熊本県北部、大分との県境の程近く、阿蘇外輪山と九州本土一の高さ(1,787m)を持つ久住山に挟まれた一帯には、日本の原風景とも呼べるのどかな田園風景が広がる。日本人のノスタルジアを掻き立てる懐かしい光景の中、田んぼと林、そして筑後川の源流という、豊かな自然に包まれるようにして建つ一軒宿が奥満願寺温泉「旅館 藤もと」。創業は平成8年と、まだ新しいお宿である。
「旅館藤もと」は、「奥満願寺温泉」と称しているが、あの温泉街の真ん中に川の洗濯場があり、囲いのまったくないことから「日本一恥ずかしい温泉」として有名になった混浴露天風呂のある、「満願寺温泉」には隣接していない。どちらかといえばあの「黒川温泉」に近くにあり、そこで精肉店を営んでいたという先代社長が、地下150メートルから温泉の沸くこの地で宿を始めた際に、一軒宿だったために名付けたのが「奥満願寺温泉」というわけだ。
雄大な阿蘇を横目に山道を抜けて、穏やかな里山の光景の真っ只中を道は横切る。この宿に到着し、駐車場で車を降りれば、隣接地に広がる田んぼがまず目に飛び込む。思わず深呼吸をしたくなる光景だ。表側から見ると、建物は木々の中に埋もれるようにしてあるため、外観を目で捉えることは難しい。周囲の自然の景観を損なうことのない、ひっそりと静まり、そして華美さを省いた控えめなその佇いからは、この宿の姿勢がうかがい知れる。
その印象は、玄関の暖簾をくぐっても変わらない。広く取られた土間の玄関は、梁のめぐらされた高い天井が外のさわやかな風を室内にもたらしている。ここにはもちろん金屏風もなければ、生け花もない。簡素で清潔にまとめられた空間からは、素朴という表現が一番似合うのだろう。暖色系の灯りに照らされた木のぬくもりは、やはり日本人が一番慣れ親しんだ家屋の表情。まるで田舎の祖父母の家を訪れたような、そんな印象を持ちながら宿に足を踏みこむ。
館内もシンプルな構成だ。フロントを抜けた廊下の右手には広々とした食堂、左手は中庭がある。この四角い中庭を取り囲むようにして、1階に6つ、2階に1つ、客室が配置される。玄関にあるもうひとつの扉を抜けると、離れの一室がある。この部屋へは館内の通路からも出入りできるようになっており、雨でも濡れずに行き来できるようになっている。食堂の奥にはバーとライブラリーがある一室。そして廊下の突き当りが露天風呂の入口となっており、ここからこの宿の代名詞ともなっている、川の露天風呂や貸切風呂へと至る。
客室は全8室。離れの和室と、和洋室3室、和室3室という構成で、1階に7室、2階に1室となっている。全室に大型の液晶TVとネット接続されたPCが備えられている。館内の玄関や廊下と同じく、どこもたっぷりと余裕あるつくりが特徴で、例えば1階の和洋室であれば、たとえ車椅子の方でも難なく客室での滞在を楽しむことができるだろう。
温泉の出るお風呂が付く客室は離れの「風ぐるま」と和洋室の「折鶴」の2室。どちらも内湯で大浴場のような眺望が楽しめるわけではないが、湯舟脇にある窓からのぞく中庭の緑がすがすがしい。むしろ温泉浴に集中したい方などにはもってこいの環境といえるだろう。
離れの「風ぐるま」は二間続きの広い客室で、ここには家族旅行など、5〜6名での宿泊向けとなっている。和室はそれぞれ10帖と12.5帖。幅の広い土間があるのも特徴で、館内通路からだけでなく、ここから出入りすることもできる。また、トイレも土間の奥に設けられていることもあり、昔の田舎の民家さながらの佇まいだ。通路の奥には温泉風呂があり、湯舟は総檜。小窓が湯舟脇にあり、坪庭の景色を眺めることができる。
1階和洋室「折鶴」は8帖の和室と、約8帖分の広さがあるフローリングの洋間にツインベッドが置かれる。和室を取り囲むようにフローリングが施され、ソファも置かれる。お風呂は温泉の出る檜風呂。景色はさほど望めないが、上質のお湯にのんびりと、いつでも浸かることができるのは嬉しい限りだ。
唯一の2階客室、和洋室の「紙風船」は、手前に8帖の和室、奥にツインベッドの置かれる洋室という構成。檜湯舟のお風呂は窓からふんだんに光が入り明るい印象だが、お湯は温泉ではなく白湯(水道水)。1階のもうひとつの和洋室「麦笛」は、部屋のまず手前にフローリング、ツインベッドが置かれ、奥に畳スペースがある。車椅子など利用の際には便利な設えだ。
