急峻で険しく、男性的と形容されることの多い北アルプスの山々。ところが、南側に位置する剣ヶ峰(標高3,026m)を主峰とする乗鞍岳は、なだらかな丘陵地帯が広がる女性的なイメージの山並みが続いている。標高1,500mに広がる高原地域が「乗鞍高原」である。
2003年にマイカー規制が施行されたため、畳平(標高2,702m)へは、麓の「乗鞍高原」や平湯から、バスやタクシーを用いなければ車で上がることは出来なくなったが、それでも「ハイヒールで登れる山」や「日本で一番登りやすい3,000m級の山」といまだ表現されている。春は山すももの花、初夏はミズバショウやヤナギラン、秋はナナカマド、冬は雪景色と様々な表情で訪れる観光客を楽しませてくれる乗鞍高原。「大雪渓」、「一の瀬園地」、「三本滝」などの雄大な自然だけでなく、「乗鞍高原温泉スキー場」と「乗鞍高原いがやスキー場」の2つのスキー場もあり、時期を問わず楽しめる高原リゾート地として知られる「乗鞍高原」に、上質な温泉があることはあまり知られていない。
「白骨温泉」のような乳白色にエメラルドグリーンを足したような神秘的な色が特長の「のりくら温泉」をはじめ「わさび沢温泉」、「すずらん温泉」、「安曇乗鞍温泉」と泉質の異なる4種類の温泉が湧き出ており、ペンションや民宿が存在するが、温泉地全体が全国的に認知度を得ているとは言い難い。
その中に、全国の温泉ファンが良質な源泉を用いた上質な温泉を求め、通う温泉旅館がある。それがこれから紹介する「山水館信濃」だ。
「山水館信濃」の創業は昭和48年。「乗鞍高原スキー場」のオープンに合わせて、それまで蕎麦畑として使用していた土地で旅館の運営を始めた。創業当時の宿名は「高原の宿信濃」。宿名は、“乗鞍高原にある宿”と、祖先から屋号として使用していた“信濃屋”を組み合わせて付けられたという。元々、創業者である現社長の両親は、昭和30年代に流行した、避暑地で勉強に集中したい学生のための「学生村」で民宿を経営していた。現社長が旅館業を営む決断も必然だったのかもしれない。
スキー場の隣という立地と、世の中のスキーブームがあいまって、順調に集客は増えていった。また、「学生村」に滞在していた方が、社会人となった後に再訪することも数多くあったという。そして平成7年に現在の西館を増築し、現在の姿となった。
客室数は、西館と東館を合わせて20室。客室名は「すもも」や「つがざくら」といった乗鞍の山野草や山の幸から名付けられており、より山の宿としての情緒を高めている。どの部屋からも、山の四季折々の表情を楽しむことができる。冬は隣接する「乗鞍高原スキー場」のゲレンデや雪と青空のコントラスト、夏の迫ってくる緑とさえずる鳥の声、秋の燃えるように赤く染まった木々、まったく異なる表情が客室から眺められるのは、この旅館の魅力のひとつである。
ロビー横の階段を上れば、そこは創業時に建てられた東館2階。客室と広縁があるのみシンプルな間取りの客室が7室ある。6帖間が1室、8帖間が4室、10帖間が1室、客室「筍」は8帖+6帖の二間続きとなっているので、家族旅行やグループ旅行に適している。東館の客室は、全室バス無し・トイレ付きだ。
ロビーの先にある階段を上ると、平成7年に建てられた西館2階。西館の2・3階には客室が13室ある。1室のみツインベッドの配された洋室だが、それ以外の12室も和室と広縁のシンプルな間取りで構成されている。内訳は8帖間が7室、10帖間が3室だ。残りの2室は、二間続きの広い客室。西館3階の客室「すずらん」は、10帖+12帖の二間続きの和室、バス無し・トイレ付き。西館2階の客室「やなぎらん」は、10帖+8帖の二間続きの和室、バス・トイレ付き。この2室は、人数の多い旅行時に選択したい。なお、西館の客室は全室「乗鞍高原スキー場」のゲレンデに面しているので、春夏秋冬の魅力ある山の姿が間近に感じることができる。
「山水館信濃」には男女別に大浴場がある。それぞれの浴場には、内湯と露天風呂が設けられている。内湯に使用されているのは、エメラルドグリーンがかった幻想的な乳白色のお湯と硫黄臭が特長の「単純硫黄温泉(硫化水素型)」、一方露天風呂に使用されているのは「カルシウム・マグネシウム-炭酸水素塩冷鉱泉」だ。
