中央に川の流れを持つ谷あいの、小さな温泉集落であった黒川温泉。いまや九州を代表する温泉地となり、海外からの来客も多いこの地の魅力といえば、多くの人が口を揃えてその“田舎らしさ”にあると言う。雄大な阿蘇の生み出す、温泉や食材に見られる豊かな自然の恵みと、その自然と溶け合うような佇まいを見せるお宿の数々。派手な電飾やネオンとは縁のない、日本の原風景を思い起こさせる光景が展開するのだ。
主に20室程度の小規模のお宿が軒を連ねる温泉街では、この温泉地を一躍有名にした要因でもある、“入湯手形”を首に提げた観光客が行き交う。この手形を1,200円で購入すれば、3箇所のお宿の露天風呂に立ち寄り入浴をすることができるとあって、宿泊客以外にも日帰りのお客まで気軽に、黒川のお宿の雰囲気に触れることが出来るのである。また、お宿以外にもお土産物屋や軽食処など、多くのお店がこのエリアに密集し、賑わいに満ちた温泉街を構成している。
昭和52年創業の「山河旅館」は、この温泉街から車で約5分の閑静な地にある。蛇行する渓流に沿った、広さ3000坪の敷地に点在する棟からなるお宿で、せせらぎが流れ、深い緑に覆われた佇まいはひとつの里村のよう。騒々しさとは無縁の、どこかの時代にタイムスリップしたような雰囲気が漂う。
駐車場から緑のトンネルの坂道を下ると、フロントやロビーのある「本館」に迎え入れられる。緑が深いため全景を捕らえることは難しいが、重厚な瓦屋根の大きな建物だ。
この入り口を背にして右にある建物が、客室が3室ある「東館」と、館内通路を経て行くことも出来る男女別の大浴場内湯「薬師の湯」。
「本館」内を通り抜けていくと、通路を経て「西館」に至る。ここには5客室が入る。屋外にも林道のような小道が延び、離れ客室や、貸切の家族風呂、足湯や囲炉裏の小屋が設けられている。
館内で最も奥に位置するのが、混浴の露天風呂「もやいの湯」と、女性専用の露天風呂「四季の湯」である。
中心から離れた立地にもかかわらず、日帰り客にも人気を呼んでいるのは、その大きな露天風呂に要因があるといえよう。周囲に迫る緑の様子はさながら野天風呂で、若干の白みを帯びた湯面から湯気の立ち上る光景は神秘的だ。魅力ある露天風呂が多いこの黒川の中でも随一の人気を誇るという。
また、昔ながらの湯治場を思い起こさせる内湯「薬師の湯」も利用可能で、太い梁の組まれた荒々しい佇まいの中、男湯は岩の、女湯は檜の湯舟に源泉がかけ流しにされている。
この宿には湧出の際の温度が異なる2本の自家源泉があり、湯舟によって使い分けられている。例えば、気温の影響を受けやすい露天風呂には熱い源泉を入れ、影響を受けづらい内湯には2種をブレンドしたり、というように。
夏季などには井戸水を入れて調温を施すが、自然の息吹を間近に感じるロケーションで、大地の恵みをそのまま肌に感じることが出来るのは、まさに贅沢そのものである。
上述のとおり、この宿はひとつの里村のようで、全ての建物が同じ雰囲気に統一されている。
客室のある棟や浴室棟だけでなく、通路の途中にある足湯の東屋やその向かいの囲炉裏小屋は、茅葺屋根に黒塗りの柱に梁と、まるで田舎の農家の佇まいだ。
さらに、トイレやコインロッカー、ドリンク類の自販機ですらもこの雰囲気の中に溶け込んでおり、やはりこれも、木立のなびくこの雰囲気を大切に活かしたいという、お宿側の丁寧な姿勢の表れなのであろう。
客室は全部で15。うち露天風呂が付くのは1室だが、同様の風情を持つ温泉内風呂を備える客室は離れを含め6室ある。
風呂のない客室でも、いずれも和の風合いそのままの、黒と褐色で統一された“黒川スタイル”とも呼べる設えで、ところどころに置かれる民芸調の小物がその風情に一味加えている。
離れ客室は1室、「夏椿」という。せせらぎに沿った立地の棟で、6帖と8帖の和室が連なり、広縁が取り囲む。この広縁を奥に行くと、別棟の浴室に至る。ここの切石湯舟には温泉がかけ流しにされており、いつでも好きなだけ、良質の湯浴みを楽しむことが出来る。この湯舟からの眺望はきかないが、窓の外に茂る豊かな緑を目にすれば、より心も和むことだろう。
