石川県金沢市の奥座敷と言われる辰口(たつのくち)温泉に、加賀の国らしい雅な純和風温泉旅館が佇む。名は「まつさき」といい、1837年(天保7年)創業の歴史を誇る。
広大な敷地には、本館、新館「鳳凰」など、いくつかの宿泊棟が配され、客室の窓からは、この宿自慢の日本庭園が眺められるように設計されている。
車寄せからフロントまでのアプローチは、一気に「まつさき」への期待感を増幅させてくれるはずだ。“松泉湖”と名付けられた池の上を「渡り廊下」で本館まで結んでいる。その廊下途中、池の上からの庭の眺めは、四季折々に見事な風景を造り上げ、宿泊客を楽しませてくれる。例年4月10日〜15日頃には桜(ソメイヨシノ)、5月10日〜20日頃にはつつじの花や新緑が鮮やかに彩る。6月〜9月には睡蓮が楽しめ、1年で一番の賑わいをみせるのが10月中旬から11月中旬にかけての紅葉のシーズンだ。もみじ、いちょう、どうだんつつじなどが、色鮮やかな競演をみせる。冬は雪が降ることもあるが、たくさん積もるほどではない。しかし、取材時(2008年1月中旬)には雪が舞い、水墨画を見るような幻想的な世界が広がっていた。
ロビーからも、この日本庭園を眺めることができるが、まずはここでチェックインの手続きをする。
なお、平成13年に新たに造られた新館「鳳凰」にお泊りの方には、これも同じ年に完成した「茶室」にて、お抹茶の接待を受けられる。女将さん自ら点ててもらえる抹茶は、雅な雰囲気も相まって、旅情気分をさらに盛り上げてくれる。
さて、「まつさき」といえば、忘れてはならない文豪がいる。泉鏡花(1873−1939年)だ。金沢の彫金師の子と生まれた。尾崎紅葉に師事し、「夜行巡査」「外科室」「高野聖」などを発表し、天才的浪漫主義作家であった。また幻想文学の先駆けとしても知られ、「婦系図」「歌行燈」「夜叉ヶ池」などを残した。後に、川端康成、三島由紀夫らに影響を与えたとも言われている。
彼のおばにあたる方が、「まつさき」の近くで芸者置屋を営んでいたため、その関係もあってか、よくこの宿にも逗留していた。その際に執筆した「海の鳴る時」の舞台となったのは、ここ「まつさき」と言われている。
売店コーナーには、故・種村季弘(すえひろ)氏(1933−2004年)編集による泉鏡花と「まつさき」のつながりについての解説本が販売されていた。(1996年に「まつさき」が出版)
また、館内ロビーには鏡花愛用の硯や弁当箱、そして、直筆の短冊も展示してあった。幼い頃、母親に連れられて買い物に行った時に、絵草紙(現在の漫画)を買ってもらって喜んだ事を詠んだものらしい。
「まつさき」の温泉は、弱アルカリ性の含硫黄−ナトリウム−硫酸塩・塩化物温泉。庭園内の池“松泉湖”の横の地下800mからくみ上げている。泉温が36.5℃と若干低めのため、ボイラーにて加熱しているが、加水をせずに源泉100%で浴槽に温泉が注がれている。ただ、衛生管理のため、加熱する際にいったん循環させるため、塩素消毒を行っている。しかしながら、本館「瑞雲」棟の男女別大浴場(露天風呂付き)の内湯の檜風呂には、少しぬる目の源泉100%の温泉がかけ流しされている。ここでは飲泉もできるようになっており、慢性消化器病・慢性便秘・慢性胆のう炎・胆石症・肥満症・糖尿病・痛風・・・などに効能があるという。
その他、大浴場としては新館「鳳凰」棟の屋上に男女別露天風呂(内湯付き)もあり、こちらは時間により男女入れ替え制となっている。ここにはサウナやミストサウナも併設されている。
