この宿の歴史を語る上で、初代社長・石橋隆純さんの事業から記述していきたいと思う。
実娘である二代目オーナー、石橋孝子さんの自伝「やるっきゃないでしょ。」(悠飛社)を、参考文献とさせていただいた。
太平洋戦争が勃発する以前、東京の大森で小さなプレス工場を営んでいた石橋隆純社長は、東京大空襲の後、故郷の郡山に疎開する。
そして、福島県郡山市日和田でプレス工場を立ち上げると、3人の子どもを養うために、脇目もふらずに働き続けた。
妻であるアイさんも、熟練工の一人として、獅子奮迅の活躍をしたという。
その工場は、昭和32年には石橋工業株式会社となり、順調に大きくなっていった。
そして昭和42年3月、市内から一番近い温泉地、磐梯熱海に社員のための保養所を竣工した。
その保養所は「山荘よもぎ」と呼ばれ、その年の11月には一般の方にも開放し、旅館として創業する。
これが「離れの宿 よもぎ埜」の前身なのだ。
“一生懸命な接客”が受け、業績も上々だった。
そして、昭和56年には大規模なリニューアルを行い、名前も「ホテルよもぎ」と改めた。
ただ、この頃の建物は、現在の「よもぎ埜」と比べると全く180度違う造り。
3階建ての無味乾燥な鉄筋コンクリート造りで、まさに社員寮といった外観。
無骨なまでに、一所懸命働き続けてきた隆純さんは、おそらく、すべてにおいて着飾るということをしない実直な人物だったのだろう。
しかし、妻であるアイさんは、お茶を筆頭に、古典文学、芸術や歴史への関心が深く、さらに言えばロマンチストだったという。
昭和58年、もう一棟同じように増築しようとしていた隆純さんに、アイさんは真っ向から反対。
そして、説得が功を奏して、アイさん主導のもと、離れ5室を渡り廊下でつないだ、全面平屋の「松籟亭」を建てることになった。
これが、現在の「離れの宿 よもぎ埜」のコンセプトの始まりとなった。
茶室の知識や、数寄屋建築の本を読み漁り、布団の柄から飾り物まで全てにこだわり、「松籟亭」という名前は源氏物語から拝借した。
さらに、宿の外見だけでなく、中のサービスでも手を抜かずに行う。
全室に、源泉かけ流し温泉の古代檜内風呂を設けたのは、贅沢で大人の時間を満喫するのにふさわしい試みであった。
石橋社長は「たった5室で何ができるか」と文句を言いつつも、言い出したら聞かないアイさんに対して、納得するしかなかったようである。
そして、いざ「松籟亭」がオープンすると、たった5室ながら、3階建ての本館の売上げを上回ることも度々だったという。
石橋社長も参ったとは言わなかったが、妻に対して白旗をあげたようで、「全面改装は任せたから」との一言。
これ以降この宿は、石橋アイさんが陣頭指揮し始めた。
そして平成2年、ほぼ現在と同じ宿の形となり、全面改装を無事終え、「離れの宿 よもぎ埜」としてリニューアルオープンする。
磐梯熱海の温泉旅館に欠けていた“雅さ”が込められたこの宿は、一気に人気宿の仲間入りを果たしたのだ。
現在のオーナーは石橋社長の次女・石橋孝子さん。彼女も、両親の経営している宿をすんなり継いだわけではなく、数奇な人生を送ってきた。
話は遡るが、昭和19年、東京の大森で生まれた孝子さんは、まだ赤ちゃんの時に(前述のように)郡山市日和田に疎開する。
小さな頃から実家の工場を手伝う働き者だったという。
そして、大学進学のため上京。卒業後、車のセールスをしていた男性と結婚し、息子を授かる。
ほどなくして、昭和45年の夏、日本中が盛り上がった大阪万博が開催した。
当時の「山荘よもぎ」の社長、石橋隆純さんは、万博会場の近くで、姉妹館「万博よもぎ荘」をオープンさせた。
だが、勢いで始めた感が強く、従業員も足りていないような状況。
すると、娘の孝子さんは頼まれてもいないのに、夫を置いて、幼い息子を抱え、大阪に飛んで行って宿の手伝いをしてしまう。
半年後、東京に戻ると、放って置かれた夫としては面白いわけがなく、二人の間に深い溝ができてしまう。
もともと働き者の孝子さんと、「仕事は、ほどほどに」という考え方の夫とは、価値観が合わなかったようである。
しかし、郡山に住む両親の反対を押し切り離婚した孝子さんは、父・隆純さんから勘当を言い渡されてしまう。
親も頼れず、一人息子をかかえながら再び上京する。昼は喫茶店、夜は酒屋で働き通しだった。
3年後、息子のためにも独立を考えていたという孝子さんは、およそ4000万の融資を調達することになった。
だが一番の問題は、誰に保証人になってもらうかということ。
「勘当されているといっても、この世で一番信用できるのは父しかいない」と思い、休日ごとに、お詫びと保証人のお願いで郡山に通ったのだ。
そして母・アイさんのとりなしもあって、隆純さんも最終的には保証人にはなってくれたという。
昭和50年、ついに孝子さんは、大森でスナック「ラ・ジョロナ」を創業する。
19坪の小さな店だったが、ラテンギターの弾き語りなども受け、なかなかの繁盛ぶり。
6年が経ったころには、4000万の借金を返済し終えたという。
その後は、大森東口で「かっぽう だら毛」をオープン。
駅前にある一等地のビルのワンフロアを借りたのだが、建物自体老朽化がすすんでおり、建て直しが必要だった。
すると孝子さんは銀行に必死に頼み込み、この土地を丸ごと買収してしまったのだ。
着の身着のまま東京へ出てきて、ついに自社ビルを持つまでになったのだ。(後に自社ビルは3つになった!)