「東館」の2階の2室には、どちらも温泉風呂が付く。廊下手前の「朴の木」は、8帖二間にドレスルームも備える広い一室。ここには岩組みの露天風呂が付き、目の前に茂る樹木の迫力を感じられるだろう。廊下奥の「えごの木」は、8帖と6帖の二間続き。広縁を抜けていくと、奥に別棟の浴室がある。ここは渓流に面して建っており、窓を開ければ内湯ながら川の流れる音が耳に入る。湯舟の底に丸石が敷かれるなど、さながら川原風呂といった風情だ。この客室には以前、常陸宮華子様もお泊りになったそうだ。1階の「楓」とあわせた「東館」の3室では食事は部屋ではできず、「本館」の広間でいただくことになる。
西館の「吊花」と「捩木(ねじき)」、「ひさかき」にも、「夏椿」と同様の切石風呂が付く。どこも8帖一間ながら、玄関や広縁、洗面所などにもゆったりとした広さがあり、窮屈感はない。さらに源泉がかけ流しにされる温泉湯舟が部屋に付くのだから、伸び伸びと滞在を楽しむことが出来るだろう。どちらも川に面したロケーションで流れる水音が聞こえてくるが、湯舟から直接川を見ることは出来ない。
お風呂の付かない「本館」の2階の6室やその他の全ての客室にいえることだが、8〜12.5帖の本間と広縁という構成ながら、どこも実に余裕のある造りが施されている。広縁部分には冷蔵庫や水屋があり、トイレはシャワー付きであるなど、利便性にも事欠くことはない。窓を開ければ豊かな緑や川の流れが感じられ、屋外の風合いをそのまま室内にまで持ち込んだような感覚が得られるであろう。
料理は部屋でいただくか、「本館」1階の大広間でいただく。食材にも恵まれたこの阿蘇の地、新鮮な野菜をはじめ旬の素材が多く並ぶ献立だ。取材時(2008年6月)のメニューはやはり初夏の彩り。高級感こそないものの、山の宿の王道を行く内容の定番ともいえる品々を、以下に紹介する。
食前酒は巨峰ワイン。先付には枝豆豆腐のなめ茸あん掛け。どちらも季節を感じさせる爽やかで滑らかな口当たりのエントリーだ。つづく前菜は、しめじ茸、三つ葉のうるか和え、サワガニの艶煮、人参カステラ、ミニオクラ胡麻和え、長芋黄味焼、もろ味噌と独活、山桃という山の幸が華やかに並ぶ。
椀盛にもさっぱりとした味わい、竹の子真丈に、山椒葉、燕のかたどり人参、じゅん菜が添えられる。
お造りに鯛、車海老、イカが毎日熊本から直送される。添えられたのはミニ大根。対して焼き物には川魚が出される。山女魚の焼浸し(甘露煮)は山の宿を感じさせる一品、深い味わいが特徴だ。
冬瓜、里芋、五三竹の煮物。キノコあんかけで香りと味にまろやかさが出る蓋物に、進肴で熊本名産の馬刺しが出される。サシの入ったやわらかい口当たりで、すりおろした生姜と醤油でシンプルに素材を味わいたい。
濃い口当たりのものが続いた後には、冷鉢で竹筒に入った茶蕎麦が出された。椎茸や錦糸玉子、ミニトマトが載せられた彩も豊かなもので、竹筒を上に引き抜いていただく。
続いて肥後牛のロースを鍬焼にしていただく。地産の玉ネギ、しいたけ、赤、黄、緑ピーマンが添えられ、上質の素材の数々をストレートに口に放り込もう。
揚げ物は、薫り高い季節の味を衣に閉じ込めた天ぷら。具材には鱒の新緑揚げ、アスパラベーコン巻き、エリンギ茸とヨモギ。見た目も味わいも爽やかだ。
酢物にワラビ三杯酢、酢蓮根、茗荷酢取、ウリ昆布〆。さっぱりとした味わいは、肉や揚げ物の後にぴったりだ。締めのご飯には熊本産のものを。上椀にはつくね芋、ナメコ、葱が入る素朴な味だ。自家製の香の物が添えられる。
水菓子にはメロン、びわ、西瓜が並ぶ。食の宝庫、九州だけに、新鮮な旬のフルーツも季節ごとの楽しみとなるだろう。
朝食も素朴な、親しみのある食材で彩られた和食。小国産のお米「アキゲシキ」と山菜の入った味噌汁を基本に、各種惣菜や温泉卵が並ぶ。大豆の甘煮、しいたけ、油揚げ、こんにゃく、筍、ゼンマイ、エンドウのおにしめ、からし蓮根、明太子、きんぴら、“ずいき”と呼ばれる里芋の茎を甘辛く煮たもの、ほうれん草のおひたし、ミズガレイの一夜干し、サラダにジャージー牛乳という品揃えだ。
四季折々の表情を見せる草木も楽しみである。実は、宿のあるこの地は、宿ができる前は田んぼで、しかも土砂崩れの影響で岩の転がる荒地だったそうだ。温泉が出ることがわかり、整備をしていく上で、山林から数万本単位で植林を施したのだという。現在となっては人の手が加わったとはまったく考えられない様相で、何十年も何百年も前からここにあるように見える。
