温泉観光地として全国にその名が知られている有馬温泉は、神戸市の中心からわずか30分程の距離にある。開湯が神代と伝えられているこの温泉は古来より数多くの文献で紹介されている。また、これら文献の数々からは、舒明天皇、孝徳天皇、柿本人麻呂、小野小町、在原業平、三代将軍足利義満、豊臣秀吉、千利休、徳川秀忠、伊能忠敬、福沢諭吉、伊藤博文、新渡戸稲造、蒋介石、斉藤茂吉、谷崎潤一郎、吉川英司、モナコ王妃(グレース・ケリー)・・・など、日本史を勉強した経験がある人ならば必ず名前を聞いたことのあるだろう、その時代その時代を彩ったキラ星のような人物が訪れていることも分かる。
近代的な建造物が林立しながらも、古くからの伝統ある街並みとの調和が見事に図られた現在の有馬温泉街。見どころである観光スポットが温泉街に点在しているためか、至る所でそぞろ歩きをする観光客に出くわす。手にはお土産を持ち、食べ歩きをしながら温泉街をブラブラできるのは、今も昔も変わらない温泉街の姿なのだろう。
そんな温泉街の一角にあるのが「ホテル花小宿」と「旅湯アブリーゴ」。共に、創業1191年で有馬温泉の有名旅館として知られる「陶泉 御所坊」の別館である。
バリアフリーに対応し、玄関前にはスロープ、玄関内には昇降機が配され、一階は車椅子のまま移動ができる「ホテル花小宿」は行基の創建と伝えられる温泉寺参道に面した場所に平成11年4月、オープンした。もともとは、別の経営者が旅館として営業していた木造の古い建物で、施設面も時代にそぐわないため、売るか貸すかしたい、という話を聞いた「陶泉 御所坊」15代目主人金井啓修(ひろのぶ)氏は、是非自分に貸してほしいと頼む。建物を借りた彼は、かつて有馬にあった「外国人専用のホテルを再現させる」ことをコンセプトに改装し、「建物は和風で、客室はベッド」という宿を再現した。ちなみに、「小宿」という名前には歴史がある。かつて有馬温泉にあった位の高い人が泊まる12の坊には、お付きの者を泊めるワンランク下の小宿が付いていた。そんな歴史も踏まえて誕生したのが「ホテル花小宿」である。料金的に「陶泉 御所坊」に宿泊できない方向けのお宿とも言えるだろう。だが、ホテル形式にしたとはいえ、元々は昭和初期から綿々と受け継がれてきた和風建築。我慢しなければならない点もある。冷蔵庫がない客室は、別段広々しているわけではない。しかし、木の温もりと異国情緒溢れる空間が融合したモダンな雰囲気は、意匠の巧みさを感じさせてくれる。
一方、「旅湯アブリーゴ」のオープンは平成13年。公共の外湯「金の湯」の正面に位置するビルの3〜5階が「旅湯アブリーゴ」である。もともとは酒販店がビルを建て、1階に酒屋、2階にフランス料理のテナント、3〜5階をオーナーが住居として使用していたビル。競売に出たそのビルを有馬温泉のせんべい屋が買い取り、テナントをやらないかと持ちかけてきたのだ。住居として使用していた3〜5階を改装し、リビング、キッチン、ベッドルームなどをまるごと貸すコンドミニアム形式として誕生したのが「旅湯アブリーゴ」である。
残念ながら「旅湯アブリーゴ」には温泉が付いていない。だが、公共の外湯「金の湯」が向かい側にあるので、不便さを感じることはあまりないだろう。また、「ホテル花小宿」「旅湯アブリーゴ」共に、「陶泉 御所坊」の貸切風呂「湯屋松風」や大浴場「金郷泉」も15:00〜20:00まで利用可能となっている。
加えて、「湯屋松風」の正面には「Aromatherapy B&I(アロマテラピー・ビーアイ)」もある。「ホテル花小宿」「旅湯アブリーゴ」宿泊者は、割引料金で施術してもらえるので、立ち寄ってみるのも良いだろう。
「ホテル花小宿」の客室は5タイプで9室。ここでタイプ別に紹介したい。
「花小宿」で一番人気の部屋が、スイートルーム「古金欄(こきんらん)」。窓からの景色も良く、開放感あふれる間取りがその人気の秘密だそうだ。テレビデオが備えられた8畳の和室、ソファーとテーブル、42インチのTVが置かれた板間、ツインベッドのベッドルーム、さらにウォークインクロゼットも配されている。バスなしトイレ付の部屋だ。
