島根県の県都、松江市の西南約8キロメートル、三方を山に囲まれた玉造温泉には町の中心を玉湯川が流れ、その土手沿いに温泉旅館やめのう細工屋、土産屋、そして共同浴場などが軒を連ねる。大国主命(おおくにぬしのみこと)とともに国造りをした少彦名命(すくなびこなのみこと)が発見したとされ、“神の湯”として知られた古湯だ。
開湯は奈良時代、713年に編纂された「出雲風土記」に登場する。また清少納言の「枕草子」にも登場し、『湯はななくりの湯、有馬の湯、たまつくりの湯』と記述されているように、往時でも遠く京の都にまで聞こえていたことがわかる。歴史、規模ともに山陰を代表する温泉地である玉造には、現在はアクセスの良さも手伝い、四季を通じて県内外から大勢の観光客が訪れている。
玉造という名の由来は、この地にある花仙山で良質の青瑪瑙(めのう)が採掘できたために、人々が玉造りを生業としていたことによる。三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)によってこの地で造られたと言われている。温泉街の外れにある、国指定重要文化財ともなっている玉作湯神社には、彼を祀って多数の勾玉や管玉が社宝として保管されており、予約をすれば拝観できるようになっている。
温泉街の中心を流れる玉湯川の土手には桜の木々が並び、この温泉街の情緒を際立たせている。各宿の前に設けられている橋の欄干など、至る所に勾玉をモチーフにした装飾が施されているのも目に楽しい。やはり春先の開花シーズンには大変な混雑を見せ、浴衣を着た観光客が街を練り歩き、また川沿いに設けられた2箇所の足湯に浸かりながら花見をする様子がよく見られる。この桜並木は山陰本線の線路をまたぎ、宍道湖に沿って走る国道9号線まで延びている。日本全国でも桜並木を横切る線路は珍しいとのことで、この季節には多くのカメラマンたちがシャッターチャンスを狙うそうだ。
宿泊の予定がなくとも、「玉造温泉ゆ〜ゆ」という公衆浴場施設があり、大人1名600円(小人300円)で利用できる。これは島根県出身の建築家、高松伸氏の設計で、神話の地・出雲、そして玉造温泉にちなみ「玉」をテーマとしたダイナミックで斬新なデザインが特徴だ。館内には大浴場だけでなく、レストランや会議室も備える複合施設である。
「出雲大社」、「松江城」、「足立美術館」、「宍道湖」などの観光地にも近く、観光拠点として重宝されるこの玉造温泉だが、歓楽色は一切なく、歴史を重んじた落ち着きある大型の旅館が多い。江戸時代には松江藩藩主の静養地であったこの地には、湯之介(ゆのすけ)と呼ばれる温泉を管理する役職も設けられていた。これら大型旅館の多くはこの伝統を引き継いでおり、この街に漂う風格をもたらしているといえよう。
そんな中、同じく玉湯川沿いに建つ創業を明治末期にする老舗旅館、「湯元 玉井館」は木造3階建ての小さなお宿。昭和初期に建造されたというこの建物は、長い歴史を持つもののみが醸し出すことができる独特の重厚感や渋味がある。やはりこの“味わい”は、建物の大小に関わらず通りかかる者の心をひきつけるようだ。全8室という規模はこの温泉地では逆に珍しく、静かな滞在を好んでのお客の利用が多いという。
当然館内もコンパクトにまとまっており、玄関から入ると古きよき時代の温泉宿を体現したかのような空間がすぐに目に入る。ロビー左手には男女別の大浴場、階段を上って2・3階に客室が並ぶ。いずれも数寄屋造りの落ち着いた風情で、外観同様、木のやわらかな風合いが訪れる旅人の心を和ませる。やはり木造建築は日本人には一番馴染みが深いのだろう、多くのお客はここで落ち着きをおぼえるそうだ。
この玉造温泉のもうひとつの特徴として、各宿が源泉を所有しているということも挙げられる。上記「出雲風土記」にも、『ひとたび濯(すす)げば形容(かたち)端正(きらきら)しく再び浴(ゆあみ)すれば万(よろず)の病(やまい)悉(ことごとく)除(のぞ)こる』とある温泉が、この小さなお宿の庭園地下約30メートルから湧き出ている。この源泉は、大浴場や客室の露天風呂に注ぎ込まれており、神代より沸き出るお湯に身を浸し、その歴史や伝統を文字通り肌に感じることができるだろう。
大浴場「玉の湯」・「夢の湯」は男女別に分かれており、どちらも階段を下った半地下に湯舟がある。「夢の湯」には内湯だけでなく露天風呂も併設されており、異なる風情の湯浴みを一度に楽しめる。どの湯舟も大人5名が入れるほどで景色もほとんどないが、そういう環境だからこそお湯に集中することができるというもの。じっくりと浸かりたいところだ。
