オーベルジュ(Auberge)とはフランスを発祥とし、主に郊外や地方にある、宿泊施設を備えるレストランのこと。食事のためにわざわざ遠方へ出かけるという、“美食の大国”フランスならではの食文化といえよう。中世以来の歴史を持つといわれるオーベルジュだが、一般化したのは1900年創刊のミシュラン・ガイドによるところが大きい。1926年に始めた星によるレストランの格付けにより、当時普及し始めた自動車による旅行の目的として、より大衆の耳目を集めるようになったのである。
流通経路の発達した現代ではその差も縮まっているものの、そもそも食文化における最高の贅沢とは、その土地で、その土地の採れたての食材を使って調理されたものを食べることである。お目当ての食材を求め、そのレストランへわざわざ出かける。食事を楽しんだ後は併設してある客室に宿泊するという、まさにグルメ旅行の代表ともいえる施設が「オーベルジュ」といえるだろう。
世界に誇る食文化を持つここ日本でも、フレンチをベースに地産の食材を和風にアレンジし、さらに日本人の愛してやまない“温泉”というキーワードを組み合わせた、“和のオーベルジュ”とでも呼ぶ施設が近年人気を呼んでいる。美味しい食事と都会の喧騒とはかけ離れた静かな環境、そして、温泉。これら娯楽の三大要素が盛り込まれているわけだから、人気も当然の結果だ。
兵庫県香美町(かみちょう)小代(おじろ)地区。こう聞いて、具体的な地理を把握できる方は少ないかもしれない。ここは兵庫県の北部に位置し、県内で最も人口密度の低かった旧美方町が、2006年の近隣の旧香住町と旧村岡町との合併により、日本海に面した香住浜を起点とし山深いエリアにまでまたがる細長い町となった。この町にはスキー場やキャンプ場、『日本の滝百選』にも名を連ねる「猿尾滝」や、『日本の棚田百選』の「うへ山」や「和佐父・西ケ岡」、さらには久須部渓谷など、自然の織り成す様々な光景を堪能でき、また、香住漁港や柴山港であがる新鮮な魚介類も大きな魅力となっている地である。兵庫県有数の温泉地である、湯村温泉のある新温泉町も隣接する。
日本の原風景ともいえるのどかな光景の中、スキー場のゴンドラ施設が見えたら道を折れる。案内の看板派小さいので、うっかりすると通り過ぎてしまうかもしれない。やや急勾配の坂を上ると雄大な山が連なる光景が広がり、軒の高さを抑えた赤壁の建物が目に入る。この山々を背景にひっそりと佇むのが、全10室の「オーベルジュ花郷里(はなごうり)」だ。
この宿と同じ兵庫県の名宿、有馬温泉の「陶泉 御所坊」をご存知だろうか。温泉ファンの方ならご存知であろうが、人気の老舗旅館、日本の名宿である。古い木造の小さな旅館に大規模なリノベーションを施し、有馬きっての高級旅館となる。
その宿のオーナーは、金井啓修(ひろのぶ)氏。今では、有馬では旅館4軒と数多くの飲食店の他に、おもちゃ博物館なども運営する異色の経営者である。その金井氏が、宿の食事で提供するお米をこの地から購入していた関係で縁が深まり、やがて自治体の保養所を譲り受ける事になった。それが「オーベルジュ花郷里」となるのである。
館内に入るとまずロビーに至る。正面に窓が大きく取られ、外の芝生の緑や山々の光景が目に入る開放感ある空間だ。暖炉を中心にロッキンチェアが円形に配され、ミニバーが併設されている。コーヒーや紅茶はここのセルフバーでいただける。
施設の数は多くはない。2階建ての建物で、1階には、滞在のメインとなる食事をいただくレストランと、シアタールーム、そして宿泊日には貸切で利用ができ、翌朝は男女別浴場となる温泉内風呂が二つ。2階には階段ホールを中心に二手に分かれ、客室が8室並ぶ。館内は客室数に見合った、シンプルな構成だ。
ロビーから外に出る。まず目の前に広がるのが、広いウッドテラス。木製のベンチやテーブルが配された清々しい空間で、天気のよい日などにはここで朝食やブランチをいただくことができる。広大な芝生の庭の中には、黄色いBBQ小屋、赤い子ども部屋、そしてケヤキの木に造られた、ツリーハウス「モンキーズBAR」が点在する。他には棚田風の池やポニー牧場、どぶろく工場がある程度で、人工物といえばそのくらいである。他に何があるかといえば、それは雄大な自然。ここでの滞在における正しい楽しみ方とは、空いた時間を何かで埋め尽くす都会的な時間の過ごし方ではなく、あくまで空いた時間を愛でること。つまり、日常生活とは対極にある過ごし方にあるといえよう。
