東名高速道路沼津ICより車で30分という軽快なアクセスも魅力的な、静岡県伊豆の国市にある伊豆長岡温泉。温泉街の中心にある源氏山を境に、以前は西側の長岡地区と東側の古奈地区に分けられていた温泉を総称して伊豆長岡温泉と呼ばれるようになったのはまだ最近の話である。長岡地区の開湯は明治時代だが、古奈地区は鎌倉時代に書かれた歴史書「吾妻鏡」にその名が登場し、源頼朝も入湯した伝統ある温泉地。開湯時期は今から1300年程前とも伝えられている。
「楽山やすだ」の前身である「楽山荘安田家」がこの地に誕生したのは、昭和35年のこと。先祖代々700年もの長い間、受け継がれ、守られてきた土地に建てられたというのだから驚く。5年前にリニューアルされ「楽山やすだ」と宿名を変えるまでは、山に向かって客室があり眺望もあまり期待のできない、どちらかといえば団体客向けの旅館だったそうだ。このリニューアルの際、伊豆長岡の夜景が見渡せるように客室を改造すると同時に、全館を畳敷きにしたのだそうだ。それが現在の「楽山やすだ」の姿である。
旅館のスタッフより先に、玄関横で可愛らしい二匹のマガモがお出迎えをしてくれる。仲睦まじく行動をともにしているこの二匹は、ひよこから育てられたという。あまりの可愛らしさに思わず見惚れてしまうが、それを振り払うように旅館に足を踏み入れる。すると眼前に広がるのは玄関以外が畳敷きのロビー。館内は、浴場と水周り以外はほぼ畳敷きというから驚く。靴を脱いでチェックインしたら、スリッパも履かずにそのまま客室へ向かおう。素足のまま歩けることもそうだが、日本人の愛する畳がこれほどまでに広がっているのは爽快そのものだ。
それぞれが趣向に富んだ客室が34室あるが、大きく分けると5タイプに分けることができる。ここでタイプ別に客室を紹介していきたいと思う。
Sタイプの客室は「風十四」と「楽十八」の2室。間取りは和室+広縁と極めてシンプルであるが、注目すべき点は、畳敷きの部屋に設けられた露天風呂(楽山風呂)。大人が二人で浸かってもゆったりくつろげる畳敷きの檜風呂が配されている。
Aタイプの客室は「楽十九」、「山十九」、「風十二」、「風二十二」の4室。間取りに関してはSタイプの客室と同仕様だが、畳敷きの露天風呂(楽山風呂)の大きさが少しだけ小さい。それでも大人二人が一緒に入るには十分な大きさだ。
Bタイプの客室は「山十八」、「風二十三」、「風二十四」の3室。間取りは上記した2タイプとこのタイプは同様だ。客室に付く露天風呂(楽山風呂)が畳敷きでなくなり、湯舟のもゆったり浸かりたい場合には大人一人がちょうど良さそうなサイズとなっている。
Cタイプの客室は4室あり、「楽十三」、「楽十四」、「楽十五」の3室は琉球畳が用いられた洋室、「光六」はCタイプ唯一の和室。それぞれに露天風呂(楽山風呂)が付いている。その中でも「楽十五」のお風呂は、源泉100%で温泉を堪能することも可能なジャグジー風呂。また、この客室がCタイプで一番人気があるそうだ。
残りの21室はスタンダートタイプの客室で、洋室と和室がそれぞれある。また、子連れファミリーが泊まることができるのは、このスタンダートタイプの客室のみとされている。
「楽山やすだ」には、男女入れ替え制の大浴場が2つ、露天風呂が1つある。5階にあるのが、落ち着いた色調と照明が心地よい大浴場「花琳」と、外に設置された円形の檜の湯舟を用いた露天風呂(野天風呂)「花かげ」だ。女性は15:00〜1:30、男性は2:00〜10:00の間、利用可能だ。また、6階には壁一面の窓から緑の景色が一望できる大浴場「展望」がある。「花琳」、「花かげ」とは逆に、こちらの大浴場は、男性は15:00〜1:30、女性は2:00〜10:00の間、湯浴みを楽しむことができる。
「楽山やすだ」の温泉は、弱アルカリ性単純温泉。優しく肌に染み入ってゆくお湯は、長い時間をかけじっくり堪能していただきたい。
