「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠が近づいたと思う頃…」――川端康成が「伊豆の踊り子」を執筆し、その舞台にもなった天城湯ヶ島は、伊豆半島のほぼ中央、天城の山あいにある温泉郷だ。
本谷(ほんたに)川と猫越(ねっこ)川の合流点を中心に、十数ヵ所の源泉から豊富な湯が湧くこの地の歴史は古く、室町時代にはじまった金山の採掘に関する14世紀末の書物にもその記録が残るなど、古来湯治場として人々に愛用されてきた地である。
肉体労働の後の男たちや、急峻な山道を越える“天城越え”における旅人の中継点として、多くの人々の疲れを癒してきたのだろう。
山の中にあって“湯ヶ島”という地名だが、これは寛政12年(1800年)に完成した「豆州志稿」という冊子によると、『湯島ハ・・・温泉回リテ有リ、如嶋(しまのごとし)、然ルガ故ナリ今村名トナル』と記述されている。
つまり、温泉が豊富に湧くこの地域だけ独立した地域(しま)のようだ、ということのようだ。
伊豆の中央を北に流れ、沼津から駿河湾に注ぎ込む狩野川は、つまりここ湯ヶ島に源流を持つ。
“2本の川が落ち合うところ”にあるお宿―かつて宿泊した山岡鉄舟がこのことに“気づき”、宿名を「落合楼」とすることをご主人に進言。
明治七年創業時には「眠雲楼」と称していた、このお宿を改名したのが明治14年(1881年)のこと。以来、この宿の冠として、現在では国指定の文化財にも登録される、この歴史ある建物よりも長い期間にわたり、ここ湯ヶ島の地に名を刻んでいるのだ。
創業者の足立三敏氏は、伊豆三大金山にも数えられる持越鉱山のオーナーであった。
1200名もの従業員を抱え、また政財界の要人とも深いつながりを持っていた。
それまでこの金山の採掘事務所であった、この温泉の湧く緑深い美しい土地に、旅館を作ろうと思ったのは当然の流れであったのだろう。
関係者や要人、そして東京に生活する人々をもてなすための場としての立ち上がりであったため、類を見ない壮麗かつモダンな意匠を施したという。
明治七年の創業当時の建物は残念ながら現存せず見ることはできないが、“雲の中で眠る”・・・この「眠雲楼」という浪漫あるネーミングからは、足立氏の粋心というものが感じられる。
そのせいか、やはり風流を愛する多くの文人墨客が訪れ、上述の宿の命名者、旧幕臣であり明治天皇にも遣えた山岡鉄舟をはじめ、明治42年には田山花袋が島崎藤村、蒲原有明、竹林夢想庵の4人連れで宿泊し、『日本温泉めぐり』という著述の中にも、「静かな旅の心を味わわせた」として、この宿のことを詠んでいる。
その他にも、明治44年には木下杢太郎が滞在中に『浴泉歌』を記し、また大正の時代に入ると、のちのノーベル文学賞作家、川端康成が頻繁に訪れるようになる。
といっても当時まだ駆け出しの書生であった彼には、ここ落合楼の宿泊代には手が届かなかったようで、そのため宿泊はここの近くにある「湯本館」の一番狭い客室で、「伊豆の踊り子」の執筆もそこでしていたという。
それでも毎日のように「落合楼」に出入りしていた、と後にその著書『湯ヶ島での思ひ出』に述懐している。
親友の梶井基次郎もここに訪れた。川端と文学論に花を咲かせ、また小説の着想も得ていたのだろう。
沼津の自然をこよなく愛したことで有名な歌人、若山牧水もここ天城の山桜に惹かれ、訪れては多くの歌を残している。
昭和に入っても多くの文人墨客を迎え入れていたこの宿は、さらに風格を増すべく、昭和8年から12年にかけて大改装を施す。
その時に建造されたのが、現存する、文化財登録されている建物の数々なのである。
玄関棟、本館を手始めに、紫檀宴会棟、配膳階段棟などが追って建造された。工事に当たったのは近隣の棟梁、青木清平氏で、彼を筆頭に日本各地から腕利きの大工が集結したといわれている。時代は昭和初期、大恐慌の後のこと。
疲弊しきった社会の中、これほどの大きな仕事はなかなかなかったのであろう。
職人たちも気勢を上げて取り組んだようで、その名残を館内随所に見られる精緻な細工に発見することができる。