そして昭和60年、念願の「だら毛ビル」がオープンするという折に、孝子さんにとって、さらなる嬉しい出来事があった。
父・隆純さんが勘当を解いてくれたのだ。
「娘が飲み屋をやっているなんて許せんと思っていたよ。しかしお前の話を聞いていたら、息子を決しておろそかにしなかったことがわかった。借金を返すなんて当然で、そんなことは別に評価しない。何をしていても子どもが第一だ。その姿勢が、ブレていないから、俺は許すことにしたんだ」と、後年、孝子さんに語ったという。
その後は、居酒屋からクラシックホテルまで運営する、ティオスグループのオーナーとして、大成功を収めた孝子さんである。
無一文から、まさに女手一つで事業を成した実業家として、テレビや雑誌にも度々取り上げられた。
平成5年からは「離れの宿 よもぎ埜」の経営にも参加。
平成11年、隆純さんが85年の天寿を全うし、永眠された。
「仕事が人生で、人生は仕事だ」という言葉通り、前日まで元気に仕事をしていたという。
これを受けて孝子さんが、「よもぎ埜」の二代目オーナーに就任する。
夫に先立たれたアイさんは、大変なショックを受けたようだが、「よもぎ埜」の大女将として毎日のように接客に努めた。
また、郡山市日和田にある金刀比羅神社の修復工事も行うなど、精力的に活動していた。
そして、平成17年12月、87歳で大往生を遂げた。
それ以降、オーナーの孝子さんも、「死ぬその時まで、体を動かして仕事をしていたい」と考え、今も、ティオスグループ10店舗と両親の建てた「よもぎ埜」を駆け回っている。
「離れの宿 よもぎ埜」は、客室のほとんどが平屋造りの離れということもあり、館内は落ち着いた雰囲気に満ち溢れている。
その離れの客室には、源泉100%の内風呂を備え、上品でレベルの高い懐石料理も、部屋出しでゆっくりといただける。
侘び寂びを感じる貸切の庭園風呂や、桜の季節には、花びらが舞い落ちる風流な露天風呂など、温泉も非常に魅力的だ。
公式HPを見ると、リーズナブルな料金設定のプランから、贅を尽くしたプランまで数多く用意している。
最もお得なものは平日の一部の日、4室限定(「吾亦紅」「二人静」「若菜」「花ごろも」)のもので、「孝行の日」と「女性の日」というプラン。
直接電話予約限定のプランで、「女性の日」は女性の方は、お一人様4,200円リーズナブルに。
「孝行の日」は男女問わず、お一人様4,200円ずつお安くなる。
他にも、基本料金よりもリーズナブルになるプランが、多数掲載しているので公式HPをチェックしていただきたい。
この宿は現在、多くのリピーターに支えられている。年齢に関わらず、特に女性に支持されているようだ。
館内に漂う何かが、女性のお客様に訴えてくるからだろう。
その何かとは「上品さ」や「高級感」だろうが、それだけではない。
この宿ならではのインテリジェンスが、何か特別なもてなしをされた気にさせてくれるのだ。
お姫様気分、セレブな気分にさせてくれるというだろうか・・・
逆の見かたで、男性からすれば大事な女性をエスコートするなら、この宿をセレクトしておけば間違いはないだろう。
特別なオーラさえ「よもぎ埜」には感じられる。
それは、初代・隆純さんの男性的な芯の強さと、大女将アイさんの女性らしい細やかな気遣いが、今も息づいているからなのかもしれない。
そして、この宿は、現オーナーの石橋孝子さんをはじめ、熊倉幸子支配人や企画室長・磯部裕子さんら女性主導で運営しているからだろうか、心地いい、優しい空気感が漂っている。
大きな旅館ホテルが建ち並ぶ磐梯熱海温泉の中にあって、全15室の「離れの宿 よもぎ埜」の存在価値は大きい。
個人的な感想だが、遠く九州の由布院の老舗旅館のような雰囲気もある。
このアイデンティティは貴重だ。
だからこそ、この宿は生き続けることができる。
「個性」こそ、小規模旅館の根幹、重要だということを、改めて再認識させられる宿が「離れの宿 よもぎ埜」なのだ。(J/IZ)