を目安に会合を開催。参加するのは各旅館の料理人だ。そこに各自がオリジナルの料理を持ち寄り、互いの技術向上や情報交換、さらに言えば刺激の場として交流を続けているのだ。なるほど、常に新しい料理が提供されるのも頷ける。
二代目になる現料理長、財前岳氏は、新江氏が初代料理長に就任する直前の平成8年8月に、「草庵秋桜」の調理場へ入った。一番弟子と言っても過言ではない存在で、メキメキ頭角を現し、平成16年に新江氏が仕事のためイタリアへ旅立つ際、二代目の料理長に任命された。ちなみに、「由布院料理研究会」副会長の地位にも立ち、自らの技術と由布院の料理の向上に対しては日々余念が無い。
そんな財前氏が腕を振るう「春待月」と命名された夕食(2008年1月)を紹介しよう。
二品ある先付の一品目は、筍・烏賊・ウド・花びら型に切ったにんじんを、木の芽で作った餡で和えたもの。それぞれの食感と味が活かされている。
先付の二品目は、椿盛と命名されていた。玉葱のスライスを挟んだ馬刺しのタタキ・花びら型の百合根が乗せられた豆腐しんじょの雲丹焼き・大根を刳り貫き、その中に柔らかい茶ぶり海鼠を詰めたもの・醤油と山葵で味付けされた鮟肝・菜の花の昆布〆平目巻の梅肉ソース・蛤の日の出和え(めんたいこで和えること)が並んだ。
吸物は、鱒のポトフ。フランスの代表的な家庭料理であるポトフと同様に、具沢山に仕上げられている。鱒・筍・葱・自家製ごぼう豆腐・じゃがいも・クレソン・京野菜の金時人参が入った吸物は、心から暖まるような優しい味がした。
お造りは、佐賀関で水揚げされた関鯵と佐伯で水揚げされた寒鮃の刺身とえんがわ。より味わいをもっていただけるように、関鯵は生姜醤油、寒鮃は造り醤油でいただく。脂が乗っていて、非常に美味しい。
蓋物は、辛子の乗った合鴨・ほうれん草・金時人参・阿波麩・由布院産の下仁田ネギが具材の治部煮。本場、加賀の治部煮とは少し異なるが、繊細な味付けで美味しくいただけた。
焼き物は、フォアグラと冬野菜の焼き合わせ。山葵ソースが絡められたフォアグラの下には赤カブ。葱・パプリカ・赤ワインソースが絡められた生水菜とともにいただく。フォアグラの濃厚さをさっぱりした冬野菜が中和させているので、いくらでも食べられそうな味に仕上がっている。
油物は、小麦粉と片栗粉を混ぜ、仕上がりを白くすることから命名された白扇揚げ。鮑・イタリアの野菜プンタレーラ(福岡県産)・百合根を、大分名産のかぼすを絞ってあっさりといただく。
箸休はかぼすシャーベット。食事の中休みという意だけでなく、満腹感を紛らわせる効果もある。料理長の宿泊客に対する心遣いがうかがえる。
地鶏のつみれとゆふいん野菜の鍋物。ごぼうや茸類から投入し作り上げていく鍋は、カツオ出汁と鶏ガラスープがベース。鍋だけを楽しむのも良いが、その美味しいスープにご飯を投入し、雑炊にしていただくことも出来るそうだ。
追肴は、宮崎や鹿児島県産の黒毛和牛を使用したステーキ。付け合せは、エリンギ・茄子・赤康・金時人参。白髪葱とニンニクチップが乗ったステーキは、特製のタレでいただく。
食事には、農林水産省の農業研究センターで進められているスーパーライス計画の中で開発されたコシヒカリの突然変異、ミルキークイーンが出された。もっちりした食感と、冷めても硬くならないことから人気のお米だが、草庵秋桜で出されるミルキークイーンは、なんと田植えから収穫、脱穀に至るまでの全てが自家製である。箱に盛られた香の物は、蕪の皮・じゃこのきんぴら・赤蕪の甘酢漬け・大根の焼酎漬け・蕗の佃煮・舞茸の佃煮・金時人参の焼酎漬け・胡瓜の額漬け・大根のハリハリ漬け・青菜の浅漬けと盛り沢山。お腹が一杯だとしても箸が止まらない食事だった。
甘味には、いちご(日田産のさちのか)・大分県産のポンカン・長野産のりんご・柚子ゼリーが並んだ。
翌朝の朝食も「地元の野菜や卵を用いた朝食です」と添え書きがあるように、地産池消にこだわっている。毎朝作るおぼろ豆腐、プチベール・ブロッコリー・金時にんじん・さつまいもに自家製ゴマドレッシングが掛けられた温野菜、柚子味噌が掛けられた刺身こんにゃく、佐伯で水揚げされたさわら、鰻の蒲焼が入った茶碗蒸し、白卵に比べ力強く、卵黄が若干濃い湯平の卵などが並ぶ。もちろんご飯はミルキークイーン。ご飯がおいしいので、自然と箸が進む。
小規模な宿ではあるが、比較的お土産が充実しているのも魅力のひとつ。由布院全体で売り出している源泉を用いたスプレータイプの化粧水「由布院みすと」(\1,260)やガーゼタオル(\525)が売られている。「麩まんじゅう」(5個入り\780)や、財前料理長が作る、味が評判の「地鶏味噌」、「牛肉味噌」、「かつお梅」の三種(\1,500)は売り切れ必至なので、要チェックしてほしい。
由布院は、マスコミに取り上げられる旅館が多いことでも知られている。「草庵秋桜」も幾度と無く取り上げられてきた。また、ナインティナインの矢部浩之さんやホンジャマカの石塚英彦さん、女優の泉ピン子さんなどが番組の収録で訪れたという。
「草庵秋桜」。なんともこの宿に合う名前だ。派手さは無く、それでいて控えめで奥ゆかしさも感じるが、秋桜のように美しさも訴えてくる。この宿が由布院にあることで、由布院という街が好きになった客も多いだろうと推測できる。
個人旅行向け旅館の必須条件となった「貸切露天風呂」「露天風呂付き客室」は、もちろんこの宿には備わっている。そして6室の「離れ」もある。リーズナブルな料金で宿泊できる一般客室もある。また旅館宿泊のメインイベントである食事もレベルが高い。
小規模高品位旅館の典型ともいえるこの宿は、女将さんを筆頭に、いかにお客様に寛いで過ごしてもらうか、常にまじめに、そして真剣に考えている宿だ。若いカップル、ご夫婦、そして小さなお子様連れのファミリー客、女性グループ、中高年のご夫婦と幅広い客層に支持を受けているのも特筆すべきことかもしれない。小さい宿ながら、このような広範囲にわたり人気を得ていることは、それはこの宿のバランスの良さに由来している。顧客満足度の高い宿の典型だ。
由布院の街の散策にも便利なロケーションにあることも、この宿の魅力のひとつ。
「草庵秋桜」のような宿に出会ったことは、大げさかもしれないが人生を楽しくしてくれる。この「草庵」を「別荘」代わりに使える人は幸せに違いないからだ。(J/NS)