内湯に用いられている「単純硫黄温泉(硫化水素型)」は、婦人病、胃腸病、皮膚病、糖尿病などに効能があると言われている。お湯が酸性のため、肌が弱い人が内湯に浸かって洗い流さずに寝てしまうと、翌朝体が痒くなったりすることがあるそうだが、この宿の露天風呂は、内湯と泉質が異なることを忘れてはならない。内湯をじっくり堪能した後に、露天風呂に浸かれば痒くならない。一つの宿で二種類の温泉が楽しめることは、贅沢この上ないと個人的には思う。
じっくりと湯浴みを楽しんだ後は、お待ちかねの夕食の時間。「山水館信濃」の夕食は、フロントの横にあるお食事処「宝來(ほうらい)」でいただくことになる。
夕食の包丁を握るのは、専務の奥灘充氏。大学卒業後、料理の勉強に励み、25歳で宿に戻った専務の作る料理は、幼少の頃より親しんできた乗鞍の郷土料理。旅館のスタッフとともに山へ入り、自生する旬の食材を収穫し、ふんだんに料理に用い、先祖から伝わる伝統の味を再現している。
では、専務が「これが乗鞍のソウルフード」と自信を持って提供する夕食(2008年3月取材時)をご紹介しよう。
食事処へ入ると、囲炉裏を囲むように置かれた料理の数々に驚いてしまった。「おなか一杯になってほしい」というコンセプト通り、その量の多さにも特長がある。
食前酒は、山で秋に実を付けた山すももを焼酎で漬け込んだ「山すもも酒」。アルコール度数は高いが、あっさりとした飲み口で一飲みしてしまった。先付は「きのこのごった煮」。ならたけ、なめこ、りこぼうを煮付けた郷土料理だ。八寸は、飛騨出身の女将が、自らの出身地より取り寄せた飛騨の伝統料理「凍豆腐」、山で採れるなつめの実を甘く煮た「なつめ蜜煮」、6月に山に入って採った行者にんにくを味噌漬けにし保存している「行者にんにく味噌」が並んだ。
お造りは長野名産の「馬刺し」。やわらかく、味わい深い桜肉を生姜醤油でいただく。
口の中でとけていく食感を楽しんでいると、囲炉裏で鴨鍋がぐつぐつ煮え立って食べごろを迎える。古くから乗鞍の各家庭で食べられていた伝統料理だそうだ。鴨の出汁が良く出ていて非常においしかった。なお、裏メニュー的ではあるが、スタッフに声を掛ければ、そのおいしいスープで雑炊を作って食べることが出来るそうだ。
焼物には「練ったご飯にそばの実のお味噌を乗せて」という長い料理名が付けられているが、実は乗鞍で「ひらみそ」、「へらみそ」と呼ばれる郷土料理のこと。杉板に練ったご飯を乗せて、そば味噌をつけて焼いて食べるというシンプルな料理ではあるが、非常においしかった。
焼魚は、山奥からきれいな水を引き、旅館内に作った生け簀で泳がせている「岩魚」に塩を振り、囲炉裏でシンプルに塩焼きに。手づかみでそのままかぶりつくことをおすすめする。
蓋物は、信州の伝統料理である「そばがき」。水でそば粉を溶いて、練り上げた「そばがき」には、餡が掛けられている。
揚物には「天ぷら」が出された。敷地内で顔を出したふきのとう、独活、信州ではポピュラーなりんごの三種類がならんだ。りんごの天ぷらはスナック感覚でいただけておいしかった。また、りんごの天ぷらの変わりに、夏場は自家農園で採れるトマトの天ぷらが出されるそうだ。
椀物は「そばの実汁」。自家農園で収穫された人参や大根、そばの実などを煮込んだ料理だ。一般的にはあまり馴染みのない料理だが、けんちん汁の乗鞍バージョンといえば、ご理解いただけるだろう。女性に好まれるあっさりとした味だった。
酢の物には、6月〜7月に掛けて川辺で採れるいたどり、自家農園で生産しているもって菊、ちぢみこんにゃくが並んだ。
煮物は、山で採った後、塩漬けにして保存しておいた蕨と人参を煮込んだ一品。
黄色い岩魚の卵が緑色の大根おろしの上に盛り付けられ、視覚からも鮮やかな色合いで楽しむことができる珍味。お酒のあてにも最適な一品だった。
