会津の奥座敷・東山温泉の起源はおよそ1300年前と言われている。
奈良時代、布教活動のため全国を回っていた僧・行基により発見されたとの言い伝えもある。
山形の上山温泉、湯野浜温泉とともに奥羽三楽郷に数えられる歴史ある温泉郷としても有名だ。
会津といえば、鎌倉時代から数多くの大名が治めた歴史がある。
鎌倉幕府滅亡後、1379年に勢力を失った葦名氏が会津に移り住み、1384年には東黒川館(黒川城)を築いた。これが後の鶴ヶ城(若松城)となる。
全盛期の領地は、新潟県東部から福島県に至り、東北の最大勢力となった。
しかし、1589年、20代葦名義広(常陸佐竹より養子に入った)は、摺上原(すりあげはら)の戦い(現在の福島県猪苗代町、磐梯町の磐梯山の裾野)で伊達軍に敗れ、わずかの兵と共に逃れた。
代わって伊達政宗が会津を支配したが、その期間はわずか1年で終わる。
1590年、豊臣秀吉に仕えてきた蒲生氏郷(がもううじさと)は、伊達から取り上げた会津(92万石)を与えられる。
氏郷は伊達からの攻撃を考え、(盆地の南側である)黒川城に入り、地名を黒川から若松と改めた。
七層の天守閣を建て、城下町の町造りも行った。
蒲生氏郷は、京都近郊で育ったため茶道に優れ、それを会津中に広めた。
また漆器や酒造に着眼し、これを振興する。屋根瓦製造の為、本郷焼き等の会津陶磁器の基を作った。
領民の意見を聞き、猪苗代湖の水を農業用水として利用し始めたのも、氏郷だった。
施政はわずか4年、実際に会津に居たのは数ヶ月だったが、その街づくりは現在まで残っており、その影響は非常に大きかった。
その後1598年、蒲生氏に代わって、NHK大河ドラマ「天地人」でおなじみの上杉景勝が藩主となったが、家康の世となり、わずか2年で転封されている。
江戸時代に入ると、藩主となった保科氏が松平の性を受け、会津藩は御三家に継ぐ家格となった。
東山温泉も、会津藩の湯治場として大いに栄えていたようだ。
しかし時代は流れ、幕末のクライマックスの1868年(明治元年、暦で戊辰の年)。
新政府軍に対し最後まで争ったのが、京都守護職で会津藩主の松平容保(かたもり)だった。
会津を含む奥羽25藩の連名で奥羽列藩同盟を結成し、世にいう戊辰戦争(戊辰の役)が開戦する。
しかし一部の藩の寝返りが起こり、長岡城や新潟港を占領されると形勢は決する。
そして、会津の領地に新政府軍がなだれ込んできたのだ。
鶴ヶ城へも雨あられの如く、大砲が打ち込まれたという。この時起こったのがいわゆる「白虎隊の悲劇」である。
敗れた会津に残ったのは焼け野原だけだった。
会津の町を復活させたのは、街の商業者である。
家を建て、職人を呼び戻し、町の機能を整えていった。
そんな苦難の時を経て、昭和40年、明治政府によって明治7年に解体させられていた鶴ヶ城が再建される。
昭和46年には、「会津復古会」が旗揚げし、時代に逆行するかのような昔ながらの蔵造り・木造町屋の店舗が復活していった。
そして、現在では会津若松市は歴史と文化の息づく町として、国内でも有数の観光都市となった。
そんな会津若松市の中心地から車で10分程度の東山温泉。
そのアクセスの良さからは考えられないほど豊かな美しい自然が残っている。
「雨降り滝」、「原滝」、「向滝」、「伏見ヶ滝」を含めた「東山四大滝」が、山間の「湯川」の周りにあり、古くから湯宿が点在している。
「庄助の宿 瀧の湯」は東山温泉の入口、「伏見ヶ滝」に沿うようにして建つ渓流の宿。
宿の真横を流れ落ちていく落差11メートルの滝はまさに壮観。
東山温泉は「伏見ヶ滝」の付近から最初に湧き出たと言われている。
この滝の由来に関するこんな民話も伝わっている。
・・・昔むかし、藤という娘がいた。
ある男に想いを寄せていた藤は、その恋が叶うようにと滝の不動尊に願掛けを行っていた。
すると、突如不動明王が現れ、「東山の入口にある松の三又の古木がある。その枝に石を投げて縁の有無を試してみるがよい。石が松の枝に留まれば願いが叶えられるが、落ちるようならあきらめるのがいいだろう。」と言って消えてしまったそうだ。
