黒川温泉といえば、古くから続く歴史こそないものの、いまや九州はもとより、全国区の人気を誇る温泉地である。
阿蘇の山あいにひっそりと佇む、「日本の田舎」がそのまま残る里山の光景や、川沿いに並ぶ低い軒で統一された温泉街の風情が人気を呼び、九州内、日本国内に留まらず、国外からの来訪者も絶えない。
福岡、大分、熊本市内からのアクセスも、九州中央部の山地を横断する「やまなみハイウェイ」を利用すれば容易で、風光明媚な阿蘇山麓ドライブの途中下車としての利用も多い。
宿泊が目的でない人でも、各旅館で販売している『湯めぐり手形』を利用すれば、黒川の旅館3ヵ所の温泉風呂を利用することが出来るといった気軽さも、人気の要因といえよう。
その黒川温泉の表玄関、案内所「風の舎(や)」と公営駐車場のある敷地の奥に、立て看板と小さな門が見える。
「南城苑」は正面入り口をここに、斜面上に地上二階、地下二階からなる全11室のこぢんまりとした旅館。
年月を重ねた木の風合いが全面に漂う館内や、自然真っ只中という風情の露天風呂、地の素材にこだわった山の懐石料理などという、「黒川温泉の旅館」と聞いて一般的にイメージされるものがみな揃う宿である。
立地の良さは上に述べた通りだが、斜面上に建つということも大きな利点となっている。
ほとんどの客室からは、谷あいに細長く延びる黒川温泉の街並みを上から望むことができ、その谷間を縫って流れてくる頬をなでる風も心地よい。
斜面という地形上、館内は若干迷路のような体裁で、階段の昇降も多い。
それが逆にこの宿の風情を高めるのに一役買っているようであるが、エレベーターがないため足腰の弱い方のご利用は難しいかもしれない。
縦に伸びるような造りの館内だが、全11室という規模からもわかるように、全体的にはコンパクトな構成。
入り口の門をくぐるとまず、緑に包まれた石畳の坂道をゆっくりと下り、下りきったところに玄関がある。
玄関前にはこの地下60メートルから湧出する温泉が湯気を上げるやぐらと、その源泉を利用した足湯が、囲炉裏のまわりにめぐらされている休憩小屋がある。
この足湯小屋では、夏場はカキ氷、冬場にはおでん、そして温泉卵といった親しみのある品が1杯(1個)100円にて振る舞われる。
宿泊でないお客も利用することができるもので、黒川温泉にある公共の足湯では最も古いものだという。
玄関から館内に入ると、廊下、階段を巡って客室の扉まで連なる幅50センチほどのイボイボが床に敷かれている。
一見したとおりの足ツボを刺激するもので、健康な方なら踏んでも痛くないそうである。
そのイボイボに導かれるように、玄関手前の階段を上がった本館2階に6室、フロントの前を通った先、本館の1階に3室、そして1階の廊下を抜け、朝食処「ひまわり」前の階段を上った新館の2階に2室用意されている。
お風呂は地階に備わる。
フロントから喫茶「ほおずき」の横を抜けると、案内板が廊下横の引き戸を指し示す。
その先の狭い階段を下ると、一部地表も露になった洞窟のような風情である。
階段を降り切って、右手に折れると「大湯」の入口。階段の正面奥にあるのが「岩湯」。
これらが男女大浴場として分けられ、それぞれの中に内湯と露天風呂を持つ。
これらは深夜0時に男女交代となるため、1泊の宿泊でも両方の湯舟を味わうことが出来るようになっている。
お湯は源泉掛け流しで、泉温は75℃と高く、夏の間は山水を足して温度調節をしているが、秋冬の間は加水もしない源泉100%を堪能できるという。
まず「大湯」だが、大人10名ほどが入れる大きさを持つ檜湯舟で、浴室内にはシャワー付きの洗い場と、温泉サウナも設けられている。
そしてこの浴室に隣接してあるシャワー室から、外に向けて広がる湯舟が「月の湯」。
温泉街を見晴らす高台に、せり出すようにしてあり、遮るもののない視界と風が抜ける爽快感あふれる露天風呂だ。
広さもかなりあり、大人15名は余裕を持って入ることができそうだ。打たせ湯も設けられているなど、ちょっとした工夫が施されている。
内湯の湯舟横の窓を開ければ、露天風呂の「月の湯」と隣接していることが分かる。内湯だが、露天風呂の気分も同時に味わうことが出来るのである。
