国道46号線、東北らしいのびやかな田園風景を通り過ぎながら、「都わすれ」の看板を目印に山道へと入っていく。
今時珍しい、舗装をしていない砂利道をくねくねと車で上ること、およそ5km。
誰にもすれ違わないので、誤った道に迷い込んだのではと少々不安にもなる。
しかし、まっすぐに伸びたヒバの木を眺めながら進むと、広々とした平地が目の前にあった。
そこには、瀟洒な建物。まるで御伽噺のような展開である。
(山道の運転に自信がない方や、冬場には予約すれば新幹線・角館駅から無料送迎もあるのでご安心を。)
宿に到着するや否や、「長旅、お疲れ様でした」と若いスタッフが笑顔で迎えてくれ、ロビーに入る。
広々としたロビーには、テーブルや花器、美しい椅子など凝ったインテリアが多数並び、非日常間が漂う。
これらは、女将である佐藤京子さんが、海外などの旅先で惚れ込んだインテリアを集めたものだそう。
チェックインを済まし、ロビーに併設されたラウンジにて振舞われるウェルカムドリンクをいただく。
こちらはフレッシュなリンゴジュース、コーヒー、紅茶、生ビールなどから選べる。
オススメはポットで丁寧に入れられた紅茶だ。
美しいインテリアが並ぶロビーの中でひときわ印象的なのは、カラフルな色彩で書かれた高橋敏彦さんの作品だ。
ロビーや玄関などに大きな額で飾られている。
その他にもフロント奥には画家・小倉遊亀さんの作品などが飾られ、重厚な色調の建物に華を添えている。
女将によると、3年ほどまえ元々は暗い廃墟だったこちらを再生する際に、できるだけ明るく見せたいとの思いがあり、インテリアや内装などを少し工夫したそう。
よく見れば建物の中にもところどころにカラフルな壁紙があったり、廊下のいたるところで小さな野の花が生けられていたりと、センスあふれる遊び心を感じさせる。
また、その一角にはパソコンを置いた机があり、自由にインターネットで情報収集ができる。
「都わすれ」は全10室のうち9室に専用の露天風呂を備える。
2008年8月より、リーズナブルな料金設定のツインベッドルーム・ジャグジーバス付の客室が新たに誕生した。
まずは貴賓室扱いの特別室「草笛」を紹介しよう。
和室と洋室のリビングがあり、客室露天風呂と専用の内風呂がついている。
人気なのは、書物机がある「瀬音」。
掘りごたつ式になっている書物机は窓際に設置され、雄大な渓谷の景色をみながら、書物や読書を楽しむことができる。
“書物”なんて言うと少々かしこまった気がするが、短い日記を書くもよし、誰かに旅先からの絵葉書を送るのもよし、思い思いに楽しんでみてほしい。
さらにこの部屋は和室と寝室(ベッドルーム)に分かれているため、2組での宿泊も可能だ。
洋室タイプは「木漏れ日」と「川霧」。
洋室と言えどベッドではなく、板間に低反発テンピュールのマットを敷いた布団が用意されている。
温泉からあがり浴衣姿で気兼ねなくごろり、と横になれるのがうれしい。
和室タイプは「唐くれない」、「しらね葵」、「華あかり」、「雛ざくら」の4室。
この内「唐くれない」だけに、先ほどの書物机が設置されている。
和洋室タイプになっているのは「月うさぎ」。和室の寝室と洋室のリビングになっている。
東北の温泉宿にしては珍しくほとんどの客室に専用の露天風呂がついており、シャワー室、露天風呂横のテラス、ウッドチェアもある。
また、室内のインテリアも違い、モダンなものからアンティーク風のものまでそれぞれに楽しませてくれる。
枕元には可愛らしい団扇が置かれていた。冬になれば、これが加湿器に変わるそう。
部屋の引き出しには虫除けなども完備。さらに、どの部屋にも文書箱があり中には「都わすれ」の一筆箋が入っていた。
洗面台にはスツールがあり、ゆっくり身支度したい女性にはうれしい限り。
シャワー室には浴衣と、足袋型のソックス、そしてバスローブが。
部屋でくつろいだり、客室露天につかった後には、バスローブでくつろげるのはありがたい。
こうしたキメ細やかな気配りが、至る所になされている。
朝食・夕食ともロビー奥にあるダイニングでいただく。
下記に紹介するのは2008年7月の取材時のものだ。
まず、自家製の梅酒が食前酒として運ばれてくる。
先付けは「金茸と柚子のおろし添え」。7月はきのこ類が旬を迎えており、この金茸もこちらの庭になっていたものを採ってきている。
前菜は、「みずの実たまり漬け、アスパラ豆腐、みず生姜浸し」の3種。
こちらも、抱き返り渓谷でとれた新鮮なものを使用している。しっかりした歯ごたえが楽しめる。
汁椀はひらきなめこが入った「稲庭うどん」。
好みで黒七味を加えていただく。
