熊本県、九州内のみならず、今や日本を代表する温泉地にまでなった黒川温泉。田の原川沿いの谷間に延びる温泉街には、主に客室数30以下の小規模な温泉宿が連なる。いずれも土壁と瓦屋根で統一された外観と、周囲に広がる田園風景が相まった風情は、まさに"日本の田舎"。平日週末と問わず、多くの観光客がその風情を楽しみに温泉街を闊歩する姿は、いまやこの街の風物詩となっている。
温泉街のほぼ中心にあるのが「地蔵堂」と元湯の「地蔵湯」。これらの隣にある「ふもと旅館」の別邸が「旅館 こうの湯」。温泉街の中心から約1キロ、徒歩にして10分ほど離れた高台に佇む小さな宿で、もともとは別の経営だった旅館を、平成14年に「ふもと旅館」が買い取り再オープンさせた。
この宿は、田舎の風情や自然との一体感などの"黒川らしさ"はそのままに、周囲に他の宿泊施設もないことから、より静かに黒川温泉の雰囲気を堪能したい旅人の間で人気を呼んでいる。建物も木立の中点在し、まるで緑に溶け合うかのような外観である。
9客室のみというこの宿だけに、館内はシンプルな構成だが、緑の多い館内にはせせらぎが聴こえ、野鳥が休みに来る様子などがよく見られる。暖色の照明が灯された、木の温もり・自然の穏やかさを感じさせる通路で各棟が結ばれている。入口から左手に足湯を見、右手にまずあるのがフロントの入る棟。ここは2階に、見晴らしの良い食事処「登龍門」が入る。入口から見てフロントの右にあるのが、1階が喫茶兼食事処の「麓(ろく)」が入る棟と、貸切露天風呂の棟。そして足湯の傍らを過ぎ、通路を奥に行くと、男女別露天風呂の「森の湯」の棟がある。
「森の湯」はその名の通り、木々に包まれるように佇む大きな建物から入る。建物の外には囲炉裏も設けられている。フロントを通らなければ行けない客室棟と異なり、こちらは駐車場のすぐ目の前。日帰り客にとって便利なだけでなく、宿泊客のプライベート感を守ることにも役立っているようだ。営業時間は7:00〜22:00。入湯手形1回分もしくは500円での利用となる。
木々に包まれる広大な露天風呂は、男湯・女湯ともに大人20名でも余裕を持って入れるであろう。屋根も組まれた箇所、そして岩の洞窟もあり、天候が悪くても入浴を楽しむことができる。洗い場も小屋の中に設けられており、使い勝手も良い。葉の落ちる冬の時期などには、木々の枝越しに里山の光景が広がる。
女湯にはさらに、立ち湯も設けられているのが特徴だ。130センチの深さがある湯舟、天井から紐で結われた木の棒がぶら下がり、これにつかまって足を伸ばして入浴する形となる。濁り湯のため段差が見えにくいが、手すりにつかまるなどしてお気をつけいただきたい。
客室もそれぞれのプライバシーを最大限に尊重したつくりとなっており、経営が新たになってから設けられた離れ形式が4室、離れではないものの段上に連なった長屋に5室という構成。客室タイプは2つで、平屋タイプが3室。メゾネットタイプが6室。「あせび」のみ離れになっているが、他の5室は長屋状に隣り合うかたちとなっている。ゆったりとした設えやアメニティはみな同様で、また静けさを保つプライベート感が高いのも同じ。専用の露天風呂のみ趣が異なる。
それぞれが離れの棟になっている平屋タイプの客室は、より高いプライベート感が得られるだろう。室内もゆったりとした構成で、10帖の和室にはマッサージチェアの置かれる広縁が隣接する。フロントからは極力段差も少なく設計されているので、ご年配の方でも安心して宿泊を楽しむことができそうだ。
ここは客室ごとに露天風呂の形状こそ異なるが、高台の立地を活かした見晴らしの良さは同じ。外からの目隠しに木立が湯舟脇にあるが、この間から見る里山の穏やかな光景は、のんびりと過ごすここでの滞在における思い出として、きっと深く心に残るであろう。
メゾネットタイプは玄関を入るとまずリビングがある。ここにはマッサージチェアが置かれ、洗面、トイレ、そして源泉かけ流しの内湯と、庭の露天風呂への出入りができる。階段を上がった2階が本間の和室、窓際には板敷きの広縁が取られ、外に広がる光景を見渡すことができる。