エキストラベッドを入れることで、3人での宿泊も可能となる少し広めの洋室の、「木樋(あけび)」。シングルベッドとセミダブルベッドが置かれた板間、椅子とテーブルが備えられた縁側でゆったりと過ごしたい。バスなしトイレ付の部屋だ。
「花小宿」一階の「櫟(いちい)」は、バリアフリーに対応した部屋。車椅子のままベッドサイドにまでいけるように、ベッドが置かれている和室の半分は板間となっている。もちろん全ての戸は引き戸に、そして段差もない。部屋の正面がバリアフリー対応の貸切風呂「蔦葉子(つたばす)」なのも嬉しい。バスなしトイレ付の部屋だ。
あえて畳の上にベッドを配し、和と洋を融合させた「木槿(むくげ)」。6畳の和室と縁側からなる間取り構成だ。バスなしトイレ付。
ツインベッドとソファーが置かれたフローリングの洋室が「沙羅(さら)」だ。和風建築の中の洋室は、異国感を漂わせている。間取りはその洋室と縁側からなる。バスなしトイレ付。
一方、「温泉地に別荘を持った気分に浸れる」と評判の「旅湯 アブリーゴ」。リビング、キッチン、ベッドルームなどが配された5LDKをまるごと貸すコンドミニアム形式なので、小さな子供がいる家族連れや長逗留したい作家、騒がれてしまう有名人などから特に重宝されている。3ドアの冷蔵庫や調理器具一式、10人分の食器も用意されている。
「ホテル花小宿」は泊食分離のスタイルを取り入れているので、食事なしでも宿泊可能である点も魅力のひとつ。一方、食事付きを選択した場合には、一階に設けられた食事処「料膳 旬重」でいただくことになる。カウンター越しに料理人の動きを感じながらいただく食事は、また格別だ。また、自社農場で作られる有機野菜やコシヒカリ、地元明石で水揚げされた魚介類を用い、地産地消の精神に則って作られる食事は、旬の素材を十二分に堪能できると評判になっている。
一方、コンドミニアム形式の「旅湯アブリーゴ」では、自炊するか外食をするかは自由である。
では、取材時(2008年2月)の夕食の紹介をしよう。
箸付けは、伊豆沖で獲れた鮟鱇肝塩蒸し白菜巻き、紅白大根、人参甘酢漬けを、割ポン酢と紅葉卸しでシンプルにいただく。素材の味を活かした優しい味付けが印象的だった。
八寸は、チンゲン菜と蟹の菜の花をイメージした菜種玉子との和え物、イクラと鮭・大根・胡瓜・人参の梅肉和え、大豆の五目煮、節分を連想させる鬼面海老塩焼き、胡麻と木の芽がトッピングされた白魚寿司、鯖味噌漬、霜付き菜の花合鴨巻き、螺貝燻製、「鬼に金棒」の意を込めた金棒牛蒡のあられ揚げ、のし梅のゼリー寄せが並んだ。
椀替りには、鯛の炭焼き、蕪、水菜、針人参、露生姜に蟹の餡掛けが掛けられている。それぞれの素材の味が活かされた一品だ。
お造りは、基本的には当日明石で水揚げされた鮮魚が並ぶ。取材日のあしらえは、サザエ、平貝、平目、鯛、ウニ(根室産)、アロエ、ヨーロッパ原産のラディッシュ科に属す赤大根。オススメの食し方は、素材の味をより引き立たせる「モンゴル岩塩」をお好みでつけて。ちなみにモンゴル自治区の標高3000mの場所にある塩湖で生産されているこの岩塩は、従来の塩とは違い、苦味(マグネシウム)が少なく甘み(カルシウム)が多いという代物である。
国産黒毛和牛の焼物は、わさびや大根おろし、水を使わずに育て糖度の高い黒豆から作った黒豆の味噌和え、上記のモンゴル岩塩から、好みで用いて食したい。
煮物は、丹波や但馬で収穫される冬野菜(自然薯、大根、人参、牛蒡、蒟蒻、黄金タモギ茸(北海道産)、シエラ茸(信州産)、日本三大葱の一つに数えられる岩津葱)がふんだんに入った鳥鍋。ガラスープで出汁が取られた塩味ベースの鍋は、好みで粉山椒をかけていただく。
油物に出されたのは、今が旬の公魚、蕗のとう、タラの芽、舞茸の天麩羅。揚げたてのホクホクした食感がたまらない。天出汁で食すのも良いが、モンゴル岩塩もオススメの食べ方だ。
酢の物のメインは北海道産の焼帆立貝。雲子の塩焼き、白菜のような食感の大阪シロ菜、占地の鱈子和えが土佐酢で和えられている。一緒に盛り付けられた柚子酢味噌の香りと爽やかな味が、より食欲をそそった。
留椀には、香美町で有機栽培で作られたコシヒカリの釜炊きご飯、滑茸と薄揚げが具材の自家製味噌と麦味噌を合わせて仕立てた味噌汁、キャベツの塩漬け、赤カブの甘酢漬け、胡瓜をオカラ床で漬けた臭みのまったくない漬物か並んだ。