御造りは「活殻うに」。
天候や季節などで仕入れる漁港は変わるそうだが、本日のうには秋田港で獲れたもの。濃厚な味わいが美味。
そして焼物は、「活鮎の塩焼き」。
臭みがなく柔らかな身の鮎は、田沢湖にそそぐ生保内川で藻だけを食べ、育てられたものだ。
ジュウジュウという音と香ばしい香りをさせて運ばれてきたのは、「秋田県内産黒毛和牛の石焼き」。
焼きあがると表面はバリっと、中はやわらかく焼きあがっている。少しレアな状態でポン酢をつけていただこう。
預鉢として「いぶりがっこのサラダ」。
“いぶりがっこ”とは大根をいぶして漬物にしたもの。
秋田では漬物のことを“がっこ”と言うようだ。水菜、玉ねぎ、トレビス、松の実、糸とうがらしなどたくさんの野菜とともにいただく。
口代わりの「朝どりアスパラ茹であげ」は毎日、中仙地方で採れたアスパラを使っている。
人参ドレッシング、オリーブオイル、岩塩と味付けは極めてシンプル。
夕食も後半になったところで、秋田名物キリタンポ鍋の登場。
どの料理も美味しくすべての皿を空っぽにしてきたので、この時点でお腹はすでに満腹状態だ。
しかし名物キリタンポとなれば食べておきたいところ。そこで、こちらのキリタンポは通常のものより少し小さめに作られている。
本来ならお茶碗二杯分のお米が使われるキリタンポだが、こちらは子どものお茶碗に一杯分ほど。
さらにお米の旨みが感じられるよう、あえて粗めにつぶして焼いているそうだ。
振舞として出されたのは、可愛らしいグラスにはいった「じゅん菜」。
こちらは、秋田県旧山本町で採れた新芽を使っている。
そして、中仙地方の農家から仕入れた有機米あきたこまち、香の物、茸汁。
最後にデザートの「さらづらゼリー」。
“さらづら”とは秋田の方言で山葡萄のことだ。
お腹がはちきれんばかりのボリュームだったが、秋田の新鮮な野菜を中心にした料理なので、重く感じることはない。
今回の料理を説明していただいたのは、田口貴幸さん。
秋田生まれ、秋田育ちの料理人だ。
お客さんが安心して食べていただける食材を、大事にしたいと野菜の仕入れから、時には渓谷で山菜やきのこを採りにいったりもする。
「4月〜6月は山菜、7月〜9月はきのこ類が旬を迎えます、他にも年間とおして秋田にはおいしい食材がたくさんある、それをお客さまに楽しんでもらいたい」と語ってくれた。
朝食はテーブルに用意された料理と、カウンターにサラダやフルーツ、ドリンクがビュッフェ形式で並んでいる。
席につくとまず竹筒が目にはいる。
この中には、日本最大のブナの木がある和賀山塊から湧き出た、ミネラルたっぷりの水が入っていた。
朝から一風呂楽しんだ後に、この水はありがたい。一気に飲み干す。
テーブルにはすでに、煮物や納豆、とんぶりなど数多くのおかずが並んでいるが、さらにスタッフがテーブルごとに卵焼きや焼き魚を運んできてくれる。
この日は、たら、はたはた、紅さけの3種類から選べた。こうして食べる量を調節できるのはうれしい。
「都わすれ」の大浴場は中庭にでたところにある。
秋田の方言らしく「おどごのゆっこ」「おなごのゆっこ」とされている。
どちらもヒバの木をつかった湯舟で、シャワー、シャンプー、リンス、ボディーソープなど一式揃っている。
泉質は、弱アルカリ性で無色透明、無味無臭の「ナトリウム−塩化物泉」。
温度は42度。
源泉をたっぷりと掛け流しているので、湯の新鮮さが感じられる。
以前は貸切露天風呂として活用されていたが、現在は時間制で区切り、男女が入替えで楽しめるようになった。
こちらの露天風呂も源泉掛け流しだ。
露天風呂の横には小屋があり、湯治場として愛されていた昔の夏瀬温泉を思わせるよう。
春、5月上旬頃には桜が咲き、湯船につかりながら花見が楽しめる。
なおすばらしいロケーションと引き換えに露天風呂には夏場、蚊が多くいることもあるだろう。
客室露天風呂には夏場だけ蚊帳をはって対策している。
さて、「都わすれ」のロビーにあるお土産コーナーには秋田ならではのみやげ物が並ぶ。
まず客室で出されていた「ぬれ華」(3粒9袋入)945円や、夕食時にも出された「いぶりがっこ」600円もある。
漬物としてだけではなく、刻んで料理にも使えるのが便利な一品だ。
秋田といえば米どころであり、おいしい酒どころでもある。
「都わすれ」オリジナルラベルがついた純米吟醸2000円と、さらりとした飲み口が特徴の大吟醸1500円などがある。小ぶりでお土産には最適だ。
ロビーに飾られている一枚の色紙には「我是不是我的我」(私は私でない私)と書かれている。