客室は全10室。どこも庭園側に面しており、庭の緑、木々、連なる山の光景が窓の外に広がる。1階にはスイートルームが2室用意されており、これは段差も少なく設計された、バリアフリー対応の客室である。リビングルームとツインベッドの寝室、8帖分の和室、そしてユニットバスとトイレという構成だ。2階の8室は大きく分けて2タイプあり、「都会風なお部屋」と「木の香りのするお部屋」が用意されている。どちらも広さは同じでセミダブルのツインベッドにソファ、そして勾配天井にファンの付いた開放感ある設えも同じだが、その名の通り、片やデスクが置かれ都会風に洗練された印象、片や窓際にマッサージチェアが置かれる木調の柔らかい印象と、若干の仕様と雰囲気を異にする。収容人数は3名までとなっているが、1室のみ、「205号室」はロフト付客室となっており、収容は最大で4名となる。全客室にTVと冷蔵庫が付くが、TVは14インチと小さく、また冷蔵庫には冷えた水が入れられているのみだ。
各客室に用意される、麻素材100%のリラックスウェアはオリジナル品。御所坊関係の宿では地球環境に配慮をし、できるだけリサイクルできるものやダイオキシンを発生させない材質の品などを吟味し、人と地球にやさしい品を使用する取り組みをしている。
この宿の住民も個性豊かである。まずは棚田風の池でゆうゆうと泳ぐアヒルのガー助、ガー子。人が近づくと逃げるように離れていくが、ときおり風呂端まで現れ、入浴をのぞいていくとのこと。宿の番犬でありマスコットキャラクターでもあるのが、ボーダーコリーのアーサー。普段はロビーから外に出るとある、モミの木につながれており、宿泊客に愛嬌を振りまいている。時折現れるというキツネや鹿などの野生動物が現れたときには一転、猛烈に追い立てるというから頼もしい限りである。敷地の端に設けられている牧場スペースにいるのがポニーのエレナ。まだ訓練されていないため、背中に人を乗せることはできないそうだが、この風情にぴったりののんびりとした顔で草を食んでいる。これだけの広大な環境の中だけに、動物たちも実にのびのびと暮らしているようだ。
お土産コーナーはフロントに併置されている。御所坊のオリジナルお土産や、有馬温泉街にあるギャラリー兼お土産屋の「ガレーリア・レティーロ・デ・オーロ」でセレクトされた食器などのグッズ、さらには地元出身の木工作家による小物類が販売されている。販売されているお菓子もオーガニックという徹底ぶりも目を引くところだ。
雄大な景色に目を楽しませ、のんびりと流れるここでの時間を楽しみ、動物に親しみ、買ったものの読む時間のなかった本や雑誌などを読み、館内に置かれる懐かしいゲーム類などに触れ、楽しみ、温泉につかり、そうこうしていると夕食の時間になる。食事は1階のレストランでいただく。
もちろんフレンチのコースで、大阪の高級住宅街、帝塚山のフレンチレストラン、「ボネール」で23年間腕を振るっていたという植野シェフによる、近隣で採れる有機野菜や山菜などを活用した素朴な山里料理を楽しむことができる。都会の喧騒から離れた山奥という立地、当然コンビニなどは近くにない。だからこそ、どれも豊かな創意工夫がなされている品々は「お腹いっぱいになるまで食べていただきたい」という想いの込められた、ボリュームあるもの。ゆっくりと時間をかけて、厳選に厳選、吟味に吟味された豊かな食材で彩られるディナーテーブルは、穏やかな時間の流れるここでの滞在で、最も華やかなときを演出することだろう。
アミューズは浜坂で獲れたホタルイカのアンチョビソース。浜坂は兵庫県内でも一番松葉ガニの水揚げが多いことでも知られている港だ。燻製にされたホタルイカとはからみづらいバージンオリーブオイルだが、液体のアンチョビソースを加えることで香りと味わいが深くなじむよう仕立て上げられたもの。オリーブとアンチョビの高い薫りが口の中で広がる。