果物は、黒豆ムース、二郎苺、伊予柑にチャービルが添えられた一品。甘みと酸味の統制がバランス良く取られており、食後は非常に爽やかな余韻が残った。
朝食は「自慢のご飯がおいしく、かつ沢山食べてもらうこと」がコンセプト。そのため、おかずの量が少なめなのが、「花小宿」の朝食の特徴である。浜坂で揚がった若狭ガレイの一夜干し、生野菜、作ることが難しい黒豆豆腐、野沢菜、大根の甘酢漬け、昆布の山椒煮、蜂蜜入りの紀州南高梅、ちりめん入り大根おろし、温泉玉子が並んだ。
ちなみに、「ホテル花小宿」特製の美味しいご飯と素材の味を引き立たせるモンゴル岩塩を使用したおにぎりが、神戸電鉄「有馬温泉」駅横の、「有馬湯山口」で販売されている。帰る際にはお弁当代わりに購入することをおすすめしたい。
残念ながら、「ホテル花小宿」にも「旅湯アブリーゴ」にもお土産を買える売店は併設されていない。しかし、この二つの宿は有馬の温泉街のほぼ中心に位置しているので、散策がてらお土産を買うのも良いだろう。
「旅湯アブリーゴ」の1階にあるおもちゃ「ALIMALI(アリマリ)」では、隣のビルの「有馬玩具博物館」で展示されている玩具のメーカーから品物を集め、販売している。その「有馬玩具博物館」は、3階は「ブリキのおもちゃと鉄道模型」、4階は「現代のからくり/オートマタ」、5階は「現代のおもちゃ」、6階は「ドイツの伝統的なおもちゃ」と、階層ごとに展示されている玩具は異なる。その種類の豊富さと貴重な展示品の数々は、専門家からも素晴らしいという声が寄せられているので、是非立ち寄ってほしい。
「金の湯」を左手に、「旅湯アブリーゴ」を背にして先に進むと、ギャラリー「レティーロ・デ・オーロ」がある。ここでは、「御所坊や花小宿の備品や定番の雑貨を始め、御所坊館内の漢詩調の文字をデザインし、また館内のいたるところに多くの影響を与えている「無法庵 綿貫宏介」氏の作品も取り扱っている。二階のロフトでは定期的に作家の作品の展示や販売も行っている。
その隣にあるのが、御所坊の先々代の主人の家をリニューアルした情緒ある建物が印象的な「カフェ・ド・坊」。17年前のオープン以来、美味しいコーヒーとケーキを提供してくれると地元の方、観光客問わず評判のカフェだ。おすすめのスイーツは、写真の「丹波黒豆タルト(\735)」と「丹波黒豆プリン(\420)」の二品。お土産品にもできるので、気に入ったら購入したい。
そのほかにも、有馬温泉観光案内所のそば、小さな商店が立ち並ぶ長屋の一角にある、新鮮な素材を極上のすり身に練りこんだ天ぷらを店頭で揚げているお店「有馬市」や、神戸電鉄「有馬温泉」駅のとなりに位置する、お土産品はもちろん、おにぎりをはじめとする食べ物の販売や、喫茶コーナーもある「有馬湯山口」など、訪れてほしい店は数多い。ちなみに、今紹介した店や施設は、全て金井氏の手によるもの。有馬の温泉街を活性化させ続けるアイデアマンでもあるからこそ、これだけ多くのことを手がけられたのだ。
「ホテル花小宿」は、いわゆるオンボロ旅館を全面改装して、コンセプトもゼロから考え出し再生させた典型的な宿。誰も見向きもしない古い建物を金井氏は生まれ変わらせた。
彼は有馬によくある鉄筋の高層旅館などまったく興味がないのだろう。宿つくりよりも有馬の街つくりをライフワークにしている彼は、やはり古きものに対する愛情が他の旅館経営者より深いのかもしれない。
街つくりの基本はやはり、建物の美観。その街に一番似合うものを考えて「ホテル花小宿」は造られた。
「アブリーゴ」は貸別荘。温泉宿で夕食朝食をいただく1泊2食スタイルではなく、できるだけ広い部屋で有馬の街を我が町のように生活していただこうとの考えも見える。中で自炊もできるが、有馬には美味しいお店がたくさんありますよ・・・とのメッセージも含まれている。
「陶泉 御所坊」を旗艦に有馬温泉の中に、さまざまな温泉地での逗留スタイルを提案する金井氏の次なる手は何なのか、非常に興味をそそる。
宿泊と食事を別途に考えて予約する、いわゆる泊食分離を推し進めていくことは間違いなさそうだが、この「ホテル花小宿」「旅湯アブリーゴ」もその典型的な施設といえるだろう。(J/NS)