関東の奥座敷として親しまれている伊香保温泉。この温泉は古来から名湯として知られていて、開湯の歴史は深い。遡ること1400年前の二ッ岳の噴火の時に、温泉が湧き出したといわれるが、1900年前という説もある。しかし、南北朝時代の書物には温泉が湧き出ているという記述があり、当時は今の湯元付近の沢筋に湧き出る源泉の近くに数軒の温泉小屋がある湯治場だったという。
小さな湯治場が発展したのは、皮肉にも戦(いくさ)だ。室町時代以降戦乱の世になだれ込み、この一帯を治めることとなった長尾景春が病人・怪我人のための施設を湯元に造った。さらに戦乱が進み、「長篠の戦」の後、武田勝頼が傷を負った武士たちを治療するために真田氏に命じてより広い施設を建設させた。そして天正4年(1576年)に山の斜面に湯を引いて温泉街を設立させたのだ。これが現在の石段街の原型である。
この時、山の頂上より湧き出る温泉を伊香保神社の下まで湯を引くために考案されたのが、木製の導管で湯を引き一定の湯量を十数軒の宿に配分するという伊香保独自の分湯システムだ。木製の桶に底に空間が空くように板をはめ込み、その空間の大小で通る湯の量を加減調整する画期的なシステムは、「小間口制度」と呼ばれ、今もこのシステムは受け継がれている。
また、江戸時代になると庶民の旅が盛んになり、伊香保温泉は「子宝の湯」「婦人の湯」と呼ばれ遊興と保養の地として栄えるようになる。滝沢馬琴や十返舎一九など多くの文人墨客も訪れるようになり、明治に入ってからも変わらず人気を集めた。政財界の要人や皇族、文人などが避暑地として利用するようになり、ご用邸が開設され、ハワイ公使の別荘ができ、温泉両用のできる避暑地として知られるようになる。そして徳冨蘆花の著書「不如帰」の舞台となったことで、一躍全国区に。
その後も田山花袋、竹久夢二、島崎藤村、若山牧水、与謝野晶子、林芙美子、萩原朔太郎、横山利一など作家や詩人が多く訪れ、伊香保は栄えて現在に至る。
良質な温泉、豊かな自然、情緒と歴史溢れる街並み。伊香保はまさに観光財産に恵まれた土地である。県道33号線をそれて、やや急な坂を下っていくと、和風旅館が建ち並ぶ伊香保の街の中ではちょっと異彩を放つ建物が見えてくる。ヨーロッパのプチホテルのような佇まいの「洋風旅館ぴのん」だ。
玄関を入ると正面がフロントになっていて、右手がレストラン「夢味亭」の入口、左手がロビーとなっている。ロビーはゆったりしたソファと英国製のアンティーク家具で統一された落ち着いた空間が演出されている。まずはソファで一息付き、「ぴのんバック」を受け取ろう。これは本館「ホテル松本楼」の施設を利用する際の通行手形的な役割を果たしているので、そちらを利用する際は常に携帯する必要がある。
というのも、「ぴのん」には大浴場及び貸切風呂が無い。それらは本館「松本楼」の施設を利用するシステムになっているため、このようなバックが宿泊客に手渡されるのだ。本館「松本楼」には「大黒の湯」と「吉祥の湯」の2つ。「大黒の湯」には「ハーブ露天風呂」が、「吉祥の湯」には展望露天風呂がそれぞれ併設されている。こちらの大浴場は時間による男女入れ替え制をとっているので、両方の湯舟を楽しむことができる。
また、大浴場だけでなく、カラオケラウンジ、エステサロン、整体マッサージ、夜食処「鉄仙亭」などの施設も自由に利用できる。現金を持ち歩かなくても、ルームナンバーの確認とサインで利用できるのも嬉しい。
「ぴのん」のパブリック施設はというと、レストラン「夢味亭」と普段はオープンテラスになっているウエディングスペース、ロビーラウンジというシンプルなスタイル。レストラン「夢味亭」は、朝夕の食事だけでなく、ランチやティータイムもあり、チェックイン前、チェックアウト後などでそれぞれを利用するというのも、「ぴのん」の楽しみ方の一つだ。ウエディングは3ヶ月前までの予約で利用が可能だ。
