開湯1300年の歴史を持つ浅間(あさま)温泉は松本の奥座敷と呼ばれ、古来多くの温泉宿と宿泊客を見守ってきた。この鄙びた風情のある温泉街の中、入り口には『本州中央の地』という石碑が建つ「薬師堂」がひっそりと佇む。あまり知られていないかもしれないが、松本の浅間温泉は、本州に無数に散らばる温泉地の中心に位置する温泉街なのである。
「別亭一花」は、その薬師堂を囲むように建つ、全10室のこぢんまりとした宿。暖簾をくぐり玄関を上がると、一面に敷き詰められた畳の若草色が目に鮮やかに映る。ここではロビーや各階の廊下だけでなく、食事処、エレベーターの床までも畳で統一されている。入館して靴を脱ぎ、客室でくつろぎ、お風呂に入るその時まで、常に足元には畳が敷かれているのである。そのためスリッパを用意しておらず、畳の心地よい感覚を直に感じられるように配慮されているのだ。
こちらのご主人、東京出身の宇留賀文彦さんが8年前にオープンしたこの新しいお宿。それまでは同じ場所で父方の祖父母が経営する、「湯本別館」という全20室のリーズナブルなお宿だったそうだ。大阪の辻調理師専門学校を卒業した後にごく自然の流れであとを継ぐことになり、28歳の時にかねてよりの願いであった、料理を中心にすえた和風旅館へと変貌を遂げたのである。ご主人も若く、お宿も若い。やはり全体の醸し出す印象はフレッシュで、働くスタッフもキビキビとしており気持ちが良い。
全10室ということもあり、共有施設は少ない。それだけに、どの客室もたっぷりとした構成となっており、部屋でゆっくりと、思い思いの時間を過ごすことができる。スタッフが部屋に入るのも、最初の部屋案内のときと、布団を敷くときだけ。松本駅からバスで20分足らずという好立地、しかも浅間温泉街の真っ只中ということもあり、周辺散策をするのにはこの宿はとても便利である。それにもかかわらず、部屋からあまり出ることもなくのんびりとする、これは実に、別荘に来た感覚に近いのではないだろうか。2階の3客室は喫煙室、3・4階の7客室は禁煙室と、分煙を徹底しているのもありがたい配慮である。
201号室「くり」、202号室「もも」、203号室「うめ」、301号室「りんご」、302号室「もみじ」、303号室「ぼたん」、305号室「あんず」、401号室「二輪草」、402号室「ぎんなん」、403号室「さくら」という部屋名はどれも、信州の美しい花にちなみ名付けられているもの。室内に飾られた色鮮やかな切り絵はみな、切り絵作家の横倉絹枝による松本、小布施、更埴、上高地など信州路を描いたもの。旅情をかき立てるちょっとした仕掛けも散りばめられている。
部屋に着いたら早速お湯に浸かって疲れを癒そう。3階の貸切風呂もチェックイン後すぐに利用することができるが、もし先約があったとしても、1階の男女別大浴場も24時間いつでも利用できるのでご安心を。大きさは大人5人が入るのにちょうどよいほどで、男女ともに奥の壁一面がガラス窓となっている。そこから天井部にかけて開口部が大きく取られているので、浴室内は明るい光に照らされて心地よい湯浴みができることだろう。松本浅間温泉のお湯は肌触りもやわらかく美肌の湯、美人の湯とも言われる弱アルカリ性、無色透明の単純温泉。衛生の関係上、循環ろ過の過程で塩素消毒されてはいるものの、源泉の温度も49度とちょうど良く、湯舟でのんびりと長湯しても暑くなりすぎることが少ない。それでいて体の芯からポカポカと温かさが長持ちするので、冬の寒い季節などには特に重宝されるお湯なのである。
