遠く奈良時代からの伝統を誇り、島原半島きっての名湯と名高い小浜(おばま)温泉は、隣にある雲仙温泉の景観が山であるのとは対照的に、九州の西海岸である橘湾に面する潮騒が香る温泉地。刻々と表情を変える海と、その海に日が沈む姿(日本の夕日百選に選ばれた)がより一層旅情に誘ってくれると、多くの人から根強い人気を誇っている。また、長崎の市街地からバスで一時間程度の距離のため、出張中のビジネスマンがその疲れを癒すために、長崎市内で宿を取らず、あえてこの小浜温泉を訪れる事も多いという。
開湯からの長い歴史の間には、島原の乱で負傷した人々が傷を癒した湯治場であったことや、シーボルトによって温泉分析も行われたことなど、数多くの逸話が今も残されている。また、文人俳人にも愛されたことでも知られている。その中でも、自由律俳句で知られる放浪の俳人種田山頭火と、日本の詩歌界に大きな足跡を残す歌人斉藤茂吉の二人は、特にこの温泉地と深い関わりを持っていたそうだ。昭和7年2月、長崎からほうほうの態で小浜に辿り着いたと言われる山頭火は、「ここの湯は熱くて量も多い」「たった一人で湯に入って、のんきに詠んでいられる」と自身の日記に書き記しているように、滞在を満喫していたようだ。この際に小浜で詠まれた「雲仙を背にしている海の青さけむりの白さ」という一句は、「海の湯小浜」の風情を端的に呼んだ名句として、彼の傑作のひとつに数えられている。
その、山頭火に先立つこと12年前、大正9年に来湯したのが斉藤茂吉である。その際に歌った「ここに来て落日(いりひ)を見るを常とせり 海の落日も忘れざるべし」という一首は、小浜港の一隅に設けられた公園「海の広場」に、歌碑として残されている。湯の香と潮風が出合う緑美しいこの公園は、地元の人々にも観光客にも愛されている夕日展望のベストスポット。ここに作られた安定感ある横長の歌碑は、刻まれた明朝体の端正な白文字とともに、静かで内省的な茂吉の歌風によく似合っていると、評論家からの評判も高い。
そんな風光明媚で歴史情緒も溢れる小浜の地に「つたや旅館」はある。公表している創業年は明治元年。だが、実際にはそれ以前から旅館業を営んでいたそうだ。津田さんが聞かされてきた昔話によると、旅館業を始めたのは今からだいたい250年程前の江戸時代中期。当時の小浜には、木賃宿と呼ばれた細長い長屋が5〜6軒あっただけで、宿泊客もそのほとんどが湯治を目的としていたので、お米を持ち込んで自炊するのが当たり前だったそうだ。そして、そんな木賃宿の一つとしてこの「旅館つたや」も営業していたのである。漢字で描かれたその当時の宿の看板「蔦屋旅館」も現存しているのが何よりの証拠だ。自他共に認める、小浜最古の温泉旅館であるこの「つたや旅館」が現在のように、鉄筋コンクリート5階建ての姿に変わったのは、昭和51年の事だ。その後、日本の夕日百選に選ばれた茜浜の夕日を眺めながら、湯浴みが楽しめるように屋上に展望露天風呂を平成13年に造り、平成15年の改装で、和テイスト溢れるロビーが完成し現在に至る。
客室はその全てが和室となっている。豪華な設えや広さに特徴があるような、いわゆるモダンさは無いが、全室から橘湾と水平線に沈む夕日が心行くまで堪能できる。これこそ、人工的に作り出すことが出来ない最高の贅沢であり、もてなしであるといえよう。全20室の部屋は、6畳〜15畳と幅広く提供されており、共に訪れる人によって様々な選択ができそうだ。
ここでタイプ別に5つの部屋を紹介しよう。
「407号室」は15畳の和室、「つたや旅館」では最も広い客室である。ファミリーや仲間と訪れてもゆったり過ごせそうだ。
「507号室」は6畳の和室。首都圏から来たビジネスマンや、夫婦二人きりの旅行におすすめ。
「508号室」は7.5畳の和室。6畳間よりもゆとりがあるので、小さな子供を連れたファミリーには最適な部屋だろう。
「401号室」は7.5畳の和室で「508号室」と同じだが、ユニットバスがついている。温泉を楽しむ事は出来ないが、どんなに遅い時間でも身体を温めることができるのは嬉しい。
「302号室」は9畳の和室。四人家族がゆったりするのにちょうど良い広さだといえよう。
前述の平成13年に完成した展望露天風呂は、「つたや旅館」の屋上に位置する。その数は5つ。湯船の素材や位置によって名前も異なる。左奥に位置する「普賢」から順を追って説明したい。
「普賢」の名は、雲仙普賢岳に一番近い位置にあることから、その名が付けられたそうだ。湯船の材質はアルソーとも呼ばれる赤御影石。
