「さぎの湯温泉」は、背の低い山々の裾野に広がるのどかな田園風景の中、突如現れる温泉地。その歴史は古く、神亀年間(724〜729年)に湧出したといわれ、白鷺が脚の傷を癒したことが温泉名の起こりとされる。戦国時代、山陰11州を治めた尼子氏全盛のころには御殿湯として栄えたが、その後飯梨川の洪水によって泉脈を失った。再発見されたのは明治末期、1907年のこと。
ここは細長い島根県でも最東端、鳥取県との県境にある安来市。安来といえば有名なのが、“どじょう掬い”として知られる安来節で、この全国にお座敷芸として知られる郷土芸能はいまでも地元民の間で大切に受け継がれている。
出雲大社や2007年に世界遺産登録された石見(いわみ)銀山など、観光資源に事欠かない島根県でも、近年とみに注目を集めているのが、「さぎの湯温泉」に隣接する「足立美術館」である。ここは地元出身の実業家、足立全康が並外れた絵画収集の意欲をもって、私財を投じて昭和45年に開館した美術館で、横山大観や竹内栖凰、川合玉堂、富岡鉄舟、榊原紫峰、上村松園などによる近代名画を計1,300点以上も収蔵するという。特に、130点を数える横山大観のコレクションは全国の美術愛好家に知れ渡っており、常時20点ほどの展示が行われていることから来館客の好奇を刺激してやまない。
昭和63年には、安来出身の詩人であり陶芸家の河井寛次郎と、稀代の料理人であり陶芸家でもある北大路魯山人、この二大巨匠の作品を収蔵する「陶芸館」も設置され、美に接する機会とこの美術館の持つ魅力は、さらに奥行きを増したといえる。
ここが注目を集めるのは、展示品の秀逸のみにあるわけではなく、その庭園にも要因がある。背後の山を借景に、草花と荒々しい岩で表現した日本の幽玄の世界。5万坪の敷地に広がる枯山水、白砂青松庭、苔庭、池庭という6つに分けられた日本庭園の織り成す情景は、静かながら多彩で、春はサツキやツツジ、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季を通じて見る者を飽きさせない。
この庭園は米国の日本庭園専門誌「Journal of Japanese Gardening」(JOJG)における、名日本庭園ランキングで初回の2003年以来、5年連続で第1位に選ばれているという(2008年春現在)。評価の項目としては、古さや著名度、美しさだけでなく、機能性や年間を通じて訪れることができる点なども含まれるというが、このアクセスも決して良くはない地方の美術館が評価され続ける最大の要因とは、従業員一人一人が一体となってこの庭を維持管理しているという点だという。それほど多くの人間に愛されているということであり、地元の人々の間では誇りと呼べるものなのだろう。創業者の足立氏の生家があったこの地に、文字通り錦を飾る心意気。これは、「美しいものに感動する心」を多くの人々に伝えたいという熱意がそうさせたのだろう。
かねてよりその良質のお湯を求めて来る、湯治場としての成り立ちを持つ「さぎの湯温泉」だが、現在ではいつの間にか有名になった美術館を主な目的に来る観光客やビジネス客が、気軽に立ち寄ることができる温泉として人気を博している。昭和34年創業の旅館、「竹葉」は足立美術館の真隣、距離にして20メートル弱。「田舎の小さな宿だから味わえる、暖かな雰囲気作りを目指しています」というご主人の小幡浩三さんと女将の美香さんという若い2人が切り盛りする和風旅館だ。この好立地を活かして、昼間は食堂兼立ち寄り湯としても賑わいを見せる。
7つある客室はどれも畳敷きの和室。広さも4畳半から6畳と小ぢんまりとしているが、どの部屋にも板敷きの広縁が設けられているため、畳数よりも若干広く感じられる。客室は、築40年以上ということから施設の古さは否めなく、部屋の壁にも修繕の必要性のある箇所もいくつかある。だが、いずれも華美な飾りのない簡素な造りは、田舎の親戚の家に遊びに来たような感覚で、居心地はいい。全客室に洗面所はあるがトイレはなく、各階の廊下にある共同のものを利用することになる。
見せかけの贅を求める旅人には不向きなこのお宿だが、ここでは「健康」という、現代人が享受できる最高の贅沢を堪能できる。3つの浴場にかけ流しされる温泉は源泉からそのまま引いた無色透明のさらっとした肌ざわりの湯。源泉の温度も53℃で理想的で温度調節のための加水をしなくてもいいし、豊富な湯量も魅力で、しかも泉質がいわゆる「ラジウム泉」というのも希少価値が高い。男女別の大浴場にはそれぞれ内湯と露天風呂が併設されており、趣向の異なる湯浴みが一度に楽しめる。さらに、よりプライベートで温泉浴を楽しみたいという方には、貸切利用ができる内湯も設けられている。