もう一方の「岩湯」は、脱衣所に面して内湯の「霧の湯」がある。
檜造りの浴室で、もちろん湯舟も総檜造り。
大人3、4名が入れるほどのこぢんまりとした湯舟だが、洗い場スペースも確保されているため、まずここで体を洗って、体を温めてから階下の大露天風呂に行くなどすると良いだろう。
脱衣所から扉を出て、階段を下ったところにある大露天風呂が「星の湯」。
ゴツゴツした岩と、野趣あふれる草木に包まれた、ダイナミックな風情が特長だ。
細長い湯舟には、大人10名以上が余裕を持って入れるほどある。壁面をえぐって個別ブースのような形になった座り湯コーナーも設けられているなど、遊び心も随所に感じさせるつくりだ。
木々が生い茂り、柵も設けられているため温泉街の眺望はきかないが、晴れていれば、木々の間から見える夜空の星をここでじっくりと堪能したい。
「星の湯」奥の階段を上ると、草木の裏に丸い樽状の湯舟が置かれる。
こちらは大人1、2名が入れるほどの大きさのため、半ば貸切状態で利用することができる。
草木に包まれるような感覚の湯浴みを楽しみたい湯舟である。
客室は11、それぞれに「むつき」、「きさらぎ」など、旧暦の月の呼び名が付けられている。
唯一、部屋名にないのは「師走」で、これは忙しそうだからという理由から。
ちなみに、一部のリピーター客からは、「忙しいからフロントを師走ってことにすれば?」などと言われているそうである。
全客室とも和室で、風呂は付かないがウォッシュトイレが備えられている。
TVや金庫、洗面やアメニティなど、使い勝手に困ることはなく、手荷物も少ないまま気軽に“山の宿”を体験できるのがありがたい。
また温泉街からは離れた立地にあるため、夜は勿論、昼間も客室内は静か。
これも、黒川温泉・南城苑ならではということが出来そうである。
中でも特に人気が高いのは、眺めの良い新館2階の「かんなづき」と「ふみつき」。
客間も12帖以上と広々、家族旅行や小グループなどの宿泊にも向いている。
館内でも一番奥に位置するその静かな佇まいも手伝い、プライベート感はひときわ高い。「かんなづき」には隠れるようにして茶の間も付いている。
自慢の眺めが堪能できない客室もあるが、本館1階の「しもつき」のように以前はデッドスペースだった箇所に本格的な囲炉裏を設けるなど、その高いプライベート感を逆に利用した工夫が見られる。
これらの客室での宿泊プランとして、24時間ステイが人気を呼んでいる。
平日のみ1日限定3組の受付となるが、お昼の12:00にチェックイン→翌日の12:00にチェックアウト、となる。
これなら朝寝坊もできて、あせらずじっくりと露天風呂巡りも楽しめるだろう。
詳しくは公式HPをご覧の上、ご予約いただきたい。
夕食は、客室でゆっくりといただく。
旬の食材を近隣に求め、その鮮度、味などにこだわりを持って出される献立は、女将が板長やスタッフと話し合った上で決定するという。
水のきれいな南阿蘇でとれる野菜や川魚、近隣の農家手作りのお惣菜、“食の宝庫・九州”ならではの味わいをたっぷりと堪能したい。
以下に紹介する献立は取材時(2008年6月)のもの。
オーソドックスな献立ながら、素材の質、鮮度へのこだわりが活きた食事であった。
食前酒は、自家製梅の香りの赤ワイン。
小鉢の芋がらのキンピラ、珍味として出される鮎の卵と白子の友和えとの相性も良い。
前菜には、いちじくの赤ワイン漬け、ニジマスの甘露煮、マスの卵醤油漬け、鰹出汁と紅醤油で蒸したバイ貝、川海老、山芋のゼラチン寄せ、錦玉子の七種盛り。
山の食材を豊かにアレンジした、季節感の高い一皿だ。
続いて地物野菜の田舎煮。
里芋、南瓜、ニンジン、コンニャク、筍が彩り豊かに食卓を飾る。
次に出される刺身は、マスの刺身洋風サラダ。
イタリアン風自家製ドレッシングの、バジルが利いたさっぱりとした香りと味付けがよくからみあう一品だ。
綺麗な水で育った川魚は身に臭いは少ないものの、やはり敬遠されがち。このように現代風に食べやすくアレンジすることで、より親しみやすくいただくことができる、アイデアの光る一品だ。