並んで4室ある和室は、どれも10帖の和室に広縁というシンプルな構成。だが、窓際の一段下がった広縁部分には木製のベンチとテーブルが備え付けられており、窓の外に広がる緑を存分に味わえるつくりとなっている。
部屋に通されると、お茶請け菓子に出されたのは、おはぎ(ぼたもち)。もちろん手作りで、糖分も控えられた食べやすい一品。またここでも、田舎の祖父母の家に遊びに来たような感覚を楽しみたい。
客室でくつろいだら、早速お風呂へ向かおう。前述のとおり館内通路から渓流の方向に向かって階段を降りた先にある。大浴場は男女別に分けられており、一日一回、深夜に入替となる。つまり、一泊の宿泊で両方の浴場、貸切風呂もあわせると計13全ての湯舟を堪能することができるのである。お湯はもちろん源泉100%かけ流しだが、泉温が78.7度と若干高温のため、通常水を足して適温に調節されている。より濃厚な温泉にこだわりたい方であれば、冬季などはよりオススメである。
特徴的なのはなんといっても「川湯」。筑後川の源流、小田(おだ)川の清冽な水しぶきを目の前に見ながらの湯浴みが堪能できるもので、どちらの浴場にも川の流れるすぐ傍らに設けられている。建物を背にして見れば、“旅館にある露天風呂”というよりも、“野天風呂”そのものだ。こういう立地のため、足元は不確か。手すりなどもないため、充分ご注意の上入浴を楽しんでいただきたい。また当然天候の影響は受けやすく、雨などで川が増水した際には、残念ながら入浴もできない。人間の楽しみも自然のご機嫌次第という、まさに“自然”を実感できるのが好評の要因なのだろう。
川湯から見て、階段を上った高台にある露天風呂もオススメだ。ここは内湯の扉を出てすぐの位置にあるもので、男女どちらの浴場にも2つずつ設けられている。より高い位置にある湯舟から落ちたお湯が、低い位置にある湯舟に注ぎ落ち、温度差のあるお湯を楽しめるという趣向になっている。なお、入口から見て左側にある大浴場の露天風呂は切り石造り、右大浴場の露天風呂は檜造りとなっており、またどちらの湯舟の大部分には屋根がかかる。天候に関係なく、目の前に広がる豊かな自然の広がる、野外での湯浴みを堪能できるのは嬉しい限りだ。
宿自慢の料理は食堂でいただく。テーブル席の用意される個室も1室用意されているので、こちらを希望の場合には事前にご連絡を。食堂も個室も、隣接する田んぼを望む清々しい景観が取り込まれた、実に伸びやかな空間。天窓も設けられた天井の高い食堂は、掘りごたつ状になった卓が並び、衝立で仕切りが設けられる。この環境の中いただくのは、もちろん素朴な味わいと地物の特産品を折りませた田舎料理。取材時(2008年6月)のメニューを以下に紹介する。
食前酒は、赤ワインベースに、リンゴ、ミカンを入れたサングリア。清涼感ある味わいはこの季節にぴったりの導入だ。やわらかい黄色に仕上げられた先付の自家製のコーン豆腐は、独特の香りただよう爽やかな一品。
涼しげなガラスの小鉢には季節の品。じゅん菜のゴマクリーム和えと、オチコ芋のずんだ和えだ。地産のじゅん菜やオチコ芋(里芋の一種)を、香りの高いゴマや爽やかなずんだ豆と和えることで、初夏らしさ、季節感が際立つ。
お造りは魚と肉の二品が楽しめる。まずは涼しげなお皿に盛られた、南阿蘇で獲れたヤマメの洗い。清流で育った川魚はにおいも少なく、さっぱりといただける。続いてご当地名産の馬刺し。赤身肉に添えられている白いものが、珍味・たてがみ。こうね(コーネ)とも呼ばれる、馬のたてがみ部分の稀少な馬肉で、高級化粧品の原料としても用いられるという。この希少な食材を惜しげもなくふるまうのはやはり、以前は肉屋を営んでいたというこのお宿ならでは、といえよう。
茄子、ニンジン、南瓜、蓮根、ふき、オクラ、冬瓜、筍という、日本人の慣れ親しんだ野菜が彩りも豊かに食卓を飾る野菜の炊き合せで箸休め。
続いて出されるのは鮎の塩焼き。近隣の日田で獲れたもので、南阿蘇の綺麗な水で育った、引きしまった身が堪能できる。
山菜の天ぷらは季節によって具材は異なるが、通年6種類の天ぷらを提供している。この日はアカツメグサ、ヨメナ、サンチク、ケーサフジ、ミョウガ、コンフリが並んだ。とれたての食材ならではの強い香りが口の中に広がり、抹茶塩の控えめな口当たりが素材にもよく馴染む。
蓋物にはウナギ饅頭。とろみのある餡が淡白な日田産のウナギの味に深みをもたらし、載せられたアオサとチンゲン菜が爽やかな香りをもたらす。さっぱりとした味わいが特徴で、箸休めにもちょうどよい、アクセントとなる一品。