お風呂は洗い場もある大人1名サイズの内湯と、広々とした露天風呂がある。露天風呂へは縁側から出入りもできるが、内湯のもうひとつの扉からの出入りもできる。冬期など寒い時期には、まず内湯で身体を温め、それから露天風呂で風情を楽しむという利用方法がありそうだ。いずれの湯舟にも濁り湯の源泉がかけ流しにされているので、いつでも、好きなときに好きなだけ、良質のお湯を堪能していただきたい。
部屋でくつろぎ、たっぷりと温泉を楽しんだら、夕食の時間だ。食事処で振舞われるのは、若女将が自ら毎日仕入れにいく旬の食材をふんだんに使った創作和食料理。若女将の言う、「遠くの名産よりも近くの採れたて」を念頭にスタッフ一同で試行錯誤を重ね、「こうの湯」ならではの、より親しみやすい味わいに仕上がっている。器との相性も良く、舌だけでなく目でも楽しめる品々、取材時(2008年6月)は初夏の爽やかさを感じさせるメニューであった。以下に紹介する。
食前酒は自家製のしそ酒。前年から漬けはじめたという自家製の果実酒が主で、しそ酒の以前には苺酒などが振舞われ好評だったという。既製品では味わえない、素朴な味の広がりが爽快だ。小鉢には山独活と南阿蘇の紅鱒の和え物が。さらりとした口当たりが涼やかなエントリーである。
新緑のもみじが添えられた前菜は、新じゃがと空豆、柑橘と野菜の生ハム巻き、南関揚げとアスパラの春キャベツ巻きの三品。どれも口当たりが優しく、味付けも軽やか。初夏をそのまま味わう感覚だ。続く汁物はたまご豆腐のお澄まし。やわらかく、じんわりと胃袋を暖めてくれる。香りの高い山椒は宿の庭で栽培されているものだ。
ここで、向付として熊本名産の馬刺しが登場する。だが、ここで出されるのは、玉葱、ガーリックチップ、ラディッシュ、生姜のはりはり、ニンジンをトッピングし、醤油ベースのソースをかけたもの。野菜の口当たりや香りが馬肉の生臭さを中和し、より食べやすい工夫が施されている。和の味わいと洋の親しみやすさ、双方の良さを融合した一品だ。馬肉がはじめてという方でもすんなりと味わうことができるだろう。
そして南阿蘇産アユの塩焼き。じっくりと火にくべられたため、骨までいただくこともできる。綺麗な水で育った川魚の、さっぱりとした味わいを堪能したい。添えられた茄子田楽と生姜がよい箸休めになっている。
揚げ物は、地産の野菜ならではの新鮮さを閉じ込めた天婦羅。具材には、南小国特産の舞茸、スナップエンドウ、こごみ、雪ノ下。抹茶塩や柚子塩をつけることで、より風味の増した素材の味を楽しめる。蓋物は、里芋饅頭の湯葉餡かけ。里芋は近隣の畑で収穫されたものを用いている。肉、魚、揚げ物と続いた中での小休止に適したあっさりとした味わいで、器との相性も良い目にも楽しめる一品であった。
メインの鍋物には、肥後牛と採れたて野菜のしゃぶしゃぶをいただいた。大根の薄皮剥き、キャベツ、しいたけ、エリンギ、葱といった、地産の野菜が華やかに並ぶ。湯通しするだけのしゃぶしゃぶだから、肥後牛のとろけるような口当たりと新鮮そのものの野菜の香り、上質の素材のより濃縮された味を堪能できる。
この後には長いもそうめんの酢物が出され利。カニ身、イクラ、オクラのすり身が添えられた、ネバネバとした食感とツンとしないさっぱり爽快な味わいで、肉を食べた後のお口直しにも最適であった。
食事の締めには十穀米のお茶漬けが。薄味のダシをかけていただく、後味もさっぱりとしたヘルシーな一品。胃にももたれず、最後の一滴までいただいた。食後には自家製マンゴープリン。小国ジャージー牛乳を用いたもので、脂肪分4.5というその濃厚な味わいが活かされた一品だ。
上品な味付けと盛り付けの夕食は、その意外性も手伝い、やはり特に女性からの支持が大きいとのこと。体を癒しに来る旅行だが、やはり移動などで体は疲れている。そのためなるべく胃に負担のかからない、野菜類を多く提供している。当然その野菜には、味や鮮度にこだわりがあり、近隣の農家で栽培され、地元直売所に置いてあるものや、また宿の真下にある畑からの収穫物も食卓に並ぶという。
朝の食卓も既製品はなく、自家製品のみで彩られる。ドリンクには特製青汁。これはリンゴ、小松菜、ハチミツ、レモン汁などがミックスされたもので、ジュース感覚でいただける。
無農薬で育てられた南小国産のご飯、味噌汁を基本とし、できたてでプリッとした食感のある豆腐、トマトソースのかかるハム入り玉子焼き、板場で調合する自家製朴葉味噌、山女の一夜干し、しいたけ・がんもどき・エンドウの煮付けが並ぶ。さらに籠に並ぶ惣菜は、明太子、じゃこ、ほうれん草の胡麻和え、切干大根、山くらげの軟らか煮、甘辛い味の大豆の座禅煮、木耳のぬかづけ、岩海苔というラインナップ。
