石川県能登半島の中腹、洋上に浮かぶ能登島を包み込むように広がる七尾湾には、豊富な温泉が涌くことでも知られる。その中でも多くの集客を誇るのが、その名を、「湯の“涌く浦”」に由来する和倉温泉。永承年間(西暦1050年頃)この地に暮らしていた漁師夫婦が、湯気立つ海で白鷺が身を癒す様子を見たのだという。この伝説の通り、和倉温泉の泉源は海中にあり、潮が引いたときでないと湯を利用することができなかった。それを整備し、温泉街の基礎を気付いたのは七尾城主の畠山氏や加賀前田家三代目当主、前田利常であった。
以来、前田家御用達の温泉として栄えたが、観光温泉街としての整備が進んだのは明治に入ってからのこと。加賀文化に代表される豪華絢爛な要素をふんだんに取り込み、一帯は加賀屋に代表される高級旅館が隆盛を極めた。また、七尾湾に突き出すようにあるこの温泉地は、七尾湾のむこうに見える能登島の眺望も豊か。この利点を活かすべくタワー型のホテルや旅館が海岸線上に建ち並び、この街の印象を形作っている。
2007年3月25日、記憶に新しい能登半島地震に襲われたこの町は大きなダメージを受けた。七尾市で震度6強を記録したこの地震の影響は大きかったが、現在ではすっかり回復し、石川県内でトップの来客を誇った、地震前の賑わいを取り戻している。
「能州いろは」は高層旅館の建ち並ぶ、遊覧船乗り場やマリーナも近い湾岸エリアにある8階建ての温泉旅館だ。残念ながら海に面しているわけではないが、ほとんどの客室からは、四季折々の七尾湾の豊かな表情が見られる。25室というとここ和倉では小規模といえるが、多彩なタイプの客室を持つことなどから、小さいながらも輝きを放つ宿といえる。宿名の「いろは」は、いろいろの「い」、ろうろうの「ろ」、はえばえしいの「は」、つまり、たくさんのものと人に出会い、朗らかに、明るい気分を大切にしたいとの願いからつけられたものだという。
8階のうち客室は4階〜8階、エレベータで行き来する事になる。その他の施設としては、男女別大浴場が1階、湯上りなどにくつろげるスペースも同様に1階に集まっている。2階は食事処となる料理茶屋「あぶりや」とレンタルルーム、3階には宴会場という構成だ。
男女別の大浴場は深夜1時に入替えがあり、男湯は「おあんさんの湯」、女湯は「おあねえさんの湯」と呼ばれている。これは、この地方の方言で、「おにいさん」「おねえさん」という意味だそう。女湯(朝は男湯)のほうが倍ほど湯舟は広く、また露天風呂も窓の外に設けられている。1階のため眺望は利かないものの、趣向の異なる湯浴みが一度にできるのは嬉しいものである。お湯は「ナトリウム・カルシウム-塩化物泉」で、若干の塩味がある。源泉は89度と高温のため、通常水で割ったものに入浴をする事になる。
この宿は客室によって滞在スタイルが変わってくる。それは25室ながら8タイプという多様さに起因する。そのうち10室に露天風呂が置かれ、誰にも邪魔されずにプライベートな時間を過ごすには最適の設備が整っているといえよう。さらに、平成20年の4月には一部客室でのリニューアルが完成し、それぞれテイストの異なる客室が3室誕生した。これにより、ゆったりと過ごすプライベートな時間も、より贅沢に過ごすことができるようになった。
特別室は7・6・5階に各1室ずつ。もと2部屋だった客室を統合したもので、室内に入れば誰もがその広さを感じるであろう。いずれの客室もハイセンスな家具調度品でまとめられており、旅の思い出を華やかに彩ってくれることだろう。
「七の二」はゆったりとくつろげるソファセットとダブルベッド、琉球畳の敷かれた和室コーナー、さらにはジャグジーバスも備えたスイートルーム。壁掛けのプラズマTVはHITACHI社製「Woo」42型。全面に取られた窓からは、七尾湾と能登島の豊かな眺望が得られる。
「六のニ」はワイドビュールーム。この空間に置かれたソファ類は、いずれもどっしりと安定感ある佇まい。窓の外に広がる七尾湾の眺望を楽しみたい。また、特大のプラズマTVはPanasonic社製の「VIERA」58型。DVDデッキも備えるので、この部屋に篭って映画鑑賞などを楽しむのもいいかもしれない。部屋にはバスルームはなく、シャワルームとトイレを備える。