「入徳」の名は、昔、小浜に実在した名主の名が付けられた。湯船の材質は黒御影石。
「弁天」の名は、現在の小浜で一番ともいえる観光名所「富津弁天公園」が眼前に望めることから名付けられた。湯船の材質は鉄平石。
ちなみに、「普賢」「入徳」「弁天」の三つは、循環型でラジウム鉱石を入れた人工温泉である。体が良く温まると評判で、特に地元の日帰り入浴客からの人気が高いそうだ。入湯可能な時間は、15:00〜24:00、6:00〜10:00の間となっている。
「晴天」「陽光」は、信楽焼の湯船が印象的。その湯船の色合いから連想される名をそれぞれに付けたそうだ。この二つは、温度が100℃という源泉に加水しているものの、正真正銘の小浜の湯を源泉掛け流しで堪能できる。入湯可能な時間は、15:00〜24:00の間のみ。朝は入湯することができないので注意が必要だ。
次に、貸切の内湯「湯太夫風呂」を紹介する。
この貸切風呂は上記の理由で加水されているものの、源泉掛け流しだ。入湯可能な時間は、15:00〜24:00、6:00〜10:00の間となっている。
男性用、女性用大浴場は「橘風館」と名付けられた建物内にある。それぞれが150畳という広さを誇る浴場内には、内湯・サウナ・水風呂・ジャグジー・露天風呂が備えられているので、思わず長湯をしてしまいたくなってくる。この大浴場でも源泉掛け流しのお湯が堪能できる。入湯可能な時間は、15:00〜24:00、6:00〜10:00の間だ。
また、「橘風館」には岩盤浴が出来る部屋も設けられている。温泉での湯浴みとともに活用していただきたい。
次に、取材時(2008年1月)の夕食を紹介しよう。
「つたや旅館」の夕食は、地元小浜や県内の五島で獲れる鮮度抜群の魚介類を中心にした料理を部屋でいただくスタイル。そのため、一品一品料理が提供されるのではなく、暖かいもの以外はまとめて出される。どれから手を付けてよいのか戸惑ってしまうかもしれないので、覚悟してほしい。
まずご紹介するのが、漁村の非常食として小浜に古くから伝わる背黒鰯(えたりいわし)の塩漬け。寒い時期にしかお目見えしない貴重な料理だ。今年(2008年)の塩漬けは甘くて特においしいとのこと。
冬の珍味の代表格でもある海鼠は、レモンと紅葉おろしでさっぱりといただく。今年(2008年)は例年に比べ漁獲高が少ないそうだ。
地元、南串海岸で獲れるサザエは壺焼きで。プリプリとした食感と、臭みの無い肝の濃厚な味が素材の新鮮さを物語っていた。
地元で水揚げされたフカ(鮫)の酢の物。食材にするためには、熱湯にさらした上たわしで滑りを取らなければならず、料理長の手間がうかがえる一品。独特の食感は癖になってしまいそうだった。
八寸は五点盛り。エリンギ・ごぼうの花小巻き・銀杏串・羊羹・海老とポテトにマヨネーズをのせて揚げた海老ポテト焼きが並んだ。
椎茸の肉詰め・油を一度通して皮を剥いだ翡翠茄子・節蕗の三点が盛られた炊き出し。具材に出汁の味がしっかりしみこみ、より美味しくいただけた。
蒸し物はいかシュウマイ。すり身の烏賊を蒸篭で蒸し、刻み金糸卵をのせてコンソメスープの中に。事前に頼めば、コンソメスープではなくポン酢でいただくことも出来るそうだ。
地元長崎県の五島から仕入れた団扇海老は、シンプルに茹で上げた。揚げたり、焼いたりしてもおいしいそうだ。グロテスクな外見とは裏腹に、味は伊勢海老と似ているので特に宿泊客から人気がある料理だ。
お造りは、鯛の中落ち・甘海老・カジキマグロ・石鯛・蛸・あおり烏賊・ハマチよりも脂がのり、弾力があるひらすの7点盛り。海に面する小浜だからこそ取り揃えられる新鮮な魚介類を満喫できた。
小浜ではアラカブと呼ばれるカサゴのから揚げ。色味の良く見える赤いカサゴよりも、黒いカサゴのほうが美味しいそうだ。揚げたてならば、骨までサクサクと食べてしまえる。
雲仙のブランド豚、紅葉豚を水菜やえのき、にんじん、豆腐などと宮崎地鶏で取った出汁で煮込み、生卵を絡めすき焼き風にいただく。
ご飯と供に出された吸物には、島原のそうめんが入っている。三つ葉や巻き麩が添えられたあっさり味の吸物は、思わず「もう一杯」と頼みたくなるような味だった。
デザートには、オレンジ・パイナップル・とよのかイチゴがならべられた。酸味が色々な食材の詰め込まれた胃を、優しく労ってくれているように感じられた。