オードブルは「田」状にわけられた四角い皿に、4種類の品が盛り付けられる。
ひとつ目は但馬の合鴨スモーク。自然環境の中、雑草などを食べ育った合鴨には、鼻につく臭みや雑実がないのが特徴で、身も白く、素材そのものの味が強く感じられる。この鴨は「合鴨農法」で活躍していたもので、稲作における肥料を供給する役目を果たした後も、しっかりと胃袋に収まってくれる“エコの鑑”のような存在なのである。
続いてサザエのエスカルゴバター。このサザエも浜坂で獲れたもの。小型舟の多いこの港では漁獲が安定せず、一日で数匹しか獲れないという希少なものだ。バターやニンニク、エシャロット、レモン汁に隠し味のアンチョビソースを混ぜたエスカルゴバターの薫り高い味付けが印象的な一品。
3品目、沖キスのエスカベッシュは、浜坂か香住で獲れたキスのはらわたを抜き、唐揚げに。エスカベッシュとは“酢でつけたもの”という意味だが、ワインなどと一緒に炊いて仕上げたもの。これにより酢の酸味は減って食べやすくなるが、ワインビネガーを加えることで味を引き立て、また調えてもいる。
最後に、猪肉の肉を赤ワイン煮。これは、猟師の井口さんに分けてもらったというもので、ワインで煮ることで独特の臭みを消している。棒茗荷、村岡産の筍、マイクロトマトが添えられる。
スープはモサエビのヴィスキースタイル。浜坂で揚がったエビを皮ごと一匹丸ごとつかった調理法で、塩と胡椒のみのシンプルな味付けが美味で、素材の旨みそのものをしっかりと味わうことができる。野菜と一緒に、舌平目などの魚をつぶしたブイヨンが味に深みを、また、まろやかさももたらしている。
魚料理にはガシラのプロヴァンス風。ガシラとは金目鯛、カサゴのことで、こごみやゼンマイ、ユキノシタなど地元で採れた春の山菜、浜坂の蛤、ムール貝の一種・クログチ、ニンニクなど色鮮やかな食材をふんだんに用い、にぎやかな印象の一皿。オリーブの実や、水でコトコト煮て臭みを消したニンニクの半球が香りを加える。魚は毎日、シェフ自らが浜坂まで赴き、目利きをして仕入れるという。鮮度にこだわるのはもちろんのこと、「舌の肥えたお客さんをゴマかすようなことはできない」という植野シェフの実直な姿勢が感じられる。
肉料理は但馬牛のヒレステーキ。村岡ファームで購入したという葉タマネギとサツマイモと菊菜が添えられる。神戸牛、松阪牛、飛騨牛、近江牛などいまや全国に多く聞かれるご当地ブランド牛だが、実はここ但馬の黒毛和牛が元祖。細かいサシが入り、皮下脂肪が少なく、赤い身ながら食べると柔らかい。ナイフの通りもよく、噛めば噛むほど旨みがある。この地域を代表する名産品には、これもまた、日本の山葵の発祥でもある、この地域で採れた山葵が和風ソースと相性よく絡み、さっぱりとした香りが肉の味をよく引き立てている。
たっぷりと食事を楽しんだ後に出されるデザート、甘いものは別腹ということで、これまた盛りだくさん。100%手づくりのブルーベリームース、フルーツの盛り合わせ、抹茶アイスという見た目にも華やかな品々が山の夕餉を締めくくる。フルーツの盛り合わせには、苺の「甘王」、パイン、焼バナナが並ぶ。
朝食も同じレストランでいただく。天気がよければ庭のテラスでいただくことも可能だ。朝食は洋食で、ミルク、オレンジジュース、という4種類のドリンクで始める。野菜も冷製サラダか温野菜かを選ぶことができ、また卵料理もオムレツ、スクランブルド、サニーサイドアップなどから選んで注文することができる。パンは同じく有馬の「パン・ド・ボゥ」から仕入れたもので、手作りのニンジンジャムやエキストラヴァージンオイルなどをつけていただく。さらにヨーグルトやフルーツの盛り合わせが添えられる。朝も夕食と同様、ここに流れるのんびりとした時間を楽しみながら、食事をいただきたい。
海のもの、山のもの、バランスよく盛り込まれた上記食事だが、用いられている食材へのこだわりは、新鮮さ、産地の近さだけに留まらない。“温泉”という“地球の恵み”を、世に活かす御所坊グループでは、地球環境に無関心ではいられないのも当然のようだ。この旧美方町に「農業法人