つまり、客室露天風呂や貸切露天風呂を除いても、本館(男女入れ替えなし)と新館(男女入れ替え制)併わせると3つ(露天風呂を入れると6つ)の温泉風呂を楽しめることになる。
客室は本館「瑞雲」「檜殿」「桃山庵」「松寿庵」の4つの棟と、全室に客室露天風呂を備える新館「鳳凰」と、合計5つの宿泊棟で構成されている。
ここで代表的な7つの客室タイプを紹介しよう。まずは、新館「鳳凰」(2階〜4階で10室)から。この棟は客室すべてから、“松泉湖”や茶室を含め、庭園全体を見渡せる好立地にあり、さらには専用の露天風呂と内風呂を配して贅沢な設えだ。
まずは、203号室「白鳥」。2階にある最高級グレードの客室。「まつさき」自慢の庭園の眺めが素晴らしい。12.5帖+10帖+ツインベッドルーム+露天風呂の和洋室。BT付き。なお、ベッドルームの洋室部分はコネクティングルームとなっており、不必要な場合は切り離すことも可能。新館404号室(バリアフリータイプ)も同様。405号室をつなげて和洋室にすることもできるわけだ。
次に、303号室「かっこう」。3階にある客室で、こちらも「まつさき」自慢の庭園の眺めが素晴らしい。12.5帖+10帖+3帖+露天風呂の和室。BT付き。
新館の最後は、403号室「文鳥」。4階にある客室。「まつさき」自慢の庭園を見下ろすように眺める事ができる。12.5帖+6帖+露天風呂の和室。BT付き。
なお、401号室では、平成18年6月15、16日に将棋の第64期名人戦七番勝負の第6局(森内俊之名人と谷川浩司九段)が行われた。
本館にも露天風呂付き客室が存在する。まずは、「桃山庵」の171号室「白玉」。こちらは、1階にあり、安土桃山庭園に面した露天風呂は人気が高い。12帖+10帖+露天風呂の和室。T付き(内風呂なし)。
次に、「松寿庵」162号室「松風」。こちらも、1階にある客室。10帖+4.5帖+露天風呂の和室。T付き(内風呂なし)。
一般客室も高級感に溢れている。「瑞雲」の客室211号室「紅梅」は2階にあり、窓からは庭園を見渡せる。15帖+6帖の和室。BT付き。
同じく「瑞雲」の316号室「山法師」は、3階にある客室。こちらも窓からは庭園を見渡せる。10帖の和室。BT付き。
ここで夕食のメニュー(2008年1月取材)を紹介する。基本的に部屋食となる。
まずは、「まつさき」の中では最上級ランクとなる、新館「鳳凰」宿泊の際の献立から。料理長は松下裕一氏。
食前酒に「まつさき」特製のしその果実酒。前菜は、金沢の諸江せり、地蛤、うどにくみゆばをかけたもの。加減酢で味付け。そして、花わさびひたしに、糸花カツオをのせたもの。
椀物替りとして、一人鍋。中身は蕪(かぶら)、うづらのミンチである“うづら丸(がん)”、車ふ、そして加賀野菜のひとつ菊菜。松下料理長のこだわりは「だし」。北海道の香深産の昆布、九州・枕崎の鰹節で出汁をとる。水は名水で有名な仏大寺の湧き水を使用。
御向(お造りのこと)は、能登産のなめら、そいは、ポン酢でいただく。氷見で獲れた鰤、そしてまぐろは造り醤油で。
温物(あつもの)は、冬野菜の炊合わせ。海老芋、加賀野菜の蓮根、松任産の人参、ごぼう、干しナマコの金子真蒸(きんこしんじょ)に絹さや。
酢物は、橋立港で水揚げされた「加能がに」。石川県で獲れるズワイガニのブランド名だ。水色のタグで、差別化を図っている。
八寸は、お多福のお面をかぶせてあった。中身は、福豆白和え、手綱寿し(えび、さより、みつば)、赤貝、わけぎ、酢味噌、白魚、ふきのとうのうす衣揚げ(天ぷら)、長芋梅香焼、千社唐(ちしゃとう)味噌漬、めざし、結びのし梅、フォアグラ(手作り)。