翌日の朝食は、これぞ和定食という内容の料理。湯豆腐・胡麻豆腐・焼きカレイ・味かまぼこ・めんたいこ・納豆味噌・松浦漬け(粕漬け)・青海苔などが並べられた。どこか懐かしい感覚を呼び起こさせてくれる美味しい朝食だ。ちなみに、レイトチェックアウトプランの宿泊客にはお弁当が用意される。取材時、同時に拝見させていただいたが、彩り鮮やかに盛り付けられたお弁当は、間違いなく食欲を掻き立てられることだろう。
夕食の後、忘れずにチェックしていただきたいのは、ロビー横に展開されるお土産コーナー。地元小浜だけでなく、県内各所から集められたお土産の数々が販売されている。中でも、当初はあくまで「和をイメージしたロビーのインテリア」として取り揃えた日田で製造された下駄が一番人気のお土産。買ったその場で履き替えて、温泉街を散策するというのも粋かもしれない。また、「つたや旅館」オリジナルの「葛せっけん」は完全無添加の一品。金魚が入った水槽にこの石鹸を溶かしても金魚が死ぬことはないそうだ。もちろんキーホルダーやお菓子にも注目することを忘れないでほしい。
同じ長崎県内にある温泉としては雲仙のほうが有名で、どうしても鄙びた印象が持たれがちな小浜温泉だが、実はかなり良い立地なのである。あまり知られていないが、実際には首都圏など九州以外にお住まいの方でも、長崎市内の街並みの散策から始まり、平和公園、そしてハウステンボスなどは観光コースにあげる事が出来る。また小浜内にも、「小浜温泉歴史資料館」や「光泉寺」をはじめとした歴史情緒を満喫できる施設があり、また「イルカウォッチング」や「海から噴き出る温泉」など豊かな自然と触れ合うことも出来る。また、由緒ある温泉街ならではの外湯めぐりなんていうのも良いだろう。茜浜に豪快に作られた「海上露天風呂 波の湯 茜」は水平線に沈む夕日を眺めながら湯浴みが楽しめるので、特におすすめだ。ある意味誰にも教えたくない温泉街なのが小浜温泉なのだ。
「つたや旅館」のある小浜温泉の源泉には、塩分とガラス質が多く含まれている。そのため、源泉とタンクを結ぶパイプは定期的な清掃管理を怠たるわけにはいかない。黒っぽい、固形の湯の華が、すぐにできてしまうからだ。それは源泉の成分の濃厚さを現し、ロビーにはオブジェとしても展示している。
オーナーである津田さんの趣味はオーディオ。本当は館内のいたる所に趣味を生かして音響機器を設置したいそうだが、すぐ壊れてしまうから諦めざるをえなかったという。もう少し、クセのない温泉であれば、通常はパイプを通して館内の床暖房などに応用したり、客室に温泉を通して露天風呂付き客室を作ったりと、豊富な湯量だけを見ればできそうな話だが、この温泉はそうはいかない、とにかく扱いにくい泉質らしい。実際、配管のメンテナンスは困難を極めた。すぐに、いわゆる”湯の華”が附着してしまうからだ。
そこで、そのありあまる温泉エネルギーを用い、あえて違う泉質の人工温泉を作ることにした。屋上の5つの貸切露天風呂のうち3つが人工温泉となっている理由はそのためだ。
「つたや旅館」に限らず、温泉街で自家源泉を所有している宿のほとんどが、湯舟に使用せず捨てている源泉が多いという事実もある。
しかし、裏を返せば、それは他に類を見ない濃厚な源泉の証しと言える。高温ゆえ、水を足さざるをえないが、充分源泉の効能は享受できるはずだ。
高温の温泉による湯煙は、小浜温泉街のシンボリックな風景でもある。その中心地にあるのが「つたや旅館」であるが、この宿には至れり尽くせりのサービスを求めてはいけない。ある程度の”ほったらかし”がいいのだ。客と宿との微妙な距離感が、逆にこの宿の居心地の良さを作っているようだ。
チェックインして、客室で荷をほどき、海を眺めながら浴衣に着替えて、ひと風呂。その後はお部屋で美味しい海の幸とお酒を堪能。そして布団にまどろむ。こんなシンプルで、温泉宿本来の楽しみ方でできるのも、この宿ならでは。長崎市からでも1時間ほどのアクセス。観光以外でも、ビジネスで一人で宿泊も、この宿ではOKだ。実際、取材日にも男性、女性それぞれ数人の一人客を見かけた。せっかくの出張に狭いビジネスホテルに泊まるより、足をのばして小浜温泉で宿泊も、ONとOFFを切り替えるためにも賢い選択かもしれない。「景色とお湯以外に自慢できる部分はあまりないけど、ある時にふと思い出して再訪したくなるような魅力ある旅館でこれからもありたい」と言うオーナーの言葉は謙虚だが、そのリーズナブルな料金を考えると、魅力たっぷりの温泉宿と言える。個人的には、やはり大事な人と2人きりで、夕日の沈む海岸線を見ながら、屋上の貸切露天風呂を楽しみたいものだ。(J/NS)