それを聞いた娘は一心不乱に石を投げ続けたが、すべて枝に留まることなく落ちていってしまう。
悲嘆にくれた藤はそのまま滝に身を投げてしまったのだ。
それ以来、人々はこの滝を「藤身ヶ滝」と呼ぶようになり、それが転じて「伏見ヶ滝」と呼ばれるようになったという。
ただし一夜にして滝が生まれた「不思議ヶ滝」から転じたという説もある。
東山温泉郷には、今では珍しくなった芸妓が今でも活躍しており、温泉街に花を添えている。
「庄助の宿 瀧の湯」には宿のシンボル、能舞台「花心殿」が湯川の対岸に設けられ、毎晩ここで地元芸妓による踊りを鑑賞することができるのだ。
ほぼ4階に位置しているので、フロント付近のビューラウンジ「小手毬(こてまり)」からは目の前となる。
こちらのラウンジは能舞台を間近に見えるボックス席と、天然木のカウンター席がある。
夜8時からバーラウンジ「Kodemari」に呼び名が変わり、静かな雰囲気を演出する。カクテルグラスを傾けながら、能舞台をゆったりと鑑賞できるだろう。
「庄助の宿 瀧の湯」の温泉は湯川の対岸から引いている自家源泉「瀧の湯源泉」と東山温泉管理組合から分配される湯を混合して使用している。
戊辰戦争(会津戦争)の直前、新撰組副長・土方歳三が、治療に来ていたという泉質は「カルシウム・ナトリウム−硫酸塩・塩化物泉(弱アルカリ性-低張性-高温泉)」。無色透明でpH8.6の滑らかなお湯だ。
この泉質は皮膚に付く食塩の効果で保温性が高く、湯冷めしにくい。
また、硫酸イオンは血液に多くの酸素を送る効果があり、動脈硬化予防にいいとされている。
他に効能はリウマチ、高尿酸血症、創傷など。
男女別の大浴場は「庄助風呂」「伏見の湯」。
「湯川」と「伏見ヶ滝」を真横に望む絶景の浴場スペースで、それぞれ内風呂と露天風呂を備えている。内風呂二つのうち小さい浴槽は、源泉100%かけ流しとなっている。
時間によって入れ替えとなり、「庄助風呂」は12:30〜25:00が男湯、4:30〜9:30は女湯、「伏見の湯」は12:30〜25:00が女湯、4:30〜9:30に男湯となる。
湯上りコーナーでは湯上りビール、ヨーグルト、振舞い酒などのサービスがあった。
また、大浴場付近に備わっているのが「かわかぜ足湯」。
「花心殿」を目の前に望む源泉100%の足湯に浸かれば、渓流が奏でる音に大変癒される。
宿名にある通り、この宿のテーマは「小原庄助」さん。
いわずと知れた民謡「会津磐梯山」に登場する、朝寝朝酒朝湯が大好きな伝説の人物だが、実際そのモデルとなっている人物が諸説存在する。
中でも「瀧の湯」に長く逗留していたという幕末の人物がモデルとして有力視されている。
その人物はめっぽう酒に強い豪傑で、正義感も強く、前述の会津戦争(戊辰戦争)に参加して、華々しく命を散らしたという。
この宿の会長である齊藤純一氏はこの小原庄助さんの遠縁にあたるということで、実際に本人が使ったという石風呂の湯舟が展示されていた。
この石風呂は湯が沸くまでに時間はかかるが、一度温まれば朝まで冷めない物だという。朝湯好きの庄助さんにぴったりのお風呂なのだ。
また、齋藤氏のご先祖様と思われる会津藩侍大将・齋藤久右衛門着用の鎧も飾られていた。
3階には、お好み処「ガス燈」がある。
ここでは地元の会津ラーメンがいただける。縮れ麺に、豚骨、鶏がら、魚介をバランスよく配合したスープが絶妙だ。ちょっと小腹がすいたという人のために半盛りラーメンもご用意。
他に餃子や酒などのメニューもある。ラーメンは客室まで出前もできる。営業時間は21:00〜24:00(ラストオーダー23:30)。
同じく3階に備わっているのが貸切スナック「ファンシーボール」。
こちらではグループでカラオケが楽しめ、何人で入っても1時間4,200円で利用ができる。一人1,575円追加でウイスキー、焼酎、ソフトドリンクが飲み放題となる。