文化財に登録されている建物は7つ。
玄関棟、客室のある本館と眠雲亭、紫檀宴会棟、階段棟、配膳棟、そして自宅棟だ。
他にも玄関横にある蔵、古民家の部材で建造された洋風のロビー棟があり、また平成に入ってエレベーター付の棟も建造されたが、それでも全体の雰囲気を損なうことのないように低層に抑えられている。
若干の高低差がある立地のため、例えば本館2階を渡ると眠雲亭1階というように、慣れるまでは迷路のような感覚もあるだろう。
館内はこれらの建物が通路を介して連結し、廊下の窓からは中庭の豊かな緑が見られる。ここに用いられているガラス窓も歴史あるもので、斜めから見ると外が歪んで見えるというもの。
この窓を通して館内に入る光には独特のやわらかさがあり、これがこの宿の幽玄な雰囲気を醸し出す一因となっているのかもしれない。
床柱や天井の羽目板などに惜しげもなく用いられる紫檀や黒檀、屋久杉などの銘木は今となっては入手困難または禁輸されているもので、そのダイナミックな室内の構成には、ただただ目を見張る。
また、障子などに見られる精緻な細工もまた見事。
館内どの部屋、どの客室にもこの細密な芸術を見ることができ、また今も現役で使用するに耐える。
現在では修復できる職人もいないといわれるものから、入念に手入れがされて磨きがかかり渋味の増した部材まで、滞在中至るところで往時の技術水準の高さを見、時代を超えて職人の息吹に触れることができるのだ。
大浴場は本館の階段を降りた地階にある。
男女別に分けられた浴場は入れ替え制で、どちらの浴場も狩野川に面した立地。
露天風呂は木々の緑と川の流れる音に包まれた、内湯はレトロなタイルが温泉情緒をくすぐる、どこも居心地のよい空間だ。
全ての湯舟にこの宿自慢の、良質の温泉が掛け流しにされているので、のんびりと浸かって日ごろの疲れを癒したい。
名物ともなっている大露天風呂、「天狗の湯」は、内湯部分が洞窟状になった豪快な印象のお風呂。
その内湯がトンネルで露天風呂とつながっており、コの字状の大きな湯船を形成している。
ここには大人20名が入れるほどの広さがあり、また露天部分にも檜やぐらが組まれ、天候にも影響されず良質の温泉湯浴みを堪能できるというものだ。
チェックインから24時までが男湯、入替して0時からチェックアウトまでは女湯となる。
反対にチェックインから24時までは女湯、0時からチェックアウトまで男湯となるのは、内湯の「レトロモダンタイル風呂」と半露天の「ひさご湯」。
これらは外部の通路で連絡されている。
内湯には大人10名ほど、半露天風呂には大人5名が入れるほどの大きさがあり、異なる趣向の湯浴みが一度で楽しめるようになっている。
客室は全15室、どれも文化財建築内にある。
本館に9室、眠雲亭に6室という構成で、客室名は、本館は木の種類にちなみ「藤」・「椿」・「楓」・「松」、眠雲亭には「浮舟」・「常夏」・「紅梅」・「桐壺」・「松風」・「早蕨」という源氏物語の巻から取られた。
中庭を囲むようにして廊下を巡らせ、東側(狩野川)と南側(南庭)に客室を配するL字状に建つ本館は、木造二階建て・入母屋造り、銅板瓦棒葺き。
基本的な材木は檜で統一されており、これが格調の高さをにじませる。
客室にもよるが、付け書院を設けるなどした書院造り。床柱や床框には黒柿や紫檀等の銘木、黒漆を塗るなどの工夫が施されている。
片や敷地南端の一番奥まった場所にある眠雲亭は数寄屋造りの趣がある、木造2階建て・入母屋造り、桟瓦葺きの建築。本館よりも高台に位置するため、本館2階からは入ると眠雲館の1階となる。
館内1階には桧の角柱、2階には杉の面皮柱(めんかわばしら)が用いられ、柔らかな風情がある。
2階の廊下は化粧小屋裏に作られており、桁や垂木等は杉の磨き丸太が用いられている。
ここの6客室には全て、源泉の注ぎこまれるお風呂を備える。
このお風呂もまたレトロな風情で、石造りの重厚な雰囲気の中、壁に開けられた窓からのぞく外界の緑が爽快感をもたらす。かけ流しにされているのではなく、蛇口をひねると浴槽の底から温泉が出る仕組みとなっている。