身体が温まったら夕食、ここでは1階にある食事処「花もよう」でいただく。調理場が隣接しているため、一品一品、温かいままに運ばれてくる。ここはそれぞれが個室に分かれており、2名〜6名用の広さがある。掘りごたつ式になっているので、ここでもゆっくりと絶品の信州料理を堪能することができる。
地産地消をテーマに練りこまれたメニューは、このお宿開業当時から料理長を務める、渡邉三穂登さんと宇留賀社長が相談した上で献立を決定するということ。将来的には自分で窯をつくり、自ら食器をつくりたいという宇留賀社長、料理に使用する器も厳選した有田焼。新メニューができた際には、スタッフも試食をすることで味を確かめるのだという。常に客側の目線で宿を見るという努力を怠らない姿勢は、やはり小さい規模のお宿ならではの魅力ということができよう。
取材時(2008年2月)のメニュー、「スタンダードぷらん」を紹介する。食前酒は自家製の果実酒、これはロビーの一画に並べられているものだ。この日はいちご酒、料理長のご実家で栽培されたものだそうで、夏に収穫して漬けておくのだそう。先付けには貝柱、国産筍の水煮、独活に木の芽味噌をかけたもの。さっぱりとした味わいがお酒にもよく合う。金皿に盛られた前菜は、年配の方でも食べやすく、甘いものを控えた、酒のつまみになるようなものを意図したものだそう。こちらは社長のご実家でとれた柚子をくり貫いたものに入った鮟鱇の肝と春菊、床節ひじきと浸し鞍掛豆、蒸し里芋茶金の小芋塩蒸し、鰻とゴボウを炊いた柳川真蒸、青海苔入りの衣で揚げられた真蛸磯天ぷら、酢取茗荷寿司というラインナップ。お吸い物には白味噌の薄葛仕立て。具材の胡麻豆腐、合鴨、芹が白味噌にからみ、さっぱりとした味わいに深みをもたらす。
お造りは信州サーモン、甘エビ、紋甲磯辺巻き、鯛。信州サーモンとは長野県水産試験場が開発した養殖専用の、ニジマスとブラウントラウトを交配させた独自の新品種。銀色の美しい身体と、サーモンのような紅色の美しい身が特徴で、ニジマスに比べて肉のきめが細かく、肉厚で、豊かな味わいが際立つ。卵をもたないため、産卵に要するエネルギー(栄養)がそのまま美味みとなり、いつでもおいしく食べられるのも特徴だ。これは長野県限定で販売されており、コンビニエンスストア、セブンイレブンのお弁当にも使用されているという。
メインは黒毛信州牛ロースとみすじの岩石焼。“みすじ”とは肩の部位、一頭につき3キロしか取れないという稀少部位。通常ならかたい肩肉だが、アッサリとした食感と霜降りの甘みがとろけるように美味しい。野菜は、夏の収穫シーズンになると料理長のご実家で栽培されたピーマンや茄子、ニンジンやキャベツなどが並ぶ。焼きあがったらシンプルに、美ら海の塩につけていただく。
お凌ぎに海鼠(なまこ)の霙和えの生膾(なます)。これまでボリューム盛りだくさんの内容だったが、ここでさっぱりと口を整えることができる。煮物には鯛蕪に栗麩を添えたもの。この鯛は刺身でも出せる上等なものをそのまま煮込んだもの。食材へのこだわりが随所にちりばめられているのがわかる。蒸し物は蟹身の友和え茶碗、生海苔餡かけ。ズワイの身とカニミソを和えたものを上に載せたエノキ入りの茶碗蒸しは、凝縮された香りが蓋を開けた瞬間広がる。酢肴としてもずく酢に角リンゴをのせたさっぱりしたもの。お酢によくからむ沖縄産の太いもずくを使用している。御食事には料理長が毎日打つ二八蕎麦。信州ならではのふるまいだ。赤出汁がわりにそば湯が出される。
さらに鰻とろろ飯も出される。これはほぼ月替わりで、鮭のまぜご飯であったり、松茸ご飯であったり、旬の食材を用いることで季節感をかもし出すものでもある。