ここでメインの登場。上述の通り、元肉屋というだけあり、肉という素材へのこだわりは他の宿の追随を許さないものがある。馬肉のみにとどまらず、ご当地名産の肥後牛や、近年注目を集める豚肉まで、吟味に吟味した上質の素材を堪能できる。ここでは蒸篭蒸し、ステーキ、しゃぶしゃぶの3種類が用意されている。
せいろ蒸しは、肉と30種類の野菜が上下二段に分けて入れられ、温泉水で蒸す。肉は肥後牛のロースと、ハーブ豚のロースとバラ肉。それぞれの肉の持つ味わいが強く、口に入れた感覚に大きな違いがあることに驚く。この旨味が湯気とともに野菜にしっかりと浸透する。30種類が並ぶ野菜も豪華。ブロッコリー、トマト、オクラ、しいたけ、白菜、まいたけ、赤ピーマン、黄ピーマン、ししとう、アスパラガス、エリンギ、大根などなど、季節の旬の具材がズラリ、華やかに並ぶ。
肉料理のあと、口の中に清涼感をもたらしてくれる締めの御食事には、鮎ご飯、ナメコと三つ葉の赤出汁、香の物。このお漬物も自家製。
デザートも地のもの。ジャージー牛乳の手作りプリン、植木産のスイカ、熊本のビワ、鹿本産のメロンが並ぶ。季節ごとに異なる素材、異なる魅力を持つ、美しい天然資源に満ちた熊本の醍醐味を堪能できる夕食であった。ボリュームはあるものの、このゆったりと流れるときを楽しみながらゆっくりと食事も楽しめば、不思議と腹におさまってしまうようだ。ご主人が自らふるまうサイフォンで沸かしたコーヒーを食後、バーでいただきながら、都会の喧騒とはまったく縁のない、静かで深いここでの夜を楽しみたい。
朝食がまたインパクトがある。同じく食堂でいただくバイキング形式の食事だが、そこに用意される具材はなんと30種類以上(!)。どれもお袋の味と呼ぶような、大鉢にてんこ盛りにされた煮物、漬物などがズラリと並ぶ様は圧巻だ。
きゃらぶき、切り干し大根にひじき、きんぴらゴボウ等々、田舎料理の代表といえる品々は是非、すべて味わってみていただきたい。テーブルに並ぶのはこれら大鉢に入れられたお惣菜だけでなく、生野菜のサラダ、自家製パン、フルーツなど。さらに各卓には地元米のごはん、豆腐や厚揚げなどの入れられた味噌汁、塩サバ、厚揚げ、ほうれん草のおひたし、ダシ巻き卵、そして小国ジャージー牛乳のホットミルクという基本セットがあり、朝からまたも大ボリューム。これはオープン当初、冷蔵庫にあったおかずを大鉢に盛って、並べられるだけ並べたのがきっかけだったそうで、「お客にお腹一杯になってもらいたい」という、この宿ならではのおもてなしの心の表れなのだ。
ここに流れるゆったりとした時間は、夜が明けても変わることがない。夕食と同様、連れ合いと過ごす濃密な時を彩る食事はやはり好評で、多くのお客が目当てにしているという。
お酒が好きな方なら、バーを利用したい。ご主人の趣味が反映されたこだわりの空間で、ご主人自らこの静かな宿にぴったりのお酒をセレクトしてくれる (お酒は一杯1,000円) 。先代からこの宿を引き継いだ際に、まず手をかけたのがここだという。センスある椅子やテーブルは居心地のよいこの空間にもフィットし、また窓越しに外の景色を眺めるにもぴったりの空間を提供してくれる。室内には小さな段差がある。下がった奥の部分の椅子には畳が敷かれ、談話にぴったりの空間となっている。カウンターに置かれるインターネット接続されたノートPCも、自由に利用ができる。
また、
ライブラリーの蔵書はみなご主人の個人所蔵のもの。三島由紀夫や村上春樹、星新一、宮部みゆき、手塚治虫などの文庫やハードカバーが並ぶ。映画やTV番組のDVDも100タイトル以上が並び、どれも宿泊時にレンタルが可能。
もちろん無料で提供されているが、借りる際には備えられている台帳に名前を記入する。
お土産はフロント横に陳列されている。オススメは手作り羊羹で、村祭りや運動会などで田舎のおばあちゃんが作ってくれたものを思い出させる懐かしい味。蕎麦と柚子がある。甘味少なく、やわらかく練り上げられた人気のお土産。1本630円。
その他にも下駄や干支キーホルダーなどが並ぶが、使い勝手がよくてオシャレなイタリアのキッチンウェア、ALESSIの製品も置かれている。