もしこれら、日本建築に関する専門知識に乏しい方でも大丈夫。
翌朝には、ご主人による館内ツアーで、随所に見られる高い意匠に関する細かい解説を聞くことができるのだ。
この歴史に満ちた宿に宿泊したならば、単にレトロ感に触れて帰宅するのではなく、是非より深いところまで触れてみていただきたい。
このツアーはご主人によほどの用事がないかぎり、基本的に毎朝開催されている。
この純然たる和空間にあって、食事も地のものを活用した和会席。
現主人とは20年ほどもの付き合いという川名実料理長によって、海のもの山のもの、バランスよく考えられた一品一品が大事に味付けされている。
この宿の客層の幅広さもあるのだろう、「誰にでも気に入れられるような料理を作りたい」と料理長は語るが、生山葵のすりおろしなどの定番をしっかりと抑えておきながらも、洋皿を献立に取り入れるなどして、味わいに幅広さをもたらしているのが特徴だ。
取材時(2008年5月)の献立を以下に紹介する。
食前酒には地元伊豆の清酒、「天城」をいただく。
この水の綺麗な土地だからこそできるさっぱりとした味わいのお酒で、じわりと空腹の胃を温めてくれる。
先付けは新緑豆腐。
これは煎茶を混ぜた胡麻豆腐で、色合いも香りも新緑のさわやかさを感じさせる。才巻き海老酒蒸し、天豆、ツバメ型の蕪水前寺海苔に、緑山葵が添えられる。
季節の彩りが満載の前菜は、やはり青いものを強調した品揃えだ。
竹の子木の芽和え、うぐいす豆には金魚の型の人参が添えられる。
他にも稚あゆ甘露煮、姫さざえ雲丹和え、クコの実を載せた昆布締めホタテ寿司、川海老から揚げ、大仁産の伊豆牛のたたきという品々。
バジル、ラディッシュ、シブレットが添えられ、これはゴママヨネーズをつけていただく。
吸椀の蟹の湯葉真丈はふわっとやわらかい仕上がり。
湯葉でくるむことにより、蟹の生臭さが消されている。
菖蒲にかたどった冬瓜、芯を抜いた管牛蒡、へぎ独活が浮かぶ。
この季節の旬のもので、香り高い柚子の花が添えられ、椀の中に上品な香りを漂わせている。
続くお造りにはバチ鮪、タカベ、平目の生といった、駿河湾の地網魚が出される。
天城名産の生山葵を、サメ皮ですりおろしていただく。
すりおろしでしか出せない香りと甘みは、新鮮な魚と抜群の相性を見せる。
新鮮な魚と山葵、まさに“伊豆の中心”にいることを実感じさせてくれる一品だ。
焼き物は、香魚塩焼き。
鮎は鮮度にこだわりを持って吟味されるので、必ずしも狩野川で採れたものではないが、天然ものを楽しめることもあるそうだ。
それでも天然ものに引けをとらない味わいは、やはり当日にさばくというこだわりの賜物だろう。
焼椎茸の大根おろしのせ、薩摩芋レモン煮、はじかみが添えられる。
地の山葵を混ぜた酢が好評で、ここにも地産池消のこだわりが感じられる。
炊合せは、金目鯛のあら焚。
この金目鯛は大島沖で獲れたものだそうで、相模湾もの特有の脂が乗った身はよく煮込まれることで味わいが増す。
添えられた小蕪沢煮、石川芋(里芋)、スナック豌豆(エンドウ)にもよく味が染みわたり、また針生姜のピリッとした味が口の中を中和してくれる。
盛り付けは控えめだが、しっかりと味の引き出された、前後のバランスを損なわない一品。
揚物は天ぷら。
海老進上揚げ、フキノトウ、ミニトマトの三種類で、彩りもその盛り付けも可愛らしい。これにはあっさりと岩塩をつけていただく。
このミネラルを多く含むシチリア岩のまろやかな味わいが、素材のもつ味を邪魔することなくからみあい、また香りも引き立たせている。
ここで出される温物には、趣向の変わった一品、壷に入ったクリーム仕立てのシチューが出された。
ヨモギの粉を混ぜたことで、見た目もさわやかな新緑色、蓋をあけるとパッと広がる香りも清々しい。天城軍鶏を出汁に、季節の野菜、メークイーンやブロッコリー、人参、ペコロス、赤・黄パプリカが入る。
ボリュームがあるので、ここで腹具合の調節をするのもいいだろう。
なお、この品は通年出されるものではなく、それどころか今回初めての試みであったそうだ。