こちらの宿は基本的に禁煙になっているので、喫煙したい場合は1階の通路に設けられた喫煙スペースを利用することになる。
ロビー入口には女性はカラフル浴衣のレンタルと大正浪漫気分に浸れる袴のレンタル(ともに\300)のサービスがあるので、それらを吟味してから客室に向かうと良いだろう。プロのカメラマンに撮ってもらえる記念写真(\1,500)のサービスもあり、こちらを申し込むと人力車風自動車で石段街まで送ってくれる特典が付く。
「ぴのん」は3階建ての全14室。部屋のタイプは2つで、シングルルーム6室とツインルーム8室になる。部屋はどれもシンプルかつ機能的に設えられた洋室だ。全室にバス・トイレが付き、嫌煙家には嬉しい禁煙ルームが設けられている。
喫煙可能な部屋は4室で、「106」号室、「107」号室、「303」号室、「305」号室。滞在中はスタッフが部屋を訪れることがないので、気兼ねなく部屋での時間を満喫することができる。もちろんこちらからの要望には気持ちよく対応してくれるので、そこらへんはご心配なく。
また、1階客室の廊下には「ぴのん私設図書館」なる書棚コーナーがあり、自由に利用できるようになっている。
一通り部屋やパブリック施設を楽しんだら、次は料理を堪能しよう。
「ぴのん」の最大の特徴は、料理にあるといっても過言ではない。浴衣のままお箸でいただける創作フレンチが、「ぴのん」の夕食なのだが、味はもとより鮮やかで美しい盛り付けも素晴らしい。2008年5月取材時にいただいた料理は以下の通りである。
前菜はニンジンとブロッコリーとカニのドーム、お肉のテリーヌ、自家製鴨の薫製、地元野菜のマリネの4品にかりっと焼かれたフランスパンを添えて。色鮮やかなニンジンとブロッコリーのムースの下にはほぐしたカニの身が隠れていて、絶妙に絡み合う素材の旨味と甘味を堪能できる。野菜は地のものが使用され、地産地消のこだわりを感じさせる一皿だ。
魚料理は鯛の海老詰めパイ包み焼きとホタテのソーセージ仕立てに、濃厚でクリーミーなソースがかけられた一品。サクサクのパイ生地とプリッとした海老の食感が濃厚なソースに良く合い、非常に美味しい。
口直しには、梅酒のグラニテが登場。グラニテとは簡単にいうとシャーベットのような氷菓子のこと。サッパリと爽やかな味わいと氷の冷たさが口の中をきれいに洗ってくれ、次の料理への準備を整えてくれる。
メイン料理は、群馬の一皿と題された肉料理。上州もち豚のステーキ、牛タンパン粉焼き、赤城鶏トマト煮の3種類の肉が並ぶ。面白いのが、メインの皿と一緒にご飯とお味噌汁、香の物が出されるところだ。ご飯は平皿ではなくお茶碗に盛られ、スープではなく赤だしの味噌汁、そして香の物。日本人であることを実感させてくれる、嬉しいサービスだ。メインにこのセットを付けるという発案は若女将によるもの。気取らず寛ぎながら食事を楽しめるように、また「おかわり」と気軽に声を掛けられるようにとの、女性ならではの気配りから生まれたサービスだ。
食事のラストを飾るデザートにはラベンダーのブラマンジェ、季節のシャーベット、フルーツのタンバルにコーヒーか紅茶が付く。メインで和のなごみを味わってから、再びフレンチの華やかな世界に引き戻してくれる、彩りも鮮やかな一品だ。
朝食は和食と洋食を選べるシステム。和食は上州名物のおっ切り込み鍋、鮭の西京漬け、大根サラダ、刺身こんにゃく、温泉玉子。イカ納豆にご飯と一夜漬け。
洋食はふわふわのオムレツにベーコン、サラダ、ヨーグルト、オレンジジュース、クロワッサンとトースト、コーヒーだった。ちなみに洋食の飲み物はコーヒーか紅茶の選択が可。
食事を堪能して一息ついたら、食後のお散歩がてら本館の大浴場に行くのもいいだろう。食事前に利用していたとしても、何度も浸かりたくなるのが温泉だ。