内湯は檜の湯舟と、檜の枠が施されたタイル湯舟とがある。どちらも窓越しに露天風呂と庭園が望める。露天風呂はいずれも庭園に向けて開かれたもので、しっかりと手入れの施されたこの日本庭園は、お隣の足立美術館の庭園と比べても遜色ない・・・とは言いすぎかもしれないが、良質の源泉につかりながら眺める草木の緑は格別に美しく感じられることだろう。どれも大人5人が入っても余裕ある広さで、のんびりと旅の情緒に浸ることができる。
通常の入浴だけでなく、温泉療法医によるアドバイスも受けられるとあって、湯治目的の宿泊客も依然多いという。食事も懐石などいらず、温泉浴に集中したいという方に向けた「湯治・ビジネスプラン」が用意されているのも、この宿ならではの心遣いということができるだろう。その他にも日帰りから素泊まり、1泊朝食付きプラン、2食付プランまで多様なプランが、公式ホームページ上に用意されている。
料理はご主人と女将の手づくり。“田舎の小さな宿”と聞けば当然のようにそう期待するものだが、ここでは単なる田舎料理ではないのが特筆すべき点である。「健康」をキーワードに練られたメニューは、豊かで美しい自然環境の中で育まれた山陰の食材を用いた「竹葉」オリジナルの薬膳料理とマクロビオティック食。KIJ『クシマクロビオティックフードコーディネーター』資格を取得した女将自ら企画・調理したもので、「カラダの内外からキレイになっていただきたい」という想いがこめられている。特に薬膳料理は人気が高く、宿泊客の大多数はこれを注文するという。
マクロビオティック(マクロバイオティック、マクロビ)とは、日本古来の食事のように、玄米を主食、野菜や漬物や乾物などを副食とすることを基本とし、陰陽論を元に食材や調理法のバランスを考える食事法である。近年のロハスブームの中、マドンナやレオナルド・ディカプリオなどのハリウッドセレブやクリントン元大統領が実践していることから特に注目を集めているが、これは一過性の流行に留まらず、今後の食生活の中心となっていく予感すらあるものである。
そもそもの起こりは第二次世界大戦前後の日本、食文化研究家の桜沢如一が自ら考案した食生活法や食事療法で、弟子の久司道夫と共にアメリカなどで普及活動を繰り広げた。当時のアメリカではニューエイジ運動の真っ只中、ヒッピーの健康への関心と相まってカルト的人気を博したという。現在ではワシントンDCにある国営のスミソニアン博物館において、マクロビオティックに関する資料が医療の歴史の資料として永久保存されているほどである。
取材時(2008年3月)に出されたものは、7年前に始めて以来高い人気を誇る、この宿の名物ともなっている薬膳会席。以下、献立を紹介する。
食前酒は有機栽培のぶどう酒。カゴの中に入った前菜の小鉢、ひとつはアルギニン、ビタミンB1・B6、リノール酸が含まれ、アンチエイジング効果があるといわれる胡桃と、コラーゲンの生成によい菜の花の和え物。もうひとつはどじょうの甘露煮。どじょうすくいで知られるこの安来地方では、養殖も盛んに行われている。どじょうはカルシウム、コンドロイチンを含有しており、体内の水分量をコントロールする働きから美肌効果があるという。
小鉢の白子にはプロタミンを含み、免疫力の強化やアンチエイジング効果があるといわれる。
お造りには境港で挙がる沖エビ、ハマチ、だるまメダイ。エビに含まれているキチン・キトサンは低血圧、冷え症に効果があるそうだ。
鍋ものにはアンコウ鍋。動物の体中にもっとも多く含まれるタンパク質、コラーゲンを多く含む栄養価の高い食材。他にネギ、白菜、水菜、エノキなど地元で採れた有機野菜を使用している。
次に里芋を裏ごしして、中に鶏肉を入れたまんじゅう。添えられた紅花には血液浄化作用があり、眼病にも効くといわれている。身体の抵抗力を高めるため、花粉症にも効くという。
白身でありながら程よい脂があり、身も厚い赤ガレイは、山陰沖で獲れるこの地方では一般的なもの。酒と砂糖、醤油で30分間煮込み、しっかりとした味付けがなされている。
続いて出されたのは鮭の南蛮漬け。添えられた独活(うど)にはビタミンCを多く含み、動脈硬化や美肌、コラーゲンの生成を促す作用があるという。冷え症、食欲増進、補温、神経痛などに効果があるマンガンを含む茗荷(みょうが)の素揚げが添えられる。
揚げ物は食物繊維が豊富で、カルシウム、カロチン、鉄分、ビタミンB1・B2・Cも豊富なサツマイモと、滋養強壮に効く高麗人参の天ぷら。牡丹と高麗人参の産地で知られる、中海に浮かぶ大根島のものだ。
