宍道湖の端、高台に築かれた松江城をシンボルとした松江は、運河が縦横無尽に伸びた水の都。周辺には奈良時代以前の史跡があり、古来街として開けた場所であった。本格的に整備が進んだのは江戸時代に入ってのことで、山陰の中心都市、松江城の城下町として繁栄を見せた。出雲大社のある出雲市や、足立美術館のある安来市と隣接するこの街は、塩見縄手の武家屋敷や、『怪談』や『骨董』などの著作で知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の旧居、水際に広がる独特の風情が人気を呼ぶ、観光都市としての一面も併せ持つ。2007年には開府400周年を迎えた歴史ある街だ。京都、金沢と並び、日本三大和菓子処としても知られている。
松江しんじ湖温泉は、1971年にボーリングして掘り当てた比較的新しい温泉地で、のどかな宍道湖の眺望を楽しめる地に8軒の旅館が並ぶ。その中で、一畑電鉄の「松江しんじ湖温泉駅」から見て最も奥に位置するのが「てんてん手毬」。繁華街の外れというロケーションから、宿と宍道湖の間には交通量の多い国道431号線が走るものの、この一画だけはなぜかのんびりとした雰囲気が漂う。この静かな異空間の中佇むお宿は、全17室とこぢんまり。女心をくすぐる可愛らしい演出が女性を魅了すると評判の、全国でも珍しいお宿だ。女性向けのこのお宿、男性が宿泊する際には、女性同伴でないといけない。
「てんてん手毬」という忘れがたい宿名は、2000年のリニューアル・再オープンの際、同名の童謡からつけられた。和紙手毬は城下町の松江に伝わる伝統工芸で、宿の随所にこの手毬をモチーフにした飾り付けがなされている。ほんのりと浮かぶ行灯を目印に、赤い暖簾をくぐり玄関に入ると、明るい畳敷きのロビーに迎え入れられる。玄関で靴を脱ぎ、ロビーに上がると、かすかに漂うお香が気分を落ち着かせてくれる。
ロビーでお抹茶をいただいたら、お好みの色柄の浴衣(男性は甚兵衛)、お香、そしてマニキュアを選んで、客室へと案内される。廊下にも畳が敷きつめられており、素足で味わう畳の感触が心地よい。
こぢんまりとした宿だけに、共有施設も少ない。客室以外には、1階にある男女別の大浴場と、2階の食事処とエステルーム、そして喫茶コーナーもあるロビーという館内構成。カラオケや宴会場などはなく、あくまで客室でくつろいでもらうというのがこの宿の姿勢だ。
大浴場は深夜に男女入れ替えがなされる。「みやびの湯」では3つの異なる趣向の浴槽を一度に楽しめる。浴室内の洗い場にも畳が敷かれた内湯の"お湯座敷"、古代檜に漆を何層にも塗った内湯と、打たせ湯もある、岩組みが荒々しい印象の露天風呂という3つ。チェックインの16:00〜23:00までは女湯、翌6:00〜9:00は男湯となっている。
「あおいの湯」は内湯と露天風呂が隣り合った浴室。こちらの内湯の洗い場にも、一面に畳が敷かれている。舟の形をした檜露天風呂の大きさは大人1名が入れるほどだが、庭の中という佇まい、蔦の絡まる壁を目前にした気持ちのよい空間だ。この露天風呂は、この町のシンボルでもある松江城を取り囲む、堀川を巡る遊覧船をイメージしたものだという。こちらは逆に、チェックインの16:00〜23:00までは男湯、翌6:00〜9:00は女湯となっている。
客室は露天風呂付き客室が4室。温泉を使った豪華な内風呂付きの客室が2室。その他、一般客室も入れて合計17室の構成となっている。一部屋、103号室の「姫百合」を除く全室が宍道湖に面しており、特に3階の3室と2階の7室からは、その伸びやかな眺望を堪能することができるだろう。1階の7室中6室にある客室露天風呂は個性的なものばかりだが、特に目を引くのは101号室「桔梗」の“あんみつ露天風呂”と106号室「水仙」の手毬露天風呂。どちらもその遊び心ある可愛いデザインが評判となっている。
基本的に畳が敷かれた和室と、窓際の広縁というシンプルな室内だが、103号室「姫百合」と107号室「清湖」、108号室「小波」の3室がベッドの置かれたエスニック調の和洋室。106号室「水仙」は琉球畳の敷かれたモダン和室となっている。また和室の213号室「入舟」と303号室「夕映」の広縁にはマッサージチェアが置かれているなど、部屋によって異なる趣向を楽しめるのも嬉しい。どこの部屋にも手毬をあしらった調度品が置かれ、女性の心をくすぐる仕掛けは細かなところにまで行き届いている。
食事は全て食事処、「野点宴席」でいただく。この部屋にももちろん畳が敷かれており、その上に若干低めのテーブル席が規則正しく並べられている。特徴的なのは各テーブルに掲げられた赤い番傘。まるで時代劇のワンシーンにいるかのような感覚を楽しめる。