前述にもある通り、「ホテル松本楼」の大浴場は2つ。本館2階の「大黒の湯」と8階の「吉祥の湯」だ。
「大黒の湯」には内湯と露天風呂があり、内湯は2種類の温泉を湛えた湯舟を備えている。1つは「こがねの湯」は、万葉の時代より湧き出る茶褐色の湯で、泉質はカルシウム・ナトリウム-硫酸塩・炭酸水素塩・塩化物温泉。やけど、切り傷、貧血、慢性皮膚病、リウマチ、婦人病、動脈硬化と効能は折り紙付きだ。その上質な湯を源泉100%掛け流しで堪能できるのだから、なんとも贅沢。
もう1つの湯は「しろがねの湯」。こちらはメタケイ酸含有泉で、平成から湧出したさらりと湯当たりが優しい無色透明の湯だ。面白いことに湯舟の底には純金の小判が埋められている。これは、昔伊香保温泉の麓を佐渡から江戸へと黄金を運ぶ金街道が通っていて、運び手たちは伊香保温泉でひとときの休息を得ていたという話にちなんでほどこされたものだ。
露天風呂は「しろがねの湯」に四季折々の天然ハーブ(薬草)を入れた風呂。すがすがしい香りと豊かな薬効で、体の芯まで暖まることのできる湯だ。湯舟上部に備えられたパイプに入っているバラは、前橋力丸町にある角田バラ園のバラを使用している。
「吉祥の湯」も同様、「こがねの湯」と「しろがねの湯」が楽しめる内湯と、同じく2つの露天風呂がある。やはりこちらは露天風呂で目の前に広がる大パノラマを眺めながらの湯浴みがオススメだ。正面には子持山をはじめ雄大な山々の連なりと伊香保の街を見渡すことができる。「ぴのん」の外観も見えるので、探してみるのも面白いだろう。
たっぷりと湯を堪能した後は、女性はエステルームでリラックス、なんていう楽しみ方もある。30種類の精油をブレンドしたトリートメントオイルを使用する、アロマテラピートリートメントを体験できるエステルームは各種コースが設定されているので、エステティシャンに相談しながら自分に合ったコースをチョイスして心身共に癒されるといいだろう。
男性は8階で受けられる整体マッサージがオススメだ。東洋式の足つぼマッサージや全身の疲れを徹底的に癒すフルコースなど、各種コースが設定されている。
宿を後にする前に、ぜひ立ち寄りたいのが、「ぴのん」のロビーにある「めるへん屋」だ。こちらは県内アーティストのこだわりの作品を展示している。トンボ玉を使ったアクセサリーやシルバーの小物などこだわりの作品が多く並ぶ。もちろん全ての作品は購入できるので、旅の思い出にお気に入りのグッズを探してみるといいだろう。
本館「ホテル松本楼」の土産ショップ「めもり屋」もお忘れなく。地元の特産品を中心に食料品が豊富に揃っている。もちろん雑貨や民芸品もあるので、お気に入りのお土産を探してみよう。
「洋風旅館ぴのん」は、本館「ホテル松本楼」の女将・松本和子さんの娘である、由起さんが英国留学の経験を生かし実現した、いわば夢の結晶である。
旅館の娘として生まれた由起さんは、いずれは宿を継ぐことを漠然と思い描きながらも、何かそこに足りないものを感じていたという。そこで単身、足りないものを探すためイギリスへ旅立ったのだ。とはいえ、最初は語学を勉強することがメインで、特に宿を立ち上げるための何かを探し求めていたわけではなかったという。しかし、語学教室の担当講師が元ホテルのマネージャーだったことがきっかけで、そちらのホテルを紹介してもらい働くこととなった。このホテルでの2年間が、後の「ぴのん」に繋がったのだ。
帰国して、まず彼女が考えたのは、伊香保にはない新しい宿を創ることだった。「伊香保に足りない施設」そして「自分の泊まりたい旅館」とは何かを模索したとき、「ぴのん」のコンセプトが閃いたという。