取材時(2008年6月)は、多くの花が芽吹く季節。山アジサイやシャクナゲ、ヤマボウシなどが花をつけていた。他にも、モミジ、コナラなど多くの木々が植えられており、その豊かな表情は目に浮かぶようである。なお、紅葉は例年、10月の終わりから11月の頭が見頃だという。冬場には雪が積もり、雪見風呂も楽しめる。通路が野外になるため、移動の際の寒さは免れないが、この山奥の宿に来たという実感を得るにはまたとない機会といえよう。都会では体感し得ない、“日本の原風景”を堪能しに来ているのだから。
お帰りの前には、フロント横にあるお土産コーナーを覗いていただきたい。黒川温泉ではその自然を守るべく、環境に優しい成分を配合したシャンプーやコンディショナー、ボディーソープ、「よも・ぐれーす」を共通で用いており、大浴場や客室の浴場に置いている。それぞれ1000mlで1,500円で販売されているので、気に入った方はご自宅でもご利用になってはいかがだろうか。
他にもこの宿オリジナルのタオルも各種サイズ取り揃え、また阿蘇、南小国特産の野菜を用いた漬物やジャージー牛乳のアイスクリームも人気の品である。
「山河旅館」は「旅館山河」ともいう。
公式HPを見ても両方の表記がされている。
どちらが正式か女将にお聞きすると、「どちらでもいいですよ」とのこと。
宿名、屋号はブランド名という常識は、この宿には通用しない。そんな事よりも、中身で勝負・・・ということか。
もともと田んぼだった土地に現在の建物が建っている。
実は昭和28年に大きな水害に見舞われて、水田に岩や石が流れ込み、廃田にする他なかったという。
その後、その土地は寝かされていたが、昔「くすり湯」という効能豊かな温泉がその土地にあった噂を聞きつけ、先代(創業者)・後藤健児さんが昭和50年にボーリング(掘削)を開始し、数日後めでたく温泉が湧出した(1号泉)。
そして、昭和52年に、13部屋で創業したわけだ。当時は酒屋と兼業していた。
現在は2代目の社長、後藤健吾さん(昭和29年生まれ)がこの宿を取り仕切る。同じ南小国町で一つ年下だった辰子さん(現・女将)と結婚したのが創業の翌年の昭和53年。
「黒川温泉」の人気が不動になった平成5年には旅館業に専念することになったという。
平成7年には、「吊花」と「捩木(ねじき)」の客室が完成し、現在の15部屋構成となった。
そして、健吾さんが正式に社長に就任したのが平成10年の事だ。
平成11年には新たな高温の温泉(2号泉)の掘削に成功し、現在に至る。
「山河旅館」は黒川温泉の中でも、客室稼働率が高い宿として知られている。その人気の秘密は前にも述べたが、やはり緑に囲まれた閑静な環境だろう。
黒川温泉は今や全国区の知名度と人気を誇るエリア。その中心の通りとなると、やはり宿泊客や観光客でごったがえすこともある。
ところが、ここ「山河旅館」周辺は、近くにお店や宿もなく、黒川温泉にありながら一軒宿の様相。
まさに秘湯の趣きが残されているのだ。
それだけではない。健吾社長自ら、温泉のメンテナンスの他、木々の整備をして造園作業も行い、まさに手作りによって現在の姿になったのだ。
そしてできあがった田舎の郷愁を感じさせる風情は、なかなかのものだ。
女将である辰子さんのキャラクターも見逃せない。いつも笑顔でいらっしゃる方なのだ。
お客だけでなく、スタッフにも笑顔で接し、その空間は一瞬で朗らかな雰囲気となる。
このご夫婦で運営されている宿が悪いわけはない。
黒川温泉は人気が出すぎて、賑やかすぎて・・・と最近敬遠している方なら、この宿をお薦めしたい。
豊富な源泉を擁する「山河旅館」は、源泉かけ流しの宿として、日頃温泉に一言をもつ輩でも、納得できるスペックは持っている。
最後に館内の清潔さをあげたい。掃除が隅々までされており、いつ訪れても感心する。特にピカピカに磨かれた廊下など見れば、納得するはずだ。
当たり前のようだが、その当たり前ができない宿が多いなか、この宿の誠実さがしみじみと伝わってくる。
その真面目すぎるほど正統派の温泉宿に、ぜひ行っていただきたいものだ。(J/eb)