夕食は見た目にも可愛らしく、宿全体の雰囲気とぴったり。女性の口でもひとくちにいただけるように考えられて作られた会席料理で、和食の繊細さはそのままに、洋食の親しみやすさを取り入れたメニュー。やはり女性に好評だが、酒を飲みながらいただく趣向のものではないかもしれない。また、男性には若干少なく感じられることもあるようだ。
取材時(2008年4月)の献立は季節を感じさせる手毬会席、以下に紹介する。
前菜は春の彩り6点盛りが、煌びやかなお盆に載せられて登場。菜の花のクレープ巻き酢味噌かけ、フレンチドレッシングをかけた蛤のマリネ、ソミュール液につけこんで作られた本格的なサンマのスモーク、宍道湖七珍、・アマサギの甘露煮、腹に黄味をあしらい子持ちエビをイメージしたエビ、イカと筍の木の芽和え、甘い味付けが印象的な桜豆腐。添えられた切子ガラスにはアロエジュースという品々だ。添えられた桜花が季節感を醸し出す。
造里は旬の日本海の魚介、ダルマ鯛、バイ貝、甘エビ、カンパチを使用した鮮魚四種盛り。色鮮やかな彩りが目を引く。
次に登場するのは、なんとオルゴール。開けると童謡“てんてん手毬”のメロディーが流れ、二色手毬寿司が入れられている。高菜とイクラ、湯葉とキャビアのふたつに茗荷が添えられている。味はもちろんのこと、目にも耳にも楽しい。
続く台の物として、島根和牛の温泉蒸し。濃い脂が特長の島根和牛だが、こうしてセイロ蒸しにすることで独特のアクは飛ばされ、その最大の特徴であるやわらかさと旨味を生かした調理法。一緒に蒸されるエノキや水菜の青臭さが絶妙。
蒸し物は、チーズと生ハムで洋風に仕立てた茶碗蒸し。甘い味付けだがしつこくなく、デザート気分でお口直しできる。
丸い手毬のような容れ物の蓋ものは、手毬饅頭お桜餡がけ。百合根をつぶしてまんじゅうに仕立て上げ、銀餡をかけ、桜塩漬け、アラレをちりばめたもの。器もそうだが、中の具も手毬のようだ。
ここでちょっと趣向を変えて、洋皿にスズキとキノコのソテーが出される。上に載せられたものは、野菜シートのフライ。クリームマスタードソースが、スズキのさっぱりとした味とからみあう。炒められたシメジの甘みが味に厚みをもたらしていた。
締めのご飯に出されたのは、この地の郷土料理でもある鯛茶漬け。しつこくない味葉食事の締めにもぴったりだ。季節によって豆ご飯や炊き込みご飯が出される。
お腹が満たされたところで、漆の重箱が出される。蓋を開けると、煙がモクモクと・・・玉手箱のような演出で提供されるデザートは、苺のチョコレートソース掛けとオレンジムースがドライアイスの煙の底から出てくる。
もうひとつのデザート、ぜんざいは、ご当地出雲が発祥のもの。和と洋、両方の甘味を味わえるのが好評で、また甘すぎない味付けも、食後の口をさっぱりとしてくれる。
エステも充実している。活性酸素を取り除くイオンリンパドレナージュは、日本エステティシャン協会会員の宮川典子さんによる施術が好評で、これを目当てに来館するお客もいるほど。彼女の施術によってリンパの働きがよりスムーズになり、疲労による体液の酸化がリフレッシュされる。若々しく美しいボディーラインを作り出すことを目的にしており、身体の中の毒素を排除し安眠や自律神経の安定につながるのだ。血行促進、細胞活性、美肌、むくみ解消など多くの効果が期待できる。営業時間は20:00〜24:00。受付は21:00までとなっているので、早めの予約をオススメしたい。
コースは大きく分けて3つ。上記イオンリンパドレナージュと、チョコレートセラピー、トルマリンフェイシャルが用意されている。時間と好みにあわせて堪能しよう。
さらに2007年春に「ロハックス」という岩盤浴ならぬ「溶岩浴サロン」が宿の近くにオープンした。溶岩浴は岩盤浴以上に遠赤外線放射率が高いと言われ、そのためより大量の汗をかくことができるという。宿に宿泊することにより割引プランもあるので是非体感していただきたい。この施設には他にエステサロンと「お酢のカフェ」という珍しい、そしてヘルシーなカフェも併設している。
お土産も大充実だ。当然のように手毬は販売されており、大小それぞれ色とりどりの品が賑やかに並んでいる(大:¥1,365/中:¥840/小:¥680、和紙手毬:¥1,050)。その他にも、かわいい柄のエコバッグ(¥840)、肌触りの良いボディータオル(¥630)や手ぬぐい(¥735)など、持ち帰りも楽な小物類が多く揃っている。客室で焚いたお香(¥525)や、夕食にも登場したオルゴール(¥4,700)など、旅の思い出となる品々も人気だ。
このお土産コーナーの中にまぎれて飾られているのが、女優・仲間由紀恵のサイン入り色紙。フジテレビ系列で、2007年7月に放送された単発のテレビドラマ「島根の弁護士」のロケの際、この「てんてん手毬」に同年4月中旬から約1ヶ月間にわたり宿泊したという。他のスタッフや共演者は近くの大型ホテルや旅館に滞在していたというが、やはりこのこぢんまりとした感じとプライベート感あるつくりを気に入って選んだということ。
