「植木温泉」は、九州自動車道・植木ICからクルマで5分という好立地の温泉地でありながら、宿泊料金1万円前後の大衆的な温泉宿が多く、宿自体も老朽化が進んでいるところが多い。
もともと、温泉の質はいいので、観光というよりも、湯治目的の年配のお客が多いのが、この温泉地の特徴でもあった。
そこに、「今宵の湯宿 悠然」が2008年12月に誕生した。
8室すべてが露天風呂付き離れという構成も、このエリアでは非常に珍しい事だった。
ターゲット層も、ご夫婦、カップル、母娘、女性グループなどの2人組、または少人数のお客となった。
他の宿が、老人会の団体旅行客や湯治客ばかりなので、まさに180度違う方向性を意味する。
この宿の前身は、1989年(平成元年)に創業した「菊水館」(6部屋)と、1999年(平成11年)に営業開始した日帰り入浴施設「七福神」(家族湯)の2つ。
ちなみに、「菊水館」の1泊2食付きの宿泊料金は8,000円前後。大浴場の日帰り入浴などは一人200円という料金だった。
家族風呂の「七福神」でも1室60分800円。露天風呂付きで1室60分1,000円という安さだった。
それなりの業績は残していたが、同じ熊本県の黒川温泉と比べても客単価も安く、2004年頃から売上げも頭打ちの状態に陥った。
そこで、2006年頃から新しい旅館の構想を練り、ついに2008年夏に工事を開始することになったのだ。

この新旅館の構想は、主に現在の社長である菊川小百合さん(昭和40年生まれ/山鹿市出身)によるものである。
ご主人は、もともと旅館業の他にも、大型バスの運転手という仕事もしており、新旅館を創業するにあたり、嫁である小百合さんが代表取締役に就任することになったのだ。
小百合さんは、今までがどちらかといえば男性目線で営業している他の宿と違い、徹底的に女性目線で宿を運営していこうと考えたのだ。
しかし、植木温泉は、前述の黒川温泉のような温泉街全体の景観を整備し、宿自身もある程度のポテンシャルを持つようなところではない。
周辺が自然に囲まれている眺望豊かな山の温泉地とは違い、植木温泉は市街地にあるため、新旅館自身が単独で個性を発揮させなければ、中途半端な宿になってしまう事を小百合さんは感じていた。
以前が格安の料金で営業していたため、従業員も思うような人数を雇えず、流れ作業的にお客に接するといった事も改善したかった。
そして何よりも、一人一人のお客に、充分にサービスが行き渡るような事をしたいという願望が、彼女の胸に生まれていたのだ。
それは、まず、新旅館を高級旅館にするために古い宿を壊したのではなく、彼女自身のサービス業の原点を表現しようとしたところ、結果的に現在の料金スタイルに落ち着いたというのが真実なのだろう。
そこで、新旅館の運営方針としては、日帰り客をとるのをやめ、宿泊客だけに集中しようと考えた。
これも、周辺の他の宿では考えられないことであった。
そして、全室を離れ形式とし、男女別大浴場を造らず、その代わりに、部屋ごとに広々とした客室露天風呂を設置することによって、食事以外のほとんどの時間を部屋で過ごす、いわゆる「お篭り宿」にしようとしたのだ。
それは、街中にあるという立地も考えた上での決断だった。
客室からの眺望は基本的に中庭、そして客室露天風呂のみ。
これによって、離れの客室そのものが、お客にとっての「小宇宙」となり、だからこそ、客室空間も広々と取るように考えたのだ。
特筆すべきは、全8室がすべて洋室タイプであること。
これは、別な視点で考えると、スタッフがチェックイン後は、部屋にお邪魔しませんという意味でもある。
(和室の場合は、少なくとも布団を出すために部屋に行かなくてはならない)
洋室タイプということは、完全なプライベート空間であるということなのだ。
しかも、その部屋には何度でも入りたいと思わせる極上の温泉がある。
お客によっては、滞在時間のほとんどを裸同然で過ごす方も多いだろうと推測する。
「気兼ねなく、過ごしてほしい」との、小百合さんの考えがここにも表現されているのだ。

2008年12月の創業以来、時間もあまり経っていないにも関わらず、この宿はリピーター客が増えている。
それは、小百合さんが考えて具現化した「今宵の湯宿 悠然」という宿のコンセプトが認められたという事でもある。
近未来的なガルバニウム鋼板の外壁の建物、パブリック施設を排除したプライベート重視の空間作り、和の懐石料理にとらわれない旬の地元の素材を使った料理、そして化粧水のようなトロトロの温泉をかけ流しで体感できる客室露天風呂・・・と魅力溢れる条件が揃っている。
しかも、市街地にあるため、駅でも高速道路のICも近い。
熊本空港ですら、クルマで30分圏内である。
しかし、周りがクルマの往来がある道路沿いでも、一度宿に入ってしまえば、そこには想像以上の静寂な自分だけの空間が用意されているのだから、これほど魅力的なところはない。
だからこそ、最近では記念日利用のお客も増えてきたという。
大事な日に宿で過ごすという事は、その宿を信頼している証拠でもある。
「アクセスがしやすいが、非日常を味わえる宿」・・・この宿の考え方が浸透して、これからも、さらなる進化が期待できそうだ。(J)