量が多くてここまで辿り着けない宿泊客もいるそうだが、ご飯と味噌汁、漬物の野沢菜が出される。少しずつおかずを残しておいていただくのも良いが、個人的には鴨鍋の残り汁に入れて、雑炊にしていただくことをおすすめしたい。
最後を締める水菓子は、揚げたパン粉が掛けられた、信州産りんご「フジ」を煮て冷やしたものが出された。食感はシャーベットそっくりで、非常においしかった。
上記の他にも、別注品にこんな料理がある。
松本市で牛を生産する小山さんが育てた「小山牛」を用いた「鉄板焼き(200g/\3,800)」。松本ではこの一軒だけしか生産していないので、希少価値がある。別注の品だが人気が高い。囲炉裏にバターをひいた鉄板を置き、高温で焼き上げていく。柔らかさと脂の入り具合が丁度良い肉で、非常においしかった。
「岩魚のお造り(\1,050)」も別注の一品。天然に近い状態で育てられている岩魚を仕入れ、生け簀で飼育している。きれいな水の中でしか生息できない岩魚のために、社長と専務が山に出向いて旅館まで水をひいたという。川魚独特の臭みがまったくなく、新鮮な魚らしい食感も味わうことができる。
翌朝いただくのは、山で採り、保存しておいた山菜や自家農園で育った野菜を中心に作られたヘルシーな朝食だ。ニジマスの甘露煮、こしょう味噌、玉子焼き、高原地でしか収穫できない花豆の煮物、野沢菜、乗鞍産の人参、大根を用いた郷土料理の煮物、ひじき、きんぴら、からいも(きくいも)の漬物、山葵の葉、のり、梅干が食卓に並んだ。
国定公園に指定され、夜の10時以降の外出が制限されている乗鞍高原なので、歓楽街的なものはない。夕食のあとは部屋に戻って、めいめいくつろいでほしい。個人的におすすめしたいのが大浴場の露天風呂へ再び行くこと。標高1,500m、澄みきった高原の空気に浸り、星が輝く夜空をながめながら湯浴みが楽しめる宿は、そう多くはないはずだから。
チェックアウトの前には、ロビー横にあるお土産コーナーのチェックは忘れないでほしい。地域の銘菓も揃えられているが、注目したいのは手作りのお土産品。殺菌効果が高く、塗りこむことでも効能が得られる「湯の花(\630)」や、煎じて飲むと胃腸病に効果があると伝えられている「きはだ(\350)」は、大自然からの贈り物。乗鞍で作られた「日本蜂蜜(\2,800)」や、女将さんお手製で朝食で味わうことができる「辛みそ(\840)」は、この宿でしか購入できない。
「乗鞍高原」といえばスキーと山登りというイメージが強いことは否めない。そこで、乗鞍高原観光アソシエーション青年部が中心となり、新たな乗鞍の楽しみ方の提案を始めた。それが、北欧の諸国ではすでに認知されている「ノルディック・フィットネス・ウォーキング」だ。ノルディックスキーのようにポールを持ってウォーキングすることが最大の特長で、持続することで、姿勢の改善、腰周りの強化につながるという。「乗鞍高原」の自然を満喫しながら、心も体も健康になれると、少しずつではあるが認知されてきたそうだ。\1,500(ガイド、インストラクター、ポールのレンタル代含む)で約1時間半〜2時間、高原内を歩き回るこのプランは、一度試してみる価値がある。
現在、宿の先頭に立って運営に携わっているのは、専務の奥灘充氏と若女将の奥灘智美さん。高校時代に知り合った、笑顔が素敵な二人の息のあったコンビネーションが、宿で働くスタッフにも浸透し、楽しそうに働く姿が印象に残っている。
「山水館信濃」は、「白樺」、「かえで」、「山すもも」などの木々に囲まれ、四季折々に様々な表情を見せる大自然のど真ん中に佇んでいる。スキー場に隣接し冬は冬で、雪のないシーズンは、カラッとした高原地全域を遊び道具にでき、レジャー的にも申し分ないと言えよう。
こういった旅館に余計なものを望んではいけない。乗鞍の森林からマイナスイオンを吸収し、おいしい料理を食べ、良質な2つの温泉に浸かる。こんな単純な行為こそが、溜まった疲れを完全に癒し、また、日常を生きてゆくエネルギーを充填させるには一番効果があるのだから。これらの行為を自然体で行えるのがこの宿の最大の魅力であり、リピーターを集める理由なのだろう。(J/NS)