鬼怒川温泉といえば、足利銀行の破綻から産業再生機構による支援を受けている老舗温泉旅館(ホテル)が多いところではあるが、その影響をまったく受けず、繁盛旅館として君臨している宿がある。
その宿の名は「花の宿 松や」という。堅実経営を旨とした現社長の手腕はもちろん見逃せないが、フロントランナーとして常に客に相対する名物女将の存在が、この宿のキャラクターを作り上げてきた。この2人の二人三脚によって「花の宿 松や」は生き残ったのだ。
女将は臼井静枝さんという。常に着物を身に着け、時間がある限りチェックイン時には、ほとんど毎日のように客に挨拶をする。夕食時にもそうだ。そんな女将でも部屋食の客の場合には顔をださない。プライバシーを守りたい客との線引きは常に考えているのだろう。
こんな女将さんは、昔は多くいたようだ。ところが時代が変わって団体旅行から個人旅行中心にシフトしてきたこの時代には、このようなスタイルは少し古臭く感じる方もいるだろう。しかしながら、この宿を訪れるリピーター客のほとんどが女将目当てという事実もここにはある。
女将は館内を常に目配りして歩く。すれ違いざまに常連客に会うとまた話がはずむ。驚いたのは私が取材をやっと終えた夜11時頃、大浴場に向かおうとしたら昼間と同じ着物姿の女将に廊下で会った。「まだお仕事は終らないのですか?」と聞くと、「まだこれから事務所に戻ってお客様に礼状を書くんですよ。」と言う。え?たしか女将は朝早くからチェックアウトの客にも挨拶をしているはず。いったいいつ寝てるんだと驚きを感じたが、「私は4時間も寝れば大丈夫なのよ。」と平気でおっしゃる。失礼ながらもうお年もそんなに若くはないはず。しかしながら、常に客と接することが何よりも楽しみで、何よりも生きがいなのだろうか。そんな女将を見ていると正直羨ましくも感じた。こんなに心底自分の仕事が好きな方を久々にお会いしたような感じがして・・・。
あ、しまった。女将さんの話ばかりでお宿の紹介はほとんどしていなかった。(これはインターネットサイトだから原稿の文字数も決まっていないので関係がないのだが・・・。)
「花の宿 まつや」のテーマは、竹久夢二。館内には所狭しと夢二の絵が飾られたうえに、エレベータの扉も夢二だったのも驚かされた。だからこそ、女将の世界というべき、大正ロマンと抒情たっぷりの世界を作り上げている。
女将の夢二マニア(?)ぶりは本格的で、同じ温泉町に「日光 竹久夢二美術館」をも誕生させている。
もちろん、温泉宿の主役、大浴場もいい。露天風呂からは四季折々の風景を愛でながら、鬼怒川の渓流のせせらぎを聴きながらの湯浴みはまさに極上のひとときだ。
さらにご家族やカップルで利用できる貸切露天風呂も用意されている。
その他、ラウンジ、カラオケボックスなど必要な施設はだいたい揃っている。
客室は、最近ではやはり露天風呂付きの客室が人気だ。4室しかないので予約を取るのは難しいかもしれないが。
料理も評判がいい。部屋食か食事処でいただくか選択できるのもいい。京風仕立ての懐石料理で、特に湯葉が絶品。そして栃木の山の幸を中心に舌鼓をうつ。
多くの温泉宿を泊まり歩いている方はお気づきだと思うが、最近、相田みつを氏の書を飾る宿が多い。
宿のオーナーが相田みつをファンだからこその現象ではあるが、この「花の宿 松や」にもご多分に漏れず、相田氏の書がひっそりと飾られている。しかし本当はひっそりどころか、近くにある同旅館経営の日帰り温泉施設付きの料亭「花茶寮」の中に「相田みつを心の美術館」をオープンさせている。
実は、今は亡くなった相田みつを氏が晩年常宿にしていたのがここ「松や」だったのだ。
数年前、全館満室の際に相田氏が予約もせずにフラッとこの宿に寄ったことから端を発する。その頃はまだ現在ほど有名とは言えない時代だったので、本人とは分からず(本人と分かっても満室だったわけだが)丁重に女将がお断りしたそうだが・・・。しばらくするとその日夕方遅くにまた訪ねてきたという。すると偶然にキャンセルの客が出て、相田氏を迎え入れられることができた。その時は平日で近くの旅館があればなんとか入れたはずなのに、再びまた「松や」に来てくれたという縁を女将は感謝した。
女将はその方が相田みつを氏ということは後でわかったことらしいが、それがきっかけで相田氏は「松や」を気に入り時間があればこの宿をひんぱんに利用するようになった。
そんな中で相田氏が世に出るようになってから、たまに秘書的な事もお手伝いするようになった関係で、世に出ていない幻の相田氏の書も彼女は所有しているらしい。
「夢二さんみたいに館内にたくさん先生(相田氏)の書を飾ったら、天国に行って怒られるかもしれないから」と言って、女将は笑った。世に数百万人いるという相田みつをファンにとっては、ぜひ見てみたい気もするが、まだそれには時間がかかりそうだ。
印象的だったのが女将の言葉−「私はあの世に行っても、また主人と結婚して、また松やの女将をやるの。それが私の夢なの。」いつまでも現世で「花の宿 松や」の女将さんを続けて欲しいと思わずにいられない。(J)