まず名前は「松本楼」の子供が創る旅館なのだから「松ぼっくり」がいいと考え、スペイン語で「松ぼっくり」という単語「ぴのん」に決定。そして施設は自分の生まれ育った旅館のイメージと、イギリスで経験した居心地の良いホテルライフ、さらに曾祖父母が経営していた大正時代の洋食屋のイメージを考え、「洋風旅館」というスタイルに行き着く。「リーズナブル」「料理が美味しい」「和のくつろぎと洋の機能性」。この3本を柱に「洋風旅館ぴのん」は誕生したのだ。
由起さんのこだわりは随所に見られる。チェックインの際、食べ物アレルギーや好みの有無を確認して対応したり、朝食を和食と洋食の選択制にしたりと細やかなサービス、1人で旅を楽しみたい方も泊まれるようにシングルルームも備え、旅館ならではの寛ぎ感を出したいと夕食は浴衣のまま箸でいただける創作フレンチ懐石というスタイルを採用するなど、徹底的に宿泊客の立場になってサービスを考えているのだ。また、部屋での時間を存分に堪能してもらおうと、敢えて宿泊中は一切部屋を訪れない接客などは、まさにホテルのそれだ。しかし、宿泊客とのふれあいも大事にしている。朝食は若女将自ら配膳し、積極的に会話を持つように心掛けているのだ。
また、由起さんは、伊香保の活性化にも力を入れている。もっと多くの人に伊香保の魅力を知ってほしい、さらに新しい魅力を創りたいという考えの元、由起さん含め旅館や物産店の若女将4人で「伊香保おかめ堂本舗」という会社を立ち上げたのだ。
具体的な活動は、伊香保温泉オリジナル商品の開発・販売や、ガイドブックに載っている情報だけではなく伊香保に住んでいる人間にしかわからないような生活目線からの伊香保の魅力を発信しようと栞サイズのミニガイドを発行するなど、とにかく伊香保の魅力創りの為ならジャンルにこだわらずいろんなことにチャレンジしようというスタイルで精力的に活動している。
ちなみにオリジナル商品として、伊香保の2種類の源泉、「こがねの湯」を練りこんだ「黄金ツルスベ石鹸」と「しろがねの湯」を練りこんだ「白銀モチプル石鹸」(ともに100g\840)を開発し、現在好評発売中だ。こちらの商品は、もちろん「ぴのん」で購入できるので、ぜひチェックしてみてほしい。
この宿の魅力は、若女将の由起さん自身のキャラクターに由来する。女性ならではの
発想とアイディアでゲストを寛がせる。
本格的なフレンチのディナーの料理には、フランスパンなどを合わせるのが”普通”なのだが、それではお腹が満足しないことを見越して、ご飯と赤だし、そしてお新香と同じテーブルに置いてしまうことなど、オーベルジュを気取った男性オーナーなど、絶対にしないだろう。
でも、由起さんは、そんなことはお構いなし。お客様が満足してくれれば、それでいい。それに、この宿は背伸びして来てもらう宿ではない・・・との割り切り方が、なんとも潔い。
それでも、ご飯の後のデザートは、これまた本格的な仏料理店でいただくようなデコ
レーションでやってくる。締めはフレンチだったんだと再認識させるように・・・。
同業者の旅館関係者はこう言った。「ぴのんマジック」と。
言い得て妙である。
お世辞にも客室は立派だとは言えない。しかし、客室稼働率は伊香保温泉の中でも群
を抜く。
単純に、宿泊料金に対して実際に泊まってみての満足度が高いということだろう。
しかも、ふだん着で行ける気安さもある。
考えてみて欲しい。東京である程度のお店でフレンチをコースでいただくなら、2万円以上は覚悟しなければならない。ところが「ぴのん」に行けば、1万円前後で、フ
レンチ+宿泊、それに伊香保の温泉も付いてくる。
取材時も、平日ながらほとんどの客室が埋まっていたが、様々なタイプの客層を見る
ことになった。
20代のカップル、60代のご夫婦はもちろん、50代、30代の女性の一人客もいた。そう
いえば男性一人もいた。
由起さんにお聞きすると、ほとんどがリピーター客だという。
この時代、リピーター客が多くいる宿は、間違いなく人気旅館。その光景をまざまざ
と見せられた取材であった。(J/Hr)