このようにその時々に創造される新しいメニューも楽しめるので、何度訪れても飽きることはないであろう。
酢物はやはり旬の、初物の鰹の多々喜(たたき)。
打ち茗荷、紫玉葱、大葉、大蒜チップ、薬味が添えられ、ポン酢でさっぱりといただく。
留椀の粉山椒の香りがきいた赤出汁には、焼き茄子、青フキが入れられている。
筍ご飯のさわやかな味とも相性が良い。
水菓子はスイカ、キウイ、稲取産のニューサマーオレンジといった季節のフルーツ。甘味はこの日、ココア味の手作りアイスクリームが出された。
朝食も日本人には馴染み深い和定食だ。
金目の干物、出汁巻き卵、油揚げと南瓜の煮物、アオリイカの刺身、土産物にもなっている蒲鉾の“しいたけまる”と手作りのわさび漬け、もずくとめかぶ、ほうれん草やキャベツ、アスパラ、インゲンなどの入ったサラダに加え、その場で火にくべて温めるにがりを入れた自家製湯豆腐、しじみ汁とご飯、漬物という品揃え。
定番ともいえるラインナップではあるが、バラエティ豊かな品揃えに朝からご飯もすすむことだろう。
フルーツのメロンとオレンジも爽快な味だ。
もし早起きをしたならば、朝食をいただく前に周辺散策をすることをお勧めする。
この宿の横には「湯道」という、かつては村人が共同湯に通うための道が通る。
この美しい呼び名は彼らによってつけられたもので、その雰囲気をそのままに、道を整備して現在の散策路ができあがったのである。
のんびり一周しても30分から1時間ほどの工程だ。
また、この周辺は文学の道でもあり、与謝野晶子やこの宿にかつて宿泊した多くの歌人、文人の歌碑が見られる。
「しろばんば」訪れる人々を文学のロマンへと誘ってくれる。
ここ「落合楼村上」を出発点に、宿の前の道を行き、宿の角を折れて坂道を川に向けて下る。
「猫越川」にかかる「女橋」を渡り、中洲を抜けて「本谷川」にかかる「男橋」を渡る。
その先にある、木々の生い茂る小道脇にはせせらぎが流れる。
ここには、毎年6月ごろのシーズンになるといっせいに、ゲンジボタルやヘイケボタルがその優雅な光を暗闇に描き出し、幻想的な雰囲気に包まれるのである。
観光協会主催の「天城ほたる祭り」も毎年行われており、尺八演奏や和太鼓の演奏など、この静かな天城の風情を引き立てる厳かなイベントが催されている。
この二つの川に挟まれた中州には、ハート型のモニュメントが建つ。
男性的な風情のある本谷川にかかる「男橋」、女性的な風情の猫越川の「女橋」。これらふたつの橋は合わせて「出会い橋」と呼ばれており、男性は「男橋」を、女性は「女橋」を渡ることで、“落ち合う”川のパワーにあやかった男女は生涯幸福に寄り添うという、これからの人生を共に歩むことを決めた男女にはうってつけの場だ。
新郎が男橋を渡り、新婦が女橋を渡る。そして二人が中州のモニュメントで出会うというセレモニー、これはこの宿の宴会場を利用した結婚式でも執り行われたという。
近年改めて人気が出ているという和装ウェディングだが、風情や歴史など、紛れもない“本物”であるここ「落合楼 村上」での式は、また一層、生涯忘れえぬ格別なものとなることだろう。
明治7年の創業以来、近代日本の歴史の潮流を、ここ山深い天城の森の中からひっそりと見守ってきた「落合楼」だが、現オーナーが運営にあたるようになったのはまだ最近のことである。
伊東にある老舗旅館の専務であった村上昇男さんが、経営に行き詰まり銀行の抵当に入っていたこの価値ある建物のオーナーとして平成14年に就任し、「落合楼 村上」として復活させたのだ。
昇男さんが「落合楼村上」のオーナーになるまでには、あるドラマがあった。
実は彼が伊豆の伊東の高級旅館に専務として入ったのは平成4年のこと。
前年に現在の女将である伊津子さんと結婚したからだ。
それまでは某大手電機メーカーのシステムエンジニアとしてサラリーマン生活をしていた。
結婚を機に奥さんの実家である温泉旅館に”転職”したわけだ。
それから平成10年までの6年間、旅館業などもちろん初めてだったのにも関わらず、がむしゃらに働き、そしてお客様の喜ぶ顔を見ながら、旅館業の醍醐味を知る事になる。