そして馬刺し。
深い赤味にサシの入った上質の肉を使用している。やわらかく、そして臭みのない、独特の甘みが特徴。
夕食に外せない“熊本の味”をしっかり堪能したい。
肉物が続き、鹿児島産黒毛和牛の台焼きが出される。
赤味に白いサシというマーブル模様の上質の肉に、地元小国産のマイタケ、ししとうが添えられる。
花が開く前の状態のマイタケの、シャキシャキとした歯応えも楽しみたい。
特製のポン酢、生タレや、沖縄から取り寄せて「秘密の調合」(女将・談)を施した塩をさっとつけて、その濃厚な味を楽しむ。
揚げ物は、茄子田楽。
ベイナスを一度揚げて、手作り味噌をぬってさらに火を加えたもの。
カリカリとした食感と、口の中にひろがる濃厚でジューシーな香りが漂う秀逸の品であった。
焼き物には、南阿蘇産、山女の塩焼き。
綺麗な水の中育った、引き締まった身が美味のヤマメ。
じっくりと火にかけられたため、骨までいただくことができる。さっぱりとした味と口当たりは食べやすく、山の料理に親しみがない方でもすんなりいただけそうである。
お口直しの酢の物には、長芋そうめん。
トロトロとした口当たりもやわらかい。
締めとなるご飯も拘っている。
一人一杯限定の、自然薯の麦トロかけご飯は、黒川にある山芋料理専門店から取り寄せた自然薯(やまたけ)をすり、味噌汁の出汁をくわえてトロロにした。
稀少な自然薯を用いるため限定数しか提供しておらず、おかわり分も提供していない人気のメニューだ。
これ以外にも、二杯目以降には通常の白米が提供される。マスの切り身入り味噌汁、自家製のキュウリ辛子漬け、高菜の漬物をいただき、胃袋も穏やかに満たされる。
デザートには抹茶のケーキと、植木産の西瓜が出され、爽やかな食後感であった。
朝食は1階の廊下の奥に位置する広い食堂、「ひまわり」でいただく。
窓を開ければ黒川温泉の広大なパノラマが広がり、さわやかな風の舞い込む気持ちの良い広間だ。
定番メニューをしっかりとおさえた、山の宿らしい朝食。
ご飯と味噌汁、温泉玉子に、煮豆、切干大根、明太子、塩マス、そしてこの場で火にくべられる湯豆腐に、ジャージー牛乳が添えられる。
飾らぬ佇まいながら、素材へのこだわりは並以上、この宿を象徴するかのようなお食事である。
朝食をいただき、朝風呂を浴び、宿を後にする前に、フロントの目の前にある豊富な品揃えのお土産をご覧頂きたい。
なかでも人気は、オリジナル品。
桐の箱に入れられた、上品な甘い香りが印象的な梅のお香(1,000円)や、南条苑の風景の下絵が描かれ、添えられた絵の具で色をつけて楽しむことができるポストカード(1枚200円)、食事の際に使用もする丈夫な鉄の木のお箸(1膳1,000円)、さらにはガーゼタオル(ひとつ630円)なども持ち帰りに楽なお土産として人気である。
阿蘇小国郷黒川の大自然で育った旬の野菜を真心込めて漬け込んだ、黒川温泉の「平野商店」のこだわりの漬物もここで購入できる。
さらに、この宿を語る上で外せないのが、小説『初恋温泉』(吉田修一著/集英社刊)。
温泉にまつわる男女の話を描いた5つのオムニバスからなる本で、「南城苑」は最終話の「純情温泉」の舞台となっている。
これは、親に内緒で旅行する高校生カップルの爽やかな恋愛が描かれた一話で、読者の間でも人気が高いという。
2002年に『パーク・ライフ』で第127回芥川賞を受賞した作者の、独特の感性と筆致が活きるこの小説を購入し、自宅の本棚に飾っておけば、この旅の記憶も薄れることなく後々にまで残ることだろう。
「南城苑」は、人気のある黒川温泉の中でも、特に稼働率が高いことでも知られている。
取材時も、平日にかかわらずほぼ満室で、また幅広い客層が見られた。
だが、その理由は立地の良さだけではない。
たしかに、温泉手形を案内所で購入し、まず赴くのが目の前にあるこの宿・・・お風呂に浸かり、迷路のような館内や露天風呂の清々しさに触れて気に入り、次回宿泊の際にはここで。
こんなストーリーも容易に思い浮かべることは出来る。そういうお客も多いかもしれない。