焼物は、鱈白子竹筒焼。中身は、白子、貝柱、車海老、よもぎふ、椎茸、うに、からすみ。
強肴(しいざかな)は、寒ぶり、揚げ餅、菜の花のみぞれあん掛け。黒七味がまぶしてあった。
ご飯は地元産コシヒカリ。減農薬の米を使用。止椀は、能登豚汁。だいこん、にんじん、ごぼうが入っていた。香の物は、自家製の盛り合わせ。
水菓子は、季節の果物。りんごのムースとスポンジケーキのぎゅうひ巻き。イチゴ、メロン、ラフランスが添えられていた。
本館の夕食メニューは次の通り。本館(一般客室)で2名1室、お一人様料金28,000円程度で宿泊した場合の献立だ。料理長は坂上隆行氏。
食前酒は、柚子酒。先付は、加賀野菜のひとつ、丸芋を使った丸芋豆腐。うにとキャビアがのせてあった。 山葵、割醤油を添えて。
前菜は、左から、とこぶし旨煮、才巻エビ(車エビの小さいもの)、うなぎ棒すし、プチトマト、たこのうま煮、菜花、子持ち昆布、おたふくまめ。そして、白えびの刺し身と能登産のなまこ。
椀物は、清汁仕立て。蟹真蒸はズワイガニ。青物は、うぐいす菜に柚子を添えて。
お造里は5種盛り。平目、鰤、まぐろ、甘えび、車鯛のこぶしめ。いずれも近海の日本海で獲れたもの。
別盛は、蟹刺しだ。もちろん石川産のズワイガニの「加能がに」。
焼物は、岩魚塩焼き。手取川上流で獲れたものだ。
蒸物としては、蓮蒸し。美味あんかけに山葵を載せて。中身は、ゆり根、ギンナン、才巻きエビ、うなぎ。そして、このわたの入った玉蒸し。通常は、先付のタイミングで出すらしい。
焜炉は、鰤(ぶり)しゃぶ。氷見で水揚げされた寒ブリだ。水菜、レタス、えのき、玉ねぎ、しゃぶもちが入る。胡麻だれとポン酢でいただく。鰤をしゃぶしゃぶでいただくことは珍しいが、その味も格別のものであった。
炊合せは、鰤大根。鰤はもちろん、氷見産。この大根は“源助大根”と呼ばれ、加賀野菜のひとつ。普通の大根と比べ太めで、煮崩れしにくい。柚子の香りもいい。
酢物は、ずわい蟹。“香箱がに”と呼ばれるもので。11月から2月の短い間しか水揚げされない、ズワイの雌がに。卵もたっぷりだ。
ご飯は、ずわい蟹の釜めし。香の物盛り合わせは自家製で、お土産コーナーでも販売している。留椀は、かじめ(能登産の海藻)と油あげが入っていた。
水物は、季節の果実として、イチゴ、アメリカンチェリー、メロン、キウイ、ぶどう豆、キンカン、パイナップル。そして手作りバニラアイス。
朝食も豪華な献立であった。
新館「鳳凰」では、鰤のあら、あわふの味噌汁に釜で炊いたご飯。湯豆腐に、みぶ菜とあげ麩の胡麻和え、ゴリ(川魚)の佃煮、ブロッコリー、水菜、大根の蟹の身入りポテトサラダ。甘エビのお造りに、丸大根、棒タラ、絹さや、芽いも(里芋の茎)と赤こんにゃくの炊き合わせ。焼物は、目鯛と出汁巻き玉子。ふぐの卵巣のかす漬け、さばのへしこ、ちりめんじゃこ、のりの佃煮もあった。りんごジュースも付いて、デザートは梅ゼリー。
本館の朝食は次の通り。
ご飯に、たらの身、たらの白子、豆腐、春菊、ねぎの入った味噌汁。上にあられとカイワレをのせた、べっ甲あんかけの白粥も選べる。たらこ、いくらおろし和え、青海苔くらげ(売店でも購入可能)、もずく酢(沖縄のものと比べて細い能登もずく)。たらこの昆布巻き、車えびの黄味煮。さらに、かた豆腐、加賀野菜の丸芋のとろろ、干しガレイ、温泉玉子も付く。りんごジュースにみかんも添えてあった。