これは2007年6月に、こちらに宿泊した元台湾総統の李登輝氏によって書かれたものだ。
そして中庭の中心には、その時記念植樹したしだれ桜もある。氏は、曲がりくねった砂利道を上り、携帯もテレビの電波も届かないここで、都の喧騒を忘れ、古きよき日本の美しさを感じたのではないだろうか。
「都わすれ」から車で約40分のところには、「田沢湖ホテルイスキア」がある。
美しい湖畔の前に佇むこちらは、「都わすれ」の姉妹施設になる。
比較的リーズナブルな価格で湖畔での休日を楽しめるのが魅力的だ。
このような非常に存在感のある宿のせいか、多くのマスコミにも最近注目されるようになってきた。
2007年にはフジテレビの番組で「究極の穴場温泉」全国第一位に輝いた。
また、歌手の藤あやこさんも雑誌などで、お気に入りの宿として紹介している。
前述でも少し触れたが、この夏瀬温泉は3年ほど前まで、廃墟と化していた。
それを女将である佐藤京子さんが、再生の息を吹き込み、平成17年に「都わすれ」を完成させたのだ。
ちなみに佐藤さんは、乳頭温泉郷・妙乃湯の女将でもある。
秋田出身の京子さんは20歳で結婚し、東京でインテリアデザインの仕事をしていた。
しかし、47歳の時に胃ガンを煩い、療養も兼ねて実家である秋田へ帰郷。
温泉での療養がよかったのか無事にガンを克服し、祖父母が営む妙乃湯を引き継いだ。
病気になって人の助けのありがたさがよくわかった京子さんは、「せっかくいただいた命、この温泉に限りある命を打ち込もう」と決意したという。
そうして取り組んだのが、夏瀬温泉の再生だった。
夏瀬温泉の歴史は100年ほどさかのぼる。
昔より農業や林業など地元で働く人の湯治場として夏瀬温泉は愛されてきた。
昭和初期には、この場所に秋田杉を切り出す営林所があり、多くの木こりが湯治場として使っていた。
しかし外国からの木材が流通するようになり、国産木材の需要が低下、次第に湯治場を使う木こりも減っていった。
また昭和12年に神代ダム、昭和24年に夏瀬ダムが建設され、その宿舎として夏瀬温泉は活用されたそうだ。
その当時は100人以上収容できる規模を誇っていた。
女将の京子さんもまた幼い頃、祖父母に連れられて夏瀬温泉に通っていた記憶がある。
アトピーがひどく、不憫に思った祖父母が湯治を兼ねて連れていったそうだ。
京子さんが帰郷してから、ふとこの夏瀬温泉を思い出し見に行ってみると、広い敷地には暗い廃墟しかなかった。
ただ奥にはいると、温かくやわらかなお湯がこんこんと溢れている。
手をかざすとひたすらに温かく、思わず涙がこぼれたという。
そうして京子さんのただならぬ想いが原動力となり、完成した「都わすれ」という宿。
温泉を愛し、守ってきた女将京子さんの想いや、気配りが随所に散りばめられている。
幼い頃の夏瀬温泉の思い出とともに、自分の人生を重ね合わせるようにして、ここを再生させた女将。
宿がしっかりと焼きしめられた花器だとすると、その女将の想いや気配りが、この宿に生けられた大輪の花だと言える。
もしも、時間が許すなら・・・この宿にはぜひ二泊してもらいたい。
何もせず、自然と向き合って温泉を楽しむ素晴らしさは、きっと二日目にして実感するはずだ。
玉川と和賀山塊によってつくり上げられた抱き返り渓谷の上流にあり、四季の移ろいをゆったりと眺められるこの場所。
渓谷で取れた旬の山菜を味わい、また湧き出る温泉に身をあずける。
時には書き物机に向かい、東北での旅行記を書くのもいい。
そうして過ぎてゆく一日の、このうえない贅沢さ。
何もしない贅沢さに身を浸してみてほしい。
宿の名の通り、都の喧騒をわすれ、同時に忘れていた大切なことに気づかされるだろう。
この宿は、携帯電話の使用ができないほどだった。
どこの電話会社のケータイでも無理だった。俗世から隔離された感も覚えるだろう。
しかしながら、この情報社会に生きる現代の人間にとって、一時ながらも外の世界から逃れるのも重要な事かもしれない。
そして、自分自身を見つめ直し、さらにいっしょに旅をしてくれたパートナーとの語らいに集中すればいい。
ここは、舗装もされていない山道をやっとの事で辿り着いた「桃源郷」のようなもの。そんなところにケータイは無粋という他ない。
思う存分、このシチュエーションと類のないロケーションを楽しむべきなのだ。
それでも、2011年より、auの携帯電話のみ電波が入るようになった。
“「一軒宿」で「源泉かけ流し」というと、“秘湯の古い木造の温泉宿”という常識を打ち破った、この「都わすれ」のコンセプトは賞賛に値する。
是非、大事な人と出かけて欲しい宿と言えるだろう。(J/YU)