「旅館藤もと」は、南小国の標高600mの山間エリアにあり、全国区の人気温泉地「黒川温泉」から車でわずか10分程度の距離というロケーション。その「黒川温泉」は日本にかつて数多く存在した山村の風情が、国内外から客を呼ぶ要因となっている。そしてこの宿は創業当時、「黒川のついで」、「黒川に泊まれないから来た」というお客も多かったそうだ。しかし、近年ではこの宿の持つ魅力が徐々に巷にも浸透し、比例して知名度も上がり、各メディアに取り沙汰される機会も増えてきた。最近では2008年5月に、フジテレビの『めざましテレビ』(平日朝5:25〜8:00放送、司会:大塚範一、高島彩、中野美奈子、皆藤愛子など)で高島彩アナ(アヤパン)が、番組内でここを訪れ紹介をしている。その他にも、TBSの『知っとこ!』(毎週土曜日朝7:30〜9:25放送、出演:オセロ、中尾彬、桂ざこばなど)では、朝ごはん自慢の宿「おもてなしの心が並ぶ大鉢・和風ビュッフェ」として紹介を受けた。
「旅館藤もと」は、「黒川温泉」に近いロケーションでありながら、宿泊料金を見ると、その「黒川温泉」の一般的な宿よりも若干高めの料金設定にしている。このエリアで、この料金設定は、ある意味冒険的な感想を持つ関係者は多いと聞く。
しかしながら、この宿には客が絶えない。――なぜか?
それは、「黒川温泉に飽きた人が来た」のかもしれない。だが、この宿に宿泊することでわかったことだが、やはり周りに何もない、この田園地帯の真っ只中というロケーションが、この宿の持つキャラクターを強く表現している。
旅館が密集した温泉街を浴衣姿に下駄をはいて歩く・・・といった行動に興味はなく、ただ上質の温泉と、自然に囲まれた環境、そして地元の旬の素材を使った素朴な料理を純粋に楽しみ、宿に篭ってゆったりとした時間を愛で過ごすことを目的にする人が、この宿の客となっている。
その宿を率いるのはまだ若い昭和48年生まれの藤本善久(よしひさ)さん。高校生までハンドボールをやっていたという、体格も立派な方である。一見、柔らかそうな顔には見えるが、芯は強く自分なりの考えを持っている方とお見受けした。彼は、1998年、年齢は25歳の時、有馬温泉の名門旅館「陶泉 御所坊」にて調理場で修行をつんでいた。この頃、1年ちょっとという短い間ではあったが、宿とは何たるかの一部でも吸収でき、充実の時を過ごせたという。それが短期間で終わったのは、2000年に先代の社長(父)が倒れたからである。急遽実家に戻ることになり、父に代わり宿を手伝うようになったが、翌2001年には、その父も他界し、母親である女将が社長に就任する。そして2008年に、満を持して善久さんが社長に就任。
現在は女将が一歩下がり、善久さんが陣頭指揮を執っているわけだが、この数年の時の流れは社長曰く「試行錯誤の連続」だったという。とは言いながら、実家に戻ってから、今やこの宿の人気施設となり、なくてはならない場所となったバー&ライブラリーは、社長のこだわりの結晶でもある。そして、社長に就任した年には、前述のように全室にPCと薄型大画面テレビを完備し、田んぼの真ん中の温泉旅館に泊まりながらゆったりと過ごすこともできれば、ちょっとビジネスもできてしまうようなインフラを整えてしまった。
藤本社長は自らを「自己流の人間」と言う。そのフリースタイルさが、この宿の魅力となっているようだ。彼に、先代の社長との話を聞くと、「あまり話さなかった」「どちらかというとぶつかっていた事が多かった」という。しかし、志し半ばで亡くなられた先代も、現在の「旅館 藤もと」を見れば、安堵しておられることだろう。口数の少ない現社長は多くを語らないが、この宿を守ることは、亡き父との対話と感じているのかもしれない。
その亡き父の代わりと言っていいかどうかわからないが、現社長は「バイブル」を持っている。それは京都の名旅館「美山荘」の三代目当主・中東吉次氏が書いた「雪峰花譜(せっぽうかふ) 摘草料理 美山荘」という本である。何か宿の運営に対して疑問や迷いが生じた時に、その本を開くという。
客というものは贅沢である。非日常の自然の中で温泉に入りたいと思いつつ、部屋には日常以上の快適な空間を求める。そのバランスを絶妙に取れるようであれば、それは繁盛旅館の重要なキーワードとなる。この宿にはそれがある。しかも、それが発展して将来どうなっていくのか、非常に楽しみでならない。「自由に、型にはまらずに・・・」のスタイルを、これからも、どんどん推し進めていってほしい。 (J/eb)