「まつさき」の館内には貴重なものが多く展示されている。例えば、人間国宝・三代目・徳田八十吉(1933年−)氏の九谷焼がそうだ。鮮やかな群青色が見事。
また、輪島の沈金界の重鎮・日本芸術院会員三谷吾一氏の作品も玄関に飾られている。輪島塗の技法で発展してきた沈金とは、塗面にノミで絵を彫り、そこに金箔や金粉などを入れて絵を表現し、塗面を削る加飾技法。したがって、高い技術と経験が必要なものと知られている。
さらに、加賀百万石の前田家家老の本多家愛蔵の燭台付オルガンもロビーに置かれていた。
この宿はレンタルサービスも充実している。チェックインの際、カラフルな浴衣や、様々な種類の枕を選べたり、フロント横には、お部屋で遊べるゲーム類も用意されていた。
また、変わったところでは「加賀友禅」の体験コーナーもある。
「まつさき」の庭には、白鷺が棲んでいる。庭園の中で一番高いヒマラヤ杉の上部に巣を作っていて、時々、池(松泉湖)に餌をとりにやってくる。ロビーや客室から庭園を眺めていると、思いがけずその風景を見ることがあるかもしれない。
売店では北陸・金沢の特産品が手に入る。女将さんの親戚筋にあたる酒蔵が造る銘酒「手取川」ほか、オリジナル商品も用意してあった。
例えば、「栗むしようかん」。大きな栗の入った甘さ控えめの羊羹は一本1,050円。お着きのお菓子としても使われていた。「能登豚の味噌漬け」は、以前、テレビでも紹介され人気商品となったもの。2枚入りセット1,050円。4枚入りセット1,890円。
その他、辰口温泉と、のと海洋深層水の天然塩をベースに、能美市辰口地区の特産物である、ゆずのエキスを配合したもの入浴剤「ゆずの湯」や、「柚子みつ」も人気との事。
また、フロント横には、浮田健剛氏による古九谷焼の写しが展示されており、こちらは販売も行っている。
北陸・石川県には、和倉温泉、山代温泉、山中温泉、粟津温泉など有名温泉地が数多く存在するが、「まつさき」のある辰口温泉は、金沢市に近く、様々な観光スポットへのアクセスもいいロケーションにある。
「まつさき」は、料理に重きを置いた和風高級旅館といえるが、しかしながら敷居の高さを感じさせない、アットホームな雰囲気をも漂わせる宿なのだ。
松崎陽充社長(53)は、33歳の時に社長に就任。以後、新館、茶室の増設などいくつかの改装、改築を行ってきた。社長自ら、庭園の手入れや、館内のメンテナンスも行う行動派の方で、しかも宿の公式ホームページも自作との事。また、直接、公式HPから予約すれば割引などの特典もあるらしいので要チェックだろう。
社長を支える女将・富志永(としえ)さんは、大変明るい性格の持ち主。そのキャラクターがこの宿全体の居心地の良さを造り上げているように感じる。以前、フジテレビの人気番組「クイズ ミリオネア」(司会:みのもんた)の旅館女将特集に出演した際も、その明るさが多いに発揮された。
季節により風景や印象も変わる庭園、日本海の幸をふんだんに使った懐石料理、落ち着いた純和風客室、自家源泉による良質な温泉、露天風呂付き客室、貸切露天風呂・・・など魅力いっぱいのこの宿は、松崎社長の真面目さが造り上げてきた、正統派の温泉旅館。だからこそ、時代の流行などには左右されない、ブレのない、ひとつ太い芯が通ったところも垣間見える。記念日旅行やお忍び旅行、または家族連れの旅行にも利用できる守備範囲の広さもこの宿の特徴だろう。のんびり温泉に浸かり、日常から一時離れ、リセットさせたい時に利用していただきたい宿なのだ。(J)