茶碗蒸しには銀杏、百合根、そして春雨が入っている。春雨を入れるのはこの地方独特の風習で、滑らかな口当たりを邪魔しない、つるりとした食感が美味しい。銀杏は生命力の強いイチョウの実であり、滋養の高い食品。たんぱく質、脂肪、ビタミンA・ビタミンB群・ビタミンC、鉄分などが含まれている。
ざっとこの日の献立を紹介しただけでも、これだけ多くの栄養価が、バランスよく含まれていることが分かる。たしかに盛り付けの華やかさや味付けの豪華さなど、「日本旅館」の提供する懐石料理と比べれば穏やかに感じられるだろう。しかしながら、すべては健康ありきの幸せな生活。この「季節の薬膳」を食べ、湯治向きのかけ流しの天然温泉に浸かることは健康への第一歩といえるだろうし、非常に注目度の高い温泉宿の利用方法とも言えるだろう。
朝食ももちろん栄養バランスに配慮した献立だ。地元農家が栽培したコシヒカリのご飯、宍道湖のしじみ汁、女将手作りの香の物、安来の豆腐店「角久」の湯豆腐、奥出雲のしいたけの煮物、春キャベツのゴマ和え、目玉焼き玉子、そしてカレイとノドグロ(アカムツ)という献立。どちらも干物名人がいるといわれる松江市の北、恵曇港のものだ。これらの食事をしっかりといただき、観光名所に事欠かない東島根地方を旅するのも良いだろう。
良質の温泉、のどかな田園風景、日本を代表する名庭と名画を有する美術館、これら日本人の心の琴線に触れる「良さ」とは、どれも“懐かしさ”に通底するものがある。この懐かしさを大事に、その良さを現代に引き出す努力とは、日本人が古来温めてきた、伝統を尊重する姿勢そのもの。自然の恵みを丸ごと頂くこと「一物全体(いちぶつぜんたい)」、暮らす土地の旬のものを食べること「身土不二(しんどふじ)」というマクロビオティック食事法の二大原則とはここから来ている。外来の食産業の影響で崩れてしまった日本の食文化、食生活の見直しにもこの心が表れていると言うことができるだろう。飽食の現代人がまず取るべき行動とは、自らの食生活の改善なのかもしれない。
取材をして感じたことだが、『夫唱婦随』という言葉があるが、オーナーの小幡夫妻
を見ていると、ある時は逆に『婦唱夫随』という場合もあるようだ(失礼!)。それほどに女将の美香さんは活力にあふれ、行動力がある。その容姿からよく雑誌などの「美人女将のいる宿特集」という企画に登場する彼女であるが、その写真から見られるイメージをはるかに凌駕するパワーを、実際に会えば感じるだろう。結婚前は銀行に勤めていたといい、女将業は手探りで学んできたという。ご主人の深い愛情と、「竹葉」という旅館のオープンさ、アットホームさがあって、彼女持ち前の魅力は最大限に発揮される結果となったのであろう。上述のマクロビフードコーディネーターの他にも、安来節どじょうすくい踊り初段の取得、英語および韓国語の習得、将来的には病院食の指導に携わりたいなどと、その活動は留まることがないようだ。
隣町の東出雲出身で、この地をこよなく愛する女将。自ら包丁を振るい、多くの潜在的な魅力のある宿を受け継いだご主人。そんな彼らが、豊富な食材に恵まれる地元のよさをアピールする、町おこし的なひとつの手段として活用しているマクロビオティックだが、その解説の言葉(熱弁)を聞けば、それだけでもその料理の味がわかってしまうほど。一切の手抜きをしない姿勢からは、きっと将来、日本旅館の食事の主流となっていくであろう、食への正しい取り組み方を感じさせるものがある。
食堂横にある土産物のチョイスにもその色は出ている。どじょうすくい携帯ストラップや安来節の練習ビデオなどといった一般的な郷土土産から、薬膳料理にも出される野生種の強い生命力を感じる古代米(紫黒米)や、女将の実家で生産された干し柿「百市の干し柿」など。この「百市柿」は島根県で唯一、日本橋の「千疋屋」に卸されているというもので、市価よりも手頃な価格で手に入れられることからも人気を呼んでいる。
晴れれば東方に、山陰を象徴する霊峰・大山(だいせん)が見えるこの地。足立美術館や出雲大社、松江市街や宍道(しんじ)湖だけでなく、「竹葉」の周辺には多くの観光名所がある。毛利氏と尼子氏の山陰覇権の舞台となった月山富田城は、天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていた。山陰唯一の総檜造りの木造多宝塔である三重塔がある清水寺は、後醍醐天皇が隠岐に島流しにされるときに立ち寄ったという。近所の『安来節演芸館』、『安来節屋』では本場のどじょうすくいの鑑賞・体験もできる。これらだけでもわかるように、歴史伝統好きにはたまらない魅力に満ちた地なのである。これらの観光の拠点としても、温泉浴を目的としても、食事のついでに立ち寄って入浴(¥500)しても、「竹葉」では、いつも変わらぬ温かさと元気さで客を迎え入れてくれることだろう。 (J/eb)