客室は大きく分けて3タイプ。温泉街に面したものと奥側に設けられたもの、そして離れとがある。広さや間取りはそれぞれ異なるものの、どこももちろん純和風。畳敷きの客間と床の間、部屋にもよるが窓際には広縁があり、窓の外の緑が織り成す四季折々の風情を室内にまでもたらす。派手さや華美さはなく、そしてもちろんモダンなデザインではないが、外観とマッチしたその意匠には誰しもが“懐かしい日本の旅館”を思い起こさずにはいられないだろう。
中でも特徴的なのが、離れの建物。玄関のある本館から、大浴場の入口前を抜けた奥に位置する。1階に「さつき」、2階に「月」とそれぞれの階に特別客室が設けられている。どちらも客室は広々としており、部屋の双方が外に面しているため窓から明るい光が室内にこぼれ落ちる。窓際は広縁になっており、館内に漂うゆったりとした空気と同調するかのような、外の風情も感じることができる。1階の「さつき」の庭園部分には、岩組みの露天風呂が設けられている。この湯舟は館内で最も広いもので、庭園の木々に包まれるようにして湯浴みを堪能でき、また好きなときに好きなだけ温泉を味わえるというのは最高の贅沢。雅な風情あるこの客室で、特別な時間を過ごしていただきたい。
木造の古い建築のため室内にいても、外を通る車の音や、廊下での足音や話し声が聞こえないわけではない。それでも、この街や宿の風情がそうさせるのか、泊まるお客がそれを好むせいか、夜になるとひっそりと静まり返るため、就寝の際に気を揉むことはなかった。
夕食は2名までの宿泊であれば部屋でいただく。3名以上の場合には1階、ロビーの奥にある食事会場「山里」で。朝はできるかぎりゆっくりして欲しいとの宿側の配慮から、布団上げもない。そのため朝食の際にはこちら会場でいただくことになる。
日本海に面し、また日本有数の水揚げをほこる境港や、松江港も近くにあるという立地から、当然のように日本海の幸を中心にした献立の夕食。もちろん季節の旬の食材を用いるため、この地方を代表する名産品、ノドグロは脂の乗る秋から冬にかけて卓に並ぶ。また宍道湖七珍(しっちん・・・スズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマサギ、シラウオ、コイ、シジミ)も楽しみにしていいだろう。取材時(2008年4月)のメニューはやはり春の味わい。以下に紹介する品々はいずれもこの宿の風情そのもの。必要以上な派手さや華美さはなく、そして長い歴史の中で育まれた日本料理を堪能できる。それぞれの食材に手間をかけ、丁寧に仕込んだ味わいが感じられた。
先付けには鯛の子。香りが高く、口の中でほろほろととろけるような感覚を楽しみたい。
前菜はあすっこの胡麻和え、目鯛のいわん焼き、亀の手はいずれもこの地の特産品だ。“あすっこ”とはビタミン菜とブロッコリーを掛け合わせた島根オリジナル野菜。ビタミンAを多く含有し、苦味がないため料理のバリエーションも広い。いわん焼とは酒とみりんで味付けがなされ、柚子で風味をました焼き物のこと。“亀の手”とは通称で、岩場に張り付いている貝の一種。見た目がそのようにも見えることからそう呼ばれている。お試しあれ!
お造りは鯛、サヨリ、真イカが並ぶ。いずれも日本海で獲れたもので、境港や松江港などから、その日の良いものを仕入れている。この季節(春先)ならば、他に鯵、ダルマ鯛なども旬。秋から冬にかけてよく出されるこの地を代表する魚介類、ノドグロも楽しみにしたい。
鍋物は山菜鍋。具材には竹の子、蕨、しめじ、えのき、しいたけという春を感じさせるものに加え、彩りで海老や貝柱も入れられている。これらの具材はあっさり味のカツオ出汁で、食卓で火にかけられる。
酢の物は白バイ貝。日本海でよくとれるバイ貝は、若干クセのある味わい。このクセを酢の味でまろやかに仕立てた一品だ。
蓋物として鰻おこわ蒸しが出された。赤飯に鰻を乗せて、これらを笹の葉でくるんだもの。蓋をあけると広がる笹の清々しい香りと、口に入れて広がる鰻のコク。
揚げ物には筍、蓮根、しいたけ、タラの芽、こごみという春野菜の天婦羅に加え、やわらかい歯ざわりが印象的な海老の唐揚げが出された。海老は皮をむき、塩をかるくつけていただく。
淡白な味わいの白身魚、旬の黒メバルを、しょう油とみりんでしっかりと味付けがされた煮つけ。味が素材にしっかりと浸透していながら、濃すぎず食べやすい。添えられた生姜が口をさっぱりとしてくれる。
菓子椀は出雲蕎麦。信州そばが白いといわれるのに対し、ここの名産、出雲そばはそば粉の色が黒いという違いがあるといわれる。椀に直接ダシをかけていただくのが流儀だ。