「旅館の朝ごはん」の定番ともいえる和食で、素朴だが、それぞれの品にもしっかりと深みある味が感じられる朝食であった。
出発前には、フロントの前に並ぶお土産もチェックしていただきたい。やはり近隣で制作された、プリザーブドフラワーの飾り物や、竹筒を加工した酒器など自然を感じさせる個性的な品々が並ぶ。中でも異彩を放つのが“クロマー”と呼ばれるカラフルなスカーフ。これはカンボジア王国で、人々がみな身につけている布である。カラフルな色のチェック柄が施されたこの万能布、地元の人々はこれをスカーフにしたり、汗拭きにしたり、帽子替わりにしたりと多様な用途がある。またお土産としても最もポピュラーなもので、ここでは1枚900円にて販売することで、現地の産業育成の手助けをしているそうだ。
全く関係のなさそうな黒川温泉とカンボジアだが、実は密接な交友関係にある。NGOの「熊本国際化センター(KIC)」が、2007年にカンボジア観光局の視察団を黒川温泉に案内したことがきっかけ。その際にここの「森の湯」で温泉浴を楽しんでいったという。初体験の温泉をいたく気に入ったカンボジア観光相が、黒川を九州有数の温泉地に発展させた知恵を、自国でも湧き出る未開発の温泉に活かすことはできないかと依頼したそうだ。2008年6月には視察団の一員として、「こうの湯」の姉妹館である「ふもと旅館」のご主人と女将が派遣された。
平均気温が30℃というカンボジアでは、「湯につかる」という習慣がないため、これまで温泉が湧き出ても活用されることがなかった。もしこれが観光資源として稼動すれば、集客と同時に地元の
人の雇用にもつながり、地域の発展も期待できる。温泉という地球の恵みを介して、日本が育んできた文化や知恵が世界に広まるというのは、壮大かつ、どこかロマンのある話である。
黒川温泉の街中の、まさに中心といっていいロケーションにあるのが「ふもと旅館」。その繁盛振りは今さら語る必要はないと思うが、創業当時は大変苦労されたという。
もともとは「つるや」という旅館を先代が買い取って、「ふもと旅館」と改称してオープンしたのが発端。昭和30年のことだ。 宿名は、俳人・高浜虚子の弟子、高野素十(たかのすじゅう)(1893-1976年)にいただいた。
大牟田市出身の現女将・松崎久美子さんがこの宿に嫁入りしたのが昭和55年。 その頃は、現在の黒川温泉の面影は全くなく、ほとんどの宿は閑古鳥が鳴いている状況だったという。
そこで、前述のように、二代目にあたる現社長の松崎郁陽(いくひろ)さん(現・黒川温泉組合の専務理事)と女将さんによって考案された、各旅館の露天風呂めぐりができる「温泉手形」が評判を呼び、徐々に注目を集めるようになる。昭和61年の話だ。
翌昭和62年には、熊本日日新聞はじめ、各マスコミが大々的に取り上げ始め、その頃から「黒川温泉」の快進撃が始まった。
狭い山あいの鄙びた温泉地の風情が、露天風呂の豊富さとともに、都会の人々の郷愁を誘ったのだ。
一番のピークは平成13年〜15年の頃。どこの宿も連日満室状態だったという。
現在はピークは過ぎたとはいえ、それでも他の温泉地から比べれば、圧倒的な客室稼働率を維持しているようだ。
それは、リーズナブルな料金設定、源泉かけ流しの露天風呂、山里の風情・・・など黒川温泉の独特な魅力によるものだが、ここ「ふもと旅館」はまさにその黒川温泉の典型的なお宿と言えるだろう。
客層も若いカップルから、家族連れ、熟年夫婦など、幅広い。
他の宿との決定的な違いは、やはり貸切風呂の数の多さだろう。驚くほどの大きな湯舟はないが、それぞれが個性的な造りなものばかり。
だからこそ、リピーター客が多いのだろう。
女将に宿を運営する上でのポリシーを教えてくださいとお聞きしたら、「笑顔が一番」と返ってきた。お客が居心地の良さを感じられるのは、宿全体が笑顔で満ちていれば、おのずと雰囲気も良くなることからか。
また「人に親切にされた事が思い出に残る」とも答えてくれた。
「ふもと旅館」は「笑顔」と「親切」の宿なのである。
この宿の心地良さの秘密はこれだったのかと得心した。(J/eb)