「五の二」はいろりだんらんルーム。天井に飾り梁を設えた3部屋続きの客室となっており、2世代、3世代での家族旅行などにも便利な設えとなっている。部屋にはシャワルームとトイレを備える。
露天風呂が付く客室としてはまず、7・6・5階の海側に各1室ずつ設けられた和洋室「七の三」・「六の三」・「五の三」がある。ここは2006年の改装で誕生した客室で、特別室と同じく2部屋が統合された形となっている。ここには通常の10帖和室だけでなく、ダブルベッドの置かれた洋室も備えており、アジアンテイストで統一されたムーディなテイストが人気を呼んでいる。洗面も部屋の隅に備えられており、使い勝手に長けている。寝室から出入りできる海を望むテラスには、人気の猫足バスタブとデッキチェアが置かれている。
さらに、露天風呂付き特別客室として、7・6・5階の町側に各1室ずつ設けられた「七の七」・「六の七」・「五の七」がある。こちらも2部屋を連結させた客室で、2005年の改装で誕生したものである。和室と、昔ながらの町屋をイメージした寝室という変化のある設えが特徴で、デザイナーズ家具が畳敷きの和室にもよく似合う。寝室から出入りできる広いテラスには信楽焼の露天風呂が置かれており、また洗い場も備える。正面に見えるのは他の旅館という眺望だが、それでも温泉街を見晴るかす開放感は充分に得られる。斜め前方に能登島大橋と七尾湾も見られる。
2003年の改装で誕生したのが4階の海側4客室。これらはいずれも10帖の和室の広縁部分がテラス状になっており、信楽焼の露天風呂が設置されたものだ。壁一面が鏡張りとなっており、洗面や化粧台もコンパクトにまとめられた一室。他の客室では冷蔵庫内のドリンクは有料だが、ここのドリンク(発泡酒、ウーロン茶)はフリーでいただける。
この他の露天風呂など付かない一般室も、どれも清潔感あるつくりの10帖和室になっている。人気があるのはやはり海側の客室で、8月と1月に行われる花火大会では、正面に打ち上げ花火を見ることができるという。当然この日は毎年、予約をとるのも難しい状況だという。画像も豊富に見られる公式ホームページで予約する際には、一緒に会員登録することをオススメする。不定期に宿泊料金に割引があるなどの特典があるので、これを利用しない手はないだろう。
客室でくつろぎ、お湯で癒しを得たら夕食だ。食事は2階の食事処、「あぶり屋」でいただく。個室に分けられており、また掘りごたつ式なので客室同様くつろぎながら、この宿の名物ともなっている無煙ロースターによる海鮮浜焼きを堪能できる。取材時(2008年4月)のメニューを紹介する。
先付けには、旬の蛍烏賊に、分葱を添えて芥子味噌をかけた小鉢。礒の香りと葱の香ばしさが芥子味噌とうまく絡み合う。前菜には能登もずく、エシャロットもろ味噌添え、海老新挽揚、サーモンの手毬寿司、烏賊黄味焼が並ぶ季節感にあふれる一品。
お造りはカンパチ、マグロ、平目、甘エビ。富山湾や七尾湾などで主に獲れる日本海の幸を堪能できる。お凌ぎには山菜と錦糸葱の入ったとろろ蕎麦。温物の茶碗むしには、鰻が入れられていた。やわらかい茶碗蒸しの口当たりの中に、しっかりと味の付いた鰻が入るという、段階的に楽しめる味わいが面白い。
この宿の名物、メインの焼き物の海鮮浜焼きは、帆立貝、サザエ、タイガー海老、ハタハタ一夜干し、するめ烏賊、生ズワイ蟹、ピーマン、コーン、南爪という、目にも鮮やかな品々が並ぶ。目の前で炎を上げる無煙ロースターで、焼肉屋に来た時のように、自分の好きなタイミングで好きなように焼いていただくことができるのも、親しい人との会話をより楽しいものにしてくれるだろう。焼き加減などを教えてくれるガイドも各テーブルに置かれているので、それを参考に美味しくいただきたい。また、魚介類だけでは物足りないという方には国産牛ロースも用意されている。厨房でゴマを擦るところから作った特製のタレにつけていただく。
魚麺入りの吸い物には芽葱に風味を利かせる柚子が入っており、焼き物の後の口をさっぱりとしてくれる。コシヒカリと相性の良い香物、野沢菜、さくら漬け若茄子をいただき、食事を締める。
デザートに出されたのが料理長手作りのヨーグルトアイス。「お土産に持って帰りたい」という要望も多いというが、保存料が入っていないため提供はしていないとのこと。