湯浴みを楽しんだ後は夕食の時間。ここで取材時(2008年3月)の夕食をご紹介しよう。
夕食は3階にある「ダイニング楽山」でいただくことになっている。ワインセラーが配されたお洒落な食事処には、個室が16室ある。また、大人数やファミリーで宿泊した際は、隣の「料亭美女さくら」でいただくことも可能だ。
今回いただいたのは、スタンダートプランの夕食。駿河湾の海の幸がふんだんに盛り込まれている。
食前酒の梅酒と、先付の目光の南蛮漬。食前酒は、イチゴやしそなど季節に応じてオリジナルのお酒を造り、提供してくれる。
先付には、駿河湾のトロール漁で獲れた目光の頭と尾を取り、二度揚げした後に南蛮漬けにした一品。
前菜には、生のするめいかを麹と唐辛子で漬け込んだいか三升漬、甘辛い味わいの海老のつや煮、鴨・鳥・魚のすり身を棒状に伸して焼き上げた鴨ロール、エシャロットが並んだ。いか三升漬はお酒のあてにも最適な味だった。また、オリジナルのお土産品として売店で販売されている人気商品でもある。
お造りは、鯵の姿造り、間八、鮪、わらで少し炙られた鰆、鯛が山葵の葉のあしらいとともに豪華な舟盛として登場した。駿河湾の海の幸を用いているので新鮮でおいしいのは当たり前だが、視覚からも楽しめるように一工夫された盛り付けが嬉しい。
次にいただいたのは、別途料金が掛かるものの、予約時に伊勢海老や伊豆牛など食材の選択が可能な台の物。スタンダートプランでは、帆立、豚肉、エリンギ、ボイルされた生いか、サザエ、新竹の子を豪快に目の前で焼き上げていく一品。
温物は、海老桜蒸しカニ餡。海老を芯に用いた、桜の葉のみじん切りにした由利根団子にカニ餡が掛けられていた。優しい味が印象的だった。
煮物には、メバルの煮付けが登場。料理長自らが沼津まで買い付けに行き、その日に揚がった良い魚を煮付けにしているのだそうだ。取材日はメバルだったが、一尾丸ごと煮付けにされて出てきた時、改めて“伊豆といえば魚”ということを認識させてくれた料理だった。
中皿は一風変わった鮪グラタン。塩コショウで下味が付けられ、小麦粉をまぶした後バターで焼かれた鮪は、意外にもホワイトソースとよく合う。
飯物は静岡名産の桜海老がふんだんに入った桜海老釜飯。それに合う赤出汁の味噌汁と蕪、刻みたくあんなどの香の物が並んだ。桜海老の甘味がご飯にしっかりと染み込んでいて、とてもおいしかった
。
水菓子には、伊豆で最盛期を迎えた苺を用いた苺ムースが出された。苺のシーズンでない時期には、戸田名物の塩アイスが水菓子にでるそうだ。
前夜に深酒をしたとしてもしっかり食べられるように考えられた朝食。山形産の黒米のおかゆ(白米に変更可能)、玉子焼き、いかの塩辛、天城名産のわさび漬け、あじの干物、湯豆腐、サラダ、パイナップルが並んだ。中でも注目したいのは湯豆腐。国産の大豆と天然のにがりを用いて作られたこだわりの豆腐は、炭酸水のお湯にくぐらせることで表面が滑らかになり、よりおいしくいただけた。
食事の後は、5階の大浴場「花琳」向かいにある「セラピーセンター月煌(げっこう)」を訪れたい。リフレクソロジーから各種トリートメントまで幅広く施術してもらえることで、評判となっている。それらのエステやマッサージには、オプションで岩盤浴(30分/\1,800)やパック(20分/\2,000)を付けることもできる。実はこの他に、ジェット水流で体の新陳代謝を促進させる効果がある「バンジェバス」というものがある。ドイツ製のこのバスは全国に4台しかない貴重な機械なのだが、現在は故障中で利用することができないのが残念だった。
チェックアウト前には、ロビーにある売店に足を運ぶことをお忘れなく。ここでは、食事の際にメニューに盛り込まれていた「いかの三升漬(\750)」や「いかの塩辛(\750)」が一番人気のお土産品。その他にも、伊豆の銘菓や民芸作家の作ったポーチやかばん、「セラピーセンター月煌」で使用するアロマなど数多くの品物が取り揃えられている。また、伊豆名物の干物は各種注文することができるだけでなく、全国配送にも応じてくれる。
