九州・熊本県には、全国区の人気を誇る黒川温泉がある。
以前は山間部に佇む小さな半農半宿の貧しい温泉場で、平日には、ほとんど客の来ない状態だったという。
しかし、あの露天風呂めぐりができる「入湯手形」ができ、昭和62年(1987年)にマスコミに取り上げられるようになると、徐々に人気が過熱していった。
その黒川温泉の隆盛を見ていた、近隣の温泉地も、大いに刺激を受けて、数々の温泉宿が誕生していった。
そして、平成6年(1994年)、黒川温泉にほど近い小田(おた)温泉で、「山しのぶ」は産声を上げた。
テーマは、“山の中にある宿泊施設”。
驚くほどの人気が出て、多くの観光客で賑わいを見せる黒川温泉に対し、“静かに過ごしていただくこと”を第一に考え、「山しのぶ」は、当時1,500坪の敷地にわずか8室という体制で創業した。
この宿を一から作り出したのは、荒井邦生(ほうせい)さん。
肩書き上は専務取締役だが、コンセプトから設計まで彼の想いが込められ、具現化した宿が「山しのぶ」なのだ。
荒井専務(昭和41年生まれ)は、学生時代、バイクで全国放浪の旅に出ていたという。
そんなバイク好きがこうじて、「本田技研工業」に入社。
特に、生産設備における高速化・効率化に力を注いだ。
この時期、感銘を受けたのが、“世界のホンダ”の創業者・本田宗一郎の理念である。
本田氏の発した多くの言葉から、専務が導き出したのは、“固定概念を捨てる”ということだったという。
本田技研でその発想力を磨いた荒井専務は、両親が民宿を経営していたこともあり、自らの手で理想の宿を創ってみたいと思うようになる。
そして、 “新しい発想を得ようと思うなら、まず誰かに話を聞け” という本田宗一郎の言葉通り、九州にある名旅館の経営者数名と会い、その哲学を学んだ。
その上で、1994年(平成6年)に創業した「山しのぶ」だが、よくある高級な離れの宿とは一線を画す。
固定概念を取り払った、荒井専務ならではのアイデアが、この宿にはたくさん詰まっているのだ。
母屋(フロント棟)のすぐ近くにある施設が、「夢想館」。
ライブラリー的な存在なのだが、音楽でも、絵を描くでも、本を読むでも、ただぼーっとするでもいい、訪れたお客には好きなことをやって欲しい、という彼のメッセージにもとれる自由な施設なのだ。
大人が自分の夢を思い出し、童心に戻れるような場所にしたかったのかもしれない。
この施設の2階部分は、天体望遠鏡を備える「天文館」となっているが、それが完成する前は、荒井専務自らマイクロバスを運転し、満天の星空が見える瀬の本高原まで、お客を連れて行ったという。
「いろりの間」は、元々、物置のような小屋だったが、別々のお客同士がコミュニケーションを取れる場所として造った。
このように、どこか気持ちが温かくなる施設が点在していることで、宿の居心地の良さにつながっているようだ。
荒井専務は、1995年(平成7年)に、蕎麦打ちを始め、夕食時に振る舞うようになる。
郷土料理と、こだわりの蕎麦で食事のクチコミでの評価も高く、「山しのぶ」は、徐々に人気宿の仲間入りをしていった。
1999年(平成11年)には、姉妹館のそば処&宿「草太郎庵」もオープンさせた。
さらには、古民家だったところを、少しだけ改修して、食事処「禪墅(ぜんや)」を創業する。
こちらは、昼食のみの営業で、メニューは田舎料理「禪墅膳」のみというこだわりよう。
ただし、事前の予約が必要な場合もあるので、要電話確認とのこと(「禪墅」TEL:0967-44-0191)。
2007年(平成19年)には、「山しのぶ」に新館と離れの露天風呂を増築。現在の形となった。
その頃、荒井専務は、自分の宿だけでなく、小国郷全体のことも考えるようになっていた。
黒川温泉の異常とも思えるほどの人気も、安定した人気となり(それでも全国ランキングで上位だが)、そんな風潮は小国郷全体にも影響してくる。
町の活性化にテコ入れしようと、南小国町の町会議員に立候補し、当選する。
現在でも、「草太郎庵」で毎日のように蕎麦を手打ちしながら、南小国町のために尽力しているのだ。
多忙な専務に代わって、毎日宿で接客に勤しむのは、奥さんで女将の荒井雅江さん。
もともと山口県下関市でOLをしていたが、当時、本田技研にいた専務と出会い、宿作りの夢を手伝うことになったという。
女将は、お客とのほどよい距離を保ちながら、きめ細やかなサービスをするよう心がけている。
榎本支配人はじめ、他のスタッフにもその想いが届いているようだ。
お気に入りのスタッフ目当てに、この宿に再び訪れる・・・というリピーター客も多いという。
公式HPを見ると、スタッフの小原さんが毎日のようにブログを更新している。
実際宿泊する時の情報として、読んでおいた方がいいだろう。
宿泊プランは、基本の「静寂な森プラン」がベースであり、記念日プランや平日限定のものなど、お得なプランも用意している。
「みんなで祝おう♪ご長寿記念日プラン」では、特典として、お祝い食材(紅白生酢や連子鯛煮付など)をサービス(食材の内容は季節により変更あり)。
さらに対象者(ご長寿本人)の方の記念撮影をし、フォトスタンドとともにプレゼントしてくれる。
期間限定で出しているという「平日限定カップルプラン」は、ご夫婦、カップル、女性同士など、お二人様限定のプランで、お好みのお酒(梅酒、焼酎、赤白ワイン)を1本プレゼントしてくれる。
梅酒に関しては、数種類のボトルを試飲して、気に入ったものを選ぶことができる。チェックアウトは11時と、特典が満載だ。
この宿は、高級な離れの宿と思いきや、実際の宿泊料金は平日で一人2万円前後、一般客室であれば1万5千円前後で、お泊りいただける。
誰もが温かい気持ちになれるような雰囲気で、幅広い年代層に受け入れられている。
特に、50歳以上のご夫婦がリピーターになり、記念日ごとに訪れるというパターンが多いという。
子ども連れのファミリーにも、自然と戯れる体験ができるのでオススメだ。
最近では、料金のリーズナブルさからか、若いカップルの利用も増えてきたようだ。
良質な温泉、静かに過ごせる館内、滋味あふれる郷土料理、心地のいい接客ときめ細やかなサービス、アットホームな雰囲気・・・この宿の魅力を表現するキーワードは、数多い。
荒井専務と女将、榎本支配人、そしてスタッフ全員の理想の宿は、完成に近づきつつも、これからも進化していくのだろう。
この宿のサブタイトルである「静寂な森の宿」の如く、「山しのぶ」は、自然の中に溶け込むように佇む。
母屋、夢想館、大浴場棟、露天風呂棟、客室棟、いろりの間の棟、貸切風呂の棟・・・など、点在する離れの木造の建物は、緑の中によく似合う。
毎日を時間と仕事に追われている都会人にとっては、この宿の空間は、おとぎ話に出てくるような、小さな村のように感じるのではないだろうか。
たまには時間を忘れて、精神的にも肉体的にもリセットするには、最適な宿と言えるだろう。
温泉には、お湯自体の効能の他にも、「転地効果」というものがあるという。
まさに「山しのぶ」には、それがある。(J/IZ)