グリーンパパ」を立ち上げ、完全無農薬の有機野菜の栽培に取り組むなどの活動を促進している。この農業法人をリードするのが、長年旧美方町のまちづくりに関わって来た“カクさん”こと田渕覚男さん。彼が近隣農家の方々をまとめ、有馬温泉の発展と旧美方町のまちづくりに貢献する、縁の下の力持ち的な役割を果たしている。また農業以外では、上記棚田やツリーハウスの造成などにも手を貸しているというのだから、この宿を語る上で外すことのできない存在なのである。
その活動は実に入念で、ひとくちに有機栽培といっても、数々の試行錯誤の結果が実を結んでいるのだ。17年にわたり取り組んでいるという合鴨農法がそのよい例であろう。“合鴨農法”とはその名のとおり、合鴨を田んぼに放し飼いにして作物を育てる水稲作のこと。鴨が自然に除草・除虫をしてくれ、またその糞が肥料となる。さらには水田を泳ぎ回ることで耕地が攪拌され根を刺激し、栄養分が浸透しやすくなるというものだ。人手と費用が省け、もちろん農薬を使用することもなく作物が育つ。もともと豊岡で保護されているコウノトリの餌を作るために利用されてきたこの農法だが、その有用性が試行錯誤の末、御所坊グループでの食事に実用化されているのである。(なお、この合鴨は稲の収穫後、お客の胃袋に収まるというエコの鑑といえる存在なのである。)
それにあたり、この特殊な農法を実現するためには、田んぼづくりから始める必要があった。田に引く水も湧き水を使用し、野犬対策のために畦を高くし、電気柵を設けるなどの工夫が施されている。肥料にもこだわりがある。天ぷら油などの廃油をエネルギーに走る有馬名物の送迎ロンドンタクシーは宿泊客の目にも触れる有名なところだが、さらにはその活動の一環として、有馬温泉の関連施設で発生する生ゴミを処理機で砕き、旧美方町の農園に運び、飼育されている但馬牛の牛糞と混ぜる。これで非常に良質の有機肥料となり、グリーンパパの農地(2004年3月現在耕作面積は5.5ヘクタール)の肥料に充当しているのである。
この肥料はもちろん、水田だけではなく野菜の耕作にも用いられている。成分分析をした結果、農作に最も適した状態に調整して田畑に還元されているので、キャベツなど気候環境に影響を受けやすい農作物の出荷にも成功しているのである。完全無農薬で栽培しているため、虫害や野生の動物による被害はみられるものの、それでも完全手作業で育てるというこだわりは貫いている。
この一連の取り組みはなにも、近年のエコブームに乗じただけのものではない。食品の安全性が問われる昨今、お客に食事を提供する店と、食事の材料を提供する農家とが一緒に食材をつくることで、日ごろ隔絶されているつくり手とお客との距離を近づけよう、こういう考えに基づいたものなのである。これによりお客のニーズが的確に生産者に伝わり、同時に生産者の思いや苦労もお客に(それとなく)伝わり、お互いの顔が見られる距離感において、安心していただける食材を提供できるということなのだ。この一つの宿単体で完結せず、町ぐるみで取り組むスケールの大きさは、やはり有馬温泉の街全体の盛り上げに精を出すオーナー、金井氏ならではの発想ということができそうだ。
彼が、同じ兵庫県といえども、有馬からだいぶ離れたこの地で宿を運営することは、勇気のいる決断だったものと推測する。しかし、この宿を訪れてみてわかった。彼は、この環境、この風景に惚れこんだのだろう。日本人が忘れていた、田舎の原風景がそこにあったのだ。それでいて、中庭にはウッドテラスや青々とした芝生を配するなど、ヨーロッパの田舎のような明るい、牧歌的な雰囲気漂うところは、やはり彼のエスプリの結晶というべきか。
都会の日々の仕事に疲れた大人たちが羽を伸ばし、童心に返り、癒しを得る空間がここにはある。愛くるしい動物たちも、ここではスタッフの一員だ。グレードの高い料理と、使い勝手が良く、センスのいい客室。誰もが別荘代わりに使いたくなるような施設とも言えよう。
可能であれば、この宿には連泊していただきたい。時間がゆったりと流れるのを感じられるはずだ。日本という国もすてたもんじゃない。こんないいところが、こんな田舎にあるんだ――そう思わず感じるお宿であった。(J/eb)