だがそんな立地のメリット以上に、この宿の魅力として挙げられるのは、迎えうけてくれるスタッフの方々である。
一般的に“山の宿”と聞くと、ぶっきらぼうな態度の親父とオシャベリなおばさん仲居、をイメージしてしまうところだが、ここは違う。
これは黒川温泉の宿全体に言えることかもしれないが、作務衣、ないし和服という出で立ちながら、その丁寧な接客態度には「旅館」「接客業」たるものの原点を見た気がした。
これは新鮮な驚きであった。
さらにこの宿の場合、基本的に一組のお客には一人のスタッフが半ば専属として付く。
まずはじめの部屋への案内から料理出し、布団敷きに至るまで、こちらの滞在中の世話を親身になって焼いてくれるのである。
かといってベタベタとしない、程良い距離感も兼ね備えるスタッフたち。
「帰りがけにはスタッフと一緒に写真を撮って行かれるお客様も多いですよ。」と社長の下城誉裕(たかひろ)さんが柔和な笑顔で語るように、ひとつの良い結果として客側にも受け入れられているようだ。
取材時にも廊下で、スタッフの方々とお風呂上りのお客とが談笑する様子がよく見られた。
事実、楽しい思い出を持ち帰ったお客が、再び来訪した際にまず口にするのが、「おひさしぶり!」ないし「ただいま!」という言葉だそうで、これは田舎の親戚の家に遊びに来たような気分がなせる業といえるであろう。
これは、連泊客の多さにも顕著に表れている。
この宿を指揮する二代目、昭和47年生まれの下城社長は、近くの日田市出身。
彼にとって黒川温泉・南城苑とは「おばあちゃんの家」で、ここの跡継ぎに収まる以前は福岡で建設関係の仕事に就いていたという。
その際に知り合い、結婚した奥様=女将の嘉代子さんも旅館業に関しては縁がなく、つまり二人とも、手探りの状態でこの宿の運営を引き継いだのである。
そのフレッシュさから来る、あくまでお客目線での取り組みが功を奏したようで、玄関先にある囲炉裏を足湯コーナーに変貌させたのも彼らの代になってから。
大浴場の脱衣所に置かれる、ユニークな温泉顔蒸し器の発案もそうだ。
女将は女将で、スタッフの接客指導や料理の献立などの舵を取る。
この夫婦の絆があってこそ、現在の「南城苑」の姿があるのである。
彼らは胸を張って言う、「うちの宿には高級感はないけれど、それに匹敵することはやっています」と。
また下城社長は、黒川温泉青年部の部長も務めていた。
元々は黒川温泉の「お祭り班」としての存在だったが、より多くの人に黒川温泉のことを、そして黒川温泉だからこその取り組みを紹介したいとのことから発展してできたのがこの部会である。
その取り組みは、イベント実行係という職務で黒川の盛り上げを『支援』し、黒川の変わらない良さを『継承』し磨きをかけ、新しい黒川温泉の魅力・価値を創造するために、若さを活かした行動力で『チャンレジ』すること。
日頃の活動や出来事などを各部員が「黒川温泉わっかもんブログ」にて綴っているので、興味を覚えた方は是非ご覧頂きたい。
「より親しみを感じてもらえるように、安心して黒川に来訪してもらえるように」との想いは、彼ら青年たちのモチベーションの礎となっているようである。
“南小国”にある“下城家”の旅館、に由来する宿名。
配管作業中に温泉の蒸気を顔に浴び、そこから着想したという温泉顔蒸し器、廊下の健康イボイボ、顔出し看板など、宿泊して感じたのはこの宿のそこかしこに見られるユーモア。
だからこそ、この宿には肩肘など張らず、普段着感覚で訪れたい。
お子様連れの宿泊も大歓迎だそうだ。
つまり、これこそまさに、“田舎への里帰り”。
専務自身にとってこの宿が里帰りの場所であったからなのだろう、運営する彼らの想いは、どうやらしっかりとお客にまで届いているようである。
黒川温泉は初めてという方も、日帰りで何度も立ち寄ったことがあるという方も、表玄関にほど近いここ「南城苑」を選べば、きっと自分なりの「日本のふるさと」を見つけた心地に浸れることだろう。
小説「純情温泉」に登場するような若いカップルや友人同士、壮年のご夫婦まで、実際に訪れる幅広い年代の宿泊客に、なによりもそれが表われているように思えてならない。 (J/eb)