締めの御食事は島根産コシヒカリと、松江宍道湖名産の、蜆の入った清まし汁に、自家製おしんこが添えられる。旬の島根県産の苺と、オレンジが水菓子に出された。季節によっては、大社ぶどうや梨、柿など、島根県名産の果物が出されるそう。
食の宝庫、島根県ならではの多彩な素材は、朝食でも堪能できる。島根県仁多郡奥出雲町で獲れる仁多米(にたまい)は、西の横綱とも呼ばれているブランド米。朝食には釜で炊かれた仁多米がそのまま出され、まさに炊き立ての風合いをそのままいただくことができるのは嬉しい。その他にも、アジの開き、湯豆腐、しじみの味噌汁、切干大根、明太子など、ご飯との相性も良いおかずが並ぶ。
施設面でいうと、小さなお宿だけに用意されているものも少ない。旅に上質のお湯と季節の食材、そして静かな環境を望む方であればなんの不自由も感じることはないのだが、もし物足りなさを感じる方であれば、姉妹館である「玉井別館」を訪れてみていただきたい。
宿の目の前を流れる玉湯川を、宍道湖方面に500メートルほど下ると、「湯元 玉井館」とは趣を異にする大型旅館がある。ここはその名の通りの別館だが、規模的に全46室という大型の佇まいに加え、大小宴会場やカラオケ、ゲームコーナー、キッズルーム、売店という充実の施設が揃う。なかでも特徴的なのが、館内にいながら湯めぐりを楽しめる男女別の大浴場「五彩の湯(ごしきのゆ)」で、男女それぞれに庭を眺めながら温泉が堪能できる露天風呂をはじめ、檜風呂、ジェット風呂、ドライサウナとミストサウナという五種類の入浴設備がある。
さらに、玄関手前にあるのが「五彩の足湯」で、ここにも五種類の足湯、漢方処方の「薬師の湯」、この地の特産品、瑪瑙が湯舟底に敷き詰められた「めのうの湯」、ジャグジーのような「ぶくぶく湯」、夜になると浴槽内がライティングされる「美脚の湯」、そして奥の巨石の裏にある「隠れ湯」が設けられている。玉石が敷き詰められ足ツボを刺激する「健脚の小道」がそれぞれの足湯をつないでいるので、ここでしっかりと健康を体感していただきたい。(筆者の足には少し痛かった。)
「玉造温泉」は、少し距離があるが同じ県内にある「石見(いわみ)銀山」が世界遺産に登録されて、その観光拠点としても見直されているが、その歴史ある温泉街の街並みは多くの映画の舞台にもなった。最近では1994年に公開された「釣りバカ日誌スペシャル」(第7作)(監督:森崎東/脚本:山田洋次・関根俊夫/出演:西田敏行・三國連太郎・石田えり)や、2001年放送のNHKのスペシャルドラマ「聖徳太子」(出演:本木雅弘)などで、この「玉造温泉」でロケが行われた。
さて「湯元 玉井館」であるが、多くの大型旅館が建ち並ぶ玉造の温泉街にとって、この宿は昔ながらの温泉情緒を感じさせる宿だ。それはやはり木造建築の温かみがそうさせるのか、スタッフの心遣いがそうさせるのか、やはりここには小規模旅館独特の”優しさ”があるようだ。
建物は“古い”が、しかしながらよく手入れされていて、それが若い人たちにとっては、逆に新鮮味を感じることも多いだろう。また熟年の客には、懐かしさが十二分に伝わることだろう。
このような宿は貴重だ。できるだけ後世に伝えたい、残したい宿だ。日々の仕事に追われ、自分自身を見直す時間もないような生活を送っている人には、この宿は最適。つまりこの宿は「リセット型旅館」。源泉かけ流しの本物の温泉と木のぬくもりの建物に身を隠し、ゆったりとした時間を過ごせば、人は生まれ変わる。嬉しいことにこの宿は一人滞在も受けてくれる。基本的に1泊2食の宿泊プランだが、場合によっては夕食抜きでも応じてくれるそうだ。
予算が許すなら、やはり大事な人との旅行には、離れの「さつき」の間。雰囲気たっぷりの客室露天風呂は圧巻だ。家族旅行にもいいだろう。
この宿にひとつ注文を付けるなら、大浴場の使い方だ。たった8室なのだから、この2つの男女別の大浴場を時間制の貸切にすればと思う。実質、露天風呂付き離れの「さつき」にお泊りのお客は利用しないとして、満室の場合でも残り7室なのだから、充分に回転できるような気もするがどうだろうか。そして、残念なのが、経営者サイドがこの宿の潜在能力を過小評価しているように思えた事だ。今の時代、このような宿は充分に評価されるべきだと感じるのは私だけであろうか。
取材を終えて、撮影した画像を見ると、改めてこの宿の良さを思い出す。日本最古と言われる「玉造温泉」の本当の魅力を確かに感じさせる宿を見つけたような気がした。 (J/eb)