ところが、経営も順風満帆の頃、寝耳に水の出来事が起こる。
親戚筋の人間が宿に入り込み、専有するような形で株を相続し、社長に就任した。
代表の座を奪われた形となった伊津子さんのご両親は、他の誰よりも愛する自らの宿を離れ、そして昇男さんと伊津子さん夫婦も後を追った。
軌道にのっていた旅館から、そして旅館業の楽しさを体感した後での状況の変化にすぐには立ち直れず、1年間は新しい仕事を探す気にもなれなかったという。
それでもなんとか、生活をしていかなければならず、しばらくして昔の技術を生かしてパソコンのサポート会社を立ち上げたのだった。
しかし、その仕事をしながらも、伊東の旅館時代の6年間の素晴らしい思い出が胸に去来し、自分にまだ未練があることを感じていたという。
そんな折、平成14年3月、運命的な連絡が入る。
伊東時代に付き合いのあった銀行の支店長が、突然昇男さんに電話をしてきたのだ。
「また、旅館をやってみる気はないかね?」・・・・・と。
「えっ?」昇男さんは、当たり前のように驚いた。
パソコンサポートの会社も、なんとか軌道にのりはじめた頃だったので、当然のように躊躇した。
しかも、この支店長(当時は事業再生部の責任者)は、伊東の旅館を離れた経緯を知っていて、それで声をかけてくれた事も承知していた。
「こんなチャンスは二度とない」・・・と思いながらも、悩んだ。
かつてお客様が喜んでくれた笑顔、励ましの言葉などが頭に浮かんだ。
悩みに悩んだ2ヶ月で、結局、宿を経営することを決めた。それがこの「落合楼」だった。
それと、義理の父母、そして奥さんである伊津子さんに温泉旅館をさせてあげたかった・・・これが最後に彼の背中を押したのかもしれない。
旧「落合楼」は、明治7年の創業以来、伊豆の金山で財を成した一族が経営していた。
かつては伊豆きっての高級旅館の佇まいであったが、バブルの時代には対岸にコンクリート造りの別館を建てて、とにかく団体客をどんどん入れていこうという経営スタイルは、個人客中心の現在の旅行スタイルへの移行についていけず、ついに銀行管理となったわけだ。
昇男さんは、その対岸の別館の建物の譲渡は断り、本館の登録文化財のものだけにした。
しかし、すべて銀行から借金による譲渡であるため、もちろん銀行主導。
それも不安があったが、一心不乱に旅館業に再チャレンジすることを決意した。
当時のその宿は、前述のように由緒ある建築物であったが、建物が泣いていた。
経営難の環境のもとでは、応急的なメンテナンスしか行われていなかったからだ。
自慢の文化財も塵と埃にまみれていた。
同年7月に譲渡の仮契約、9月1日に引渡し、再オープンは11月1日だったので、改装にかける時間は2ヶ月しかなかった。
それでも限られた時間の中で、改装工事は無事終る。もっともお客様の目に入りやすいところは優先的に、後は徐々にというやり方だったが。
その2ヶ月間は、旧「落合楼」の従業員に加え、伊東の旅館時代の元従業員、出入り業者も駆けつけてくれた結果、なんとかスケジュール通りにいったという。
やはり、これほど応援に駆けつけてくれたのは、村上夫妻の人徳もあるだろうが、伊東時代の実績によるところが大きい。
この宿のバトンタッチのドラマは、まさに伊東で潰えた夢の続きであり、そして、宿の再生のドキュメンタリーでもある。
宿がオープンしてからは、伊東時代の顧客のほか、新規の個人客も徐々に増え始め、今ではこのエリアでも随一の繁盛旅館となった。
団体客を取らず、静かな環境と、中伊豆らしい緑に囲まれた自然が、人々の来訪を誘うのだろう。
創業から130年以上の「落合楼」の伝統と、80年続いた、曾祖母が伊東に創業した当時「村上館」と称した宿のノウハウを融合した「落合楼村上」の歴史はまだ始まったばかりである。
しかし、もうこの建物は泣いていない。塵も埃も、もう見つからない。
この登録文化財の宿は、どうやらすばらしいオーナーを見つけたように思えた。
取材を終えて宿を去る際に玄関の方向に振り返ると、なぜか建物が笑っているような気がした。(J/eb)