様々な宿泊プランが提示されているのも「楽山やすだ」の特長のひとつ。首都圏から程遠くない距離を最大限に活用した「日帰り夕食ステイ(\9,000〜)」は特に人気が高いプランだ。15:00にチェックインし、貸切露天風呂を堪能。布団(オプション/\1,575)を敷いて一眠りしたあと、夕食をいただいて21:00にチェックアウトするこのプランは、日々仕事に追われている人が束の間の休息をとる際に最適だろう。また、Cタイプの露天風呂付き客室が1泊朝食付きで\10,500というB&Bスタイルのプランも、温泉街をゆっくり観てまわれると好評だ。
「楽山やすだ」の社長兼女将の安田昌代さんは、現在、伊豆の国市の観光協会長を兼任し、多忙な毎日を過ごしている。そのため、実質的に旅館を運営しているのは、専務取締役の安田剛氏である。常に笑顔を絶やさず、冗談を言うのも大好きな専務は昭和49年生まれとまだ若いが、パイプを触っただけでボイラーの機嫌やその耐久年数が分かるという神業的特技をもっている。旅館で生まれ育ったいわば旅館業のサラブレッドだ。
専務が旅館運運営に携わるようになったのは、リニューアルが行われた平成15年の事。「チェックインからチェックアウトまでの間、宿泊客を色々なことで驚かせたい」というコンセプトのもと、まずはじめに五感に刺激を与える空間づくりに着手したという。全館畳敷きの館内や、夕食で出される炭火のあぶり焼きは、専務が暖めていたアイデアをこの時具現化させたのだそうだ。すると、各種雑誌でその独自性が取り上げられるようになり、宿泊客で賑わう様になった。首都圏からも程近い土地だからか、いわゆるセレブと呼ばれる方を相手にすることが多かったという。旅館のオーナーとしては鼻が高くなる思いだったが、方向性の違いを感じることも多く、苦労が重なるようになっていった。そして、リニューアルから2年後、「旅館業はお客さんに夢を与える商売だ。だから、自己満足に浸ってはいけない」と気づいたそうだ。その後、誰もが嫌がる泥臭いことを率先して行い、小さな喜びを見出し、誰よりも楽しみながら旅館業に関わるようになった結果、スタッフ全体も仕事を楽しめる雰囲気が生まれたと語ってくれた。
人間と言うのは不思議な生き物で、例えば、どんなにおいしい料理を食べても時が経つとおいしかった事以外は忘れてしまったりする。だが、イメージとして強烈なインパクトを与えることが出来さえすれば、その料理の姿も決して忘れない。
「楽山やすだ」では、リニューアル直後の一時期、細かく小鉢に分けるスタイルで料理を出していたのだが、そのスタイルを捨て、あわびや伊勢海老を目の前で焼く「海鮮炙り焼き」を夕食のメインに据えた。料理の味にまったく関係なく、小鉢スタイルの料理に伊豆らしさが感じられないという理由で、宿泊客からのクレームが多かったことが大きな理由だった。伊豆らしさを前面に出す豪快な料理は好評で、畳敷きの館内と同様のインパクトを宿泊客に与えている。
首都圏からのアクセス手段が良いため、高度経済成長期には多くの団体客が押し寄せてきたが、ここは内陸にあるため伊豆の代名詞である「海」の姿は見ることができない。しかしながら、山ならではの楽しみ方と昔ながらの伊豆の姿を今も色濃く残している。そんな温泉街に、「楽山やすだ」のようにしっとりとした大人の宿が存在することは嬉しい限りだ。
実質的に旅館の運営に携わるようになり、多方面から様々な事を吸収し、それをお客さんに還元し続ける専務。楽しそうに働くスタッフには、仕事への取り組みや経営理念がしっかりと浸透しているのだろう。向上意欲の強い専務の思い描く、次世代経営を追求した将来の「楽山やすだ」の姿が楽しみでならない。(J/NS)