朝食には、鯵、メギス、一夜干しカレイの焼き物、ひじきの旨煮、イカの細作りの刺身、湯豆腐、半熟卵、なめこ・貝割菜の入った味噌汁が並ぶ。夜も朝も、親しい人と火を囲んでワイワイと楽しくいただける食事であった。
帰宅前には、ロビーの傍らにある売店「蔵屋」を覗くのも良いだろう。この地を代表する漆工芸や能登塩などの特産品、お茶請けにもなっているお菓子などを土産に購入することができる。
チェックアウトの後には、この近隣を散歩してまわるのも楽しい。和倉温泉街の中心ともいえる「総湯」は地元の人にも愛されている共同浴場で、大浴場やサウナだけでなく、無料で利用できる休憩室や仮眠室、カラオケルームや喫茶店までが施設内にある。営業時間7:00〜22:00で、中学生以上の大人1人¥480で利用できる。また、海沿いには新しく設けられた健康足湯施設「湯ったりパーク」があり、海を眺めながらくつろぐことができる。
春なら桜の名所、近くのわくらの郷公園、小丸山公園も是非訪れたい。車で30分ほどの能登鉄道の無人駅、能登鹿島駅も桜に包まれ“桜トンネル”となることでも有名である。
夏には遊びも増える。和倉温泉街の奥には、青いウォータースライダーが目印、流れるプールなどを備える「和倉温泉シーサイドパーク」がある。また、能登島はダイビングの名所としても知られており、ダイビングリゾートでは8歳以上から体験ダイビングの参加をすることができる。8月には、千数百発もの花火が夜空を彩る和倉温泉夏花火が催され、このときは和倉全体で宿の予約を取るのも難しいという。
秋には地元の様々なお祭りや文化的な催しが開催されるが、特徴的なのは11月に行われるグルメイベント「食祭大市」だろう。これは七尾フィッシャーマンズワーフで行われる恒例のイベントで、名物の大鍋が振る舞われるという。
能登演劇堂の存在も忘れてはならない。ここでは仲代達矢主宰の劇団“無名塾”が定期公演を行うことでも知られており、公演を終えた俳優たちがよく和倉温泉で疲れを癒していくという。ここ「能州いろは」にも有名人は度々訪れており、女優の川島なお美も食事を堪能して行った際にサインを書き残している。
有名人のサインは他にも、TV番組「いい旅夢気分」の取材で訪れた金山一彦&芳本美代子夫妻、吉本芸人・宮川大輔&花子のサインなどがロビーに飾られている。
「能州いろは」には、本州の対岸にある関東地方からの来客も多いという。それもやはり、ドライブコースとして不動の人気を誇る能登半島だからこその結果なのかもしれない。また、和倉と橋で繋がる対岸の能登島はダイビングの名所。イルカのトンネル水槽で有名な「のとじま水族館」もあるなど、散策にはもってこいの自然環境がある。平成20年の7月には東海北陸道も開通し、名古屋方面からのアクセスもより容易となることから、これまで縁のなかった方でも気軽に訪れることができる地となるであろう。
この宿には、近隣にある他の多くの旅館が持つ、絢爛豪華さに匹敵する、派手な魅力というものはない。女将による積極的なおもてなしというものもなければ、食事も部屋出しの懐石料理ではなく、食事処で火を囲むという形式。代わりにここでは、食事に代表されるように、親しみやすさが大きな魅力となっている。布団の上げ下げ以外では基本的にスタッフが客室に入ってくることは無く、まるで自分の部屋のように、別荘のようにくつろぐことができるのである。
“和倉温泉の宿”といえば、団体旅行向けの大型高層旅館が建ち並び、女将さんを先頭に、仲居さんによる至れり尽くせりのおもてなしというイメージが強い。だが、ここ「能州いろは」のように気軽な雰囲気の中、個人客中心で、比較的リーズナブルな設定ながら多様なくつろぎの仕掛けを用意している旅館もある。型にはまった画一的な宿づくりをするのではなく、常に新しく、良いものを取り込む姿勢はこれまでの度重なる改装に表れているといえよう。2代目という直木社長は、客のお出迎えなどに率先して活動を見せる。彼の機敏さ、小回りのよさというものが、このお宿のカラーを描き出しているわけである。
滞在において、最も長い時間を過ごすことになるのは当たり前だが、客室である。予約の時点で自分好みの一室を選び出し、宿泊する。温泉旅館特有の寛ぎと癒される空間と、シティーホテルのようなプライベート重視の性格も見せる、この宿は、大型の高級旅館のようなベッタリのサービスが苦手な方にとって最適な宿泊施設とも言えるだろう。 (J/eb)