首都圏など大都市圏にお住まいの方であれば、島根県と聞くと立地的に「遠いかな」と思う方も多いかもしれない。だが松江近郊には、出雲と米子、2つの空港があり、JAL便の発着する出雲空港まで1日、東京羽田から5往復、大阪伊丹から8往復、福岡から2往復。ANA便発着の米子空港までは1日、東京羽田から5往復、名古屋から2往復就航されている。
このように各大都市からのアプローチも多く、米庭園誌『Journal of Japanese Garden (JOJG)』上で、2003年から5年連続で「日本庭園ランキング1位」に選ばれている足立美術館(2008年春現在)、2007年に世界遺産登録されたばかりの石見銀山など観光資源も多いのがこのエリアだ。
特に、毎年10月(神無月、この地では神“有”月)に日本全国の神様が集結するという出雲大社へは、“良縁”を祈ってか常に多くの参詣者がいる。忘れられた日本古来の良さが今に生きる“島の根っこ”、島根県。潜在する多くの魅力を再発見する旅は、アクセスの良さも光る松江を基点に始めるといいかもしれない。
巷には“大人の隠れ家”と称した小さなお宿が急増している。付かず離れず、適度な距離感を持ったスタッフと、上品な料理を提供するプライベート重視の宿構成。オプションでエステやマッサージを利用して、肌がつるつるに・・・人気を呼ぶ要素としてはこの宿も同様だが、他のお宿と一線を画するところとしては、あくまで女性主導であるというところ。男性が女性をエスコートする場としてのお宿が大多数を占める中、女性本位で宿づくりをすすめ、“大人の女性の隠れ宿”というポジションを確立した。女性の発揮する情報収集力であり、一般的に言われる家庭内での権限などに着目したわけである。これは、昭和43年生まれとまだ若い神田裕幸社長の先見の明が実を結んだということであろう。現在ではその手腕を買われ、ひとつの宿の運営のみならず、県における観光業界の運営方針にも関わっている。現在、より松江市と一体化した宿づくりの構想を練っているとのこと。
2000年のリニューアル当初はやはり、もの珍しさも手伝って大きな注目を集めた。それは、露天風呂付き客室や、全館畳敷きなど、ハード面において話題性のあるものをいち早く導入したという要因がひとつ。大きな旅館ではなく、全17室という小さな旅館だからこそできる様々なこと、例えば、客層を女性に絞り、女性に受け入れられるためのサービスに磨きをかけるという、ほとんど前例のなかった、ソフト面における事例を実践した事がひとつ。
そして、低価格料金の団体旅行向けだった宿を、180度違った、プレミアム宿に変身して成功させたわけだから、多くの旅館の業界人がこの宿に注目をするのは理解できる。
当然その余波も大きなもので、廊下や浴室にまで敷かれた畳や、カラー浴衣のレンタルなど、現在他の多くの旅館でも取り入れられているポピュラーな事柄は、このお宿が元祖、もしくは先駆けになったといっても過言ではない。
それだけにやはり、当初から見込んでいた女性客の間での評判は芳しく、予約がすぐ埋まってしまうこともあって、“いつか行きたい憧れの宿” として認知されてきた。そうして8年を経た今、宿の打ち出すポリシーはしっかりとスタッフに、そして泊まりに来るお客にも浸透した様子で、安定した人気を誇っていることがうかがえる。その証拠として、女性一人での宿泊も多いということが挙げられるだろう。取材時にも女性のひとり客は見られたのだが、こうやって女性ひとりでも安心して羽を伸ばせるところというのは、意外にも少ないのである。
旅館とは長時間に渡ってくつろぐことができるという、ハイダウェイにはうってつけの場だ。松江という都市の外れにある「松江しんじ湖温泉」は、目の前に広がる雄大な宍道湖と抜ける風が心地よい。京都、金沢と並び、「三大和菓子どころ」と呼ばれる松江市内や近郊の観光にも非常に便利な立地にある。宿のスタッフに聞くと、ここにはキャリア系の女性がよくリピーターとして訪れるそうだ。情報に聡い彼女たちの選ぶ目は確かなもの。自分たちがしっかりと寛げる場所をよく知っているのだ。これからも、気軽に日常の喧騒から離れられるところとして、女性客の需要はますます高まっていくだろう。
以上様々な事柄を述べてきたが、忘れてはならないのは働くスタッフの方々である。旅館でありながら、ホテルのような絶妙な接客サービスを提供してくれる彼らが支柱となって、このプライバシー重視で隠れ宿的な雰囲気を持つ「てんてん手毬」の、ハード面とソフト面の絶妙なバランスを描き出しているのである。この宿の繁盛は、当然といえば当然かもしれない。(J/eb)