黒川温泉の旅館は、比較的大きな建物は見当たらない。10室前後の小規模な家族経営の宿が多い。
旅館によっては、大きな岩を配した広大な露天風呂や、洞窟風呂など個性的なお風呂で客を楽しませてくれる。家族風呂(貸切風呂)が多いのも特徴だ。
割合としても、一人1万円台半ばの料金の宿が多く、そのリーズナブルさゆえ、人気を博しているのが良く分かる。
その温泉街の中心にある人気宿「ふもと旅館」が、古い宿を買い取り、2002年(平成14年)にリニューアルオープンさせたのが、「旅館こうの湯」なのだ。
黒川の中心エリアから少し離れた場所にあるせいで、閑静な環境も素晴らしいが、この宿はワンランク上の寛ぎを提供してくれている。
全9室が、フロント棟から外気に触れながら回廊を通ってアプローチするという「離れ」形式の宿で、しかも「源泉かけ流し」の「客室露天風呂」が付いているというから贅沢そのもの。
そして、今風のデザイナーズ旅館路線に走るのではなく、木造建築と素朴な家具調度品など黒川温泉らしさは残っており、幅広い年齢層に支持される要素が凝縮しているのだ。
温泉街の中心地にあるお宿は、比較的標準的な客室が多い中で、次世代の「黒川温泉」を彷彿とさせるのが「旅館こうの湯」と言えるだろう。
部屋は、2階建てのメゾネット型客室と、平屋の造りと大きく分けて2通りとなるが、いずれも快適な空間が用意されている。
結婚記念日や誕生日など、アニバーサリー的なイベントでこの宿を利用する客は多い。
そこには、なぜか落ち着く雰囲気と、それでいて上質で非日常的な空気感がバランスよく混じり合っているからに違いない。
この宿のスタッフは、比較的若い人たちが多い。
だからだろうか、活気があって心地いい。
そして、やはり女性を意識したサービスの数々が展開されている。
客室には洗顔料や化粧水、コットンなど、女性が日常必要とするものが常備され、アメニティー類はお持ち帰りもできるようにと、可愛らしい巾着袋も用意されている。雨の日の来客には、ガーゼンハンカチや和布カードケースなどのミニグッズをプレゼント。
時期にもよるが、「めざせ温泉美人」と銘打ったプランには、夕食時の食前酒を自家製梅酒やギラスワイン、ソフトドリンクなどから選ぶことができ、浴衣が苦手という方にはコットンパジャマや作務衣のレンタル、美顔器「ナノケア」も用意されている。
そして、源泉をそのまま閉じ込めた「黒川すぱみすと」のプレゼントなどの特典が付く。まさに、女性にとって嬉しいことづくめである。
その宿の陣頭指揮にあたっているのは、松崎社長の長女である祐子さん(昭和56年生まれ)。
若女将として日夜奮闘している。
夜遅くまで、宿にとどまり、常にお客の世話やきをしている。
自身が旅行先で感じることを、ダイレクトに自らの宿に活かす。この機敏さと行動力はやはり、「入湯手形」を発案・実行し、街の発展に大きな貢献をした親譲りのものなのであろう。
その活動意欲はひとつの宿に留まらず、黒川温泉青年部においても発揮されている。
この部会、元々は黒川温泉の「お祭り班」としての存在だったが、より多くの人に黒川温泉のことを、そして黒川温泉だからこその取り組みを紹介したいとのことから発展したものである。
日頃の活動や出来事などを各部員が「黒川温泉わっかもんブログ」にて綴っているので、興味を覚えた方は是非ご覧頂きたい。
その活動の一例としては、温泉街のいたるところに設けられている巣箱が挙げられる。
これは、2008年の5月の愛鳥週間に催されたイベントで、地元の大学生や親子連れの観光客によって製作されたものだ。
田舎らしさが今に残る黒川温泉だが、だからこそ提示できるのが環境問題。
客室の窓からも眺められるこの豊かな自然だが、実際に触れてみて、体感することで、より親しみも強くなる。身近に自然を感じることこそが環境を考えるきっかけになり、そして巣箱で育つ雛の成長を見守ることで、より深く自然に関わる。
春から夏にかけての成長と巣立ち、実りの秋を満喫する成鳥、枝から葉が落ちて観察のしやすい冬と、まさに四季折々の楽しみ方が用意されている。
より親しみを感じてもらえるように、安心して黒川に来訪してもらえるように、という彼ら青年たちの想いが、温泉地として単に"癒し"を売るだけでない、新たなアプローチとなりうるアイデアを生み出した。その好例といえよう。
そんな若女将にこんなエピソードがある。
ある日の夕方、宿の入口でおばあちゃん達三人組が歩き疲れて道端に座り込んでいたのを見つける。
「どうしたんですか?」と声をかけると、おばあちゃんは「18:30のバスに乗らなきゃいけないんだけども、バス停がどこだかわからない」と言う。
実は、そこからバス停はクルマでも5〜6分はかかるところ。時計はすでに18:20を回っていた。
若女将はすかさず「クルマで送りましょうか?」と言うと、おばあちゃんは「お宅の宿の客でもないのにいいの?」
「何を言っているんですか。黒川温泉のお客じゃないですか!」と言うと、若女将は自ら宿のクルマを用意してバス停に急いだ。
車中、「あんたのことを天女に見えたよ」というおばあちゃんの言葉に、若女将に笑みがこぼれた。
数日後、宿の一本の電話が入った。その声はあのおばあちゃんの一人だった。
「あんたに黒川温泉のおすすめ宿を聞いたら自分の宿の事を言わなかったね。その事が気に入った。絶対、今度あんたの宿に行くからね〜。」
若女将は電話を切ったあと、嬉しくて涙が止まらなかった。
大変な仕事だけれど、こんな幸せな気持ちにさせてくれる旅館業というのは、改めて素晴らしいと感じたという。
こんな若女将がいる温泉地は将来も明るい。
黒川温泉の人気は当分続きそうだ。(J)