全体的に、前半は腹を満たすボリューム感もある品揃え、焼物が出た後半でさっぱりと食事と会話を楽しめるという、緩急織り交ぜた構成であった。季節の旬のものは、2月ということもあり少ない印象であったが、そのぶん工夫に満ちた、もちろん味にもこだわりぬいた品々は美味の一言。デザートも凝っている。りんごチーズパイ、リンゴで作られたシードルを蒸留したカルバドスで煮たリンゴに、キウィソースをかけセルフィーユをのせたもの。信州産のリンゴを全面的にフィーチャーした、信州出身の料理長の技が冴える一皿で食事を締める。
これでは量が多い、よく温泉宿の料理は残してしまう、という方のために、「少食の方向けぷらん」が通常のプランよりもお手頃な価格で用意されている。反対に、これでは物足りないという方には焼物の追加メニューが用意されている。プラス\2,100で黒毛和牛ロース・みすじ、青森直送のホタテ貝や刺身でも食べられる天使の海老、プラス\4,200で標準の黒毛和牛ロース・みすじと焼野菜に加え、あずみ野豚、信濃地鶏、青森直送のホタテ貝と、北海道から直送されたタラバ足の塩焼きが追加されるというますます豪華なラインナップに。
朝食も凝っている。重箱に入れられ、見た目にも豪華。清水港でとれた一夜干し鰈のあいらい、冬大根とフキ、破竹など山菜の煮付け、穂高の有賀山葵漬け、じゃこ卸しに、浅間にあるマルイ豆腐店の一番搾り豆乳で作られた“丸い”湯豆腐、揚げだし葛豆腐、サラダに、鉄鍋で煮込まれたこだわりの味噌汁。卵は西脇ファーム、ネラ鶏のうみたて卵を使用、濃厚な味わいが特徴だ。ご飯にもこだわりがある、梓川で育てられた発芽玄米に、天日干してから精米した旧来の方法を利用することで甘みが増したはぜかけ米をブレンドしたものだ。このかわりにお粥を選ぶこともできるので、幅広い世代にも受け入れられる工夫は徹底している。
温泉で温まり、お腹も満たされたら、自室で受けることができるフェイシャルマッサージをオススメする。コースも多様で、それぞれの肌質と好みに応じたプラン展開がなされている。時間は14:00〜22:00、50分間で¥5,250(土日は¥1,050アップ)。完全予約制なので、コースの詳細は公式ホームページでご確認いただいた上で予約していただきたい。
部屋からあまり出ず、お湯と食事とを存分に楽しみリラックスする。ここはまさに“別荘”感覚でくつろげる“料亭”といった印象がある。お洒落な貸し浴衣や膝掛け、乾燥する冬には部屋に加湿器が置かれるなど、細かい気配りが行き届き、どの部屋も清潔でさっぱりとしているので、ついついお部屋でのんびりする時間も長くなるだろう。もし注文をつけるとするなら、部屋で過ごすための“遊び”をより多く提供してほしいということだ。開業してまだ8年という新しいこのお宿、旅館の放つ“個性”や“味”が増していくのはきっとこれから。泊まるたびに味が増し、泊まるたびに小さな変化がある。常連客や、そうなりうる予備軍を楽しませ、心を捉え続けるには、そんな仕掛けも重要になってくるように思える。
品揃えの豊富な百貨店のような、大規模で賑やかな旅館に宿泊するのも楽しいだろう。だが、ここにはそのような賑わいも百花繚乱さもない。しかしこの規模と静けさが気に入って常連になる客も多いという。人によっては見過ごしてしまうかもしれない、だが見つけた人の心のどこかに残る一輪の花。この宿では、名前に込められたその想いのごとく、野辺に咲く小さな一輪の花を見つけた、そんな気分にさせてくれるのかもしれない。松本駅からもバスで20分程度とアクセスの良い、あさま温泉の「別亭一花」。ここには是非、大切な人と、大切な家族と、日ごろの疲れを癒しに訪れていただきたい。(J/eb)