石川県小松市の北西、加賀平野を見渡す丘陵地にある辰口(たつのくち)温泉は金沢市街から車で40分程度、 “古都金沢の奥座敷”として、主に金沢からの地元客で賑わう。開湯は養老期(720年頃)と伝えられる1400年もの歴史がある温泉地だ。古くより温泉の涌き出るところであったが、その後応永年間(1400年頃)、近くを流れる手取川の洪水により埋もれてしまった。多くの人が掘り出そうとしたが失敗に終わったが、来丸村の源助なる人物が夢枕に現れた薬師如来の導きにより、ようやく温泉を掘り当てたという伝説が残る。
かつて金沢市内と電車で連絡していたというこの辰口温泉は、明治期に隆盛を極め、旅館の数も10軒以上あったという。辰口に滞在していた明治の文豪・泉鏡花の小説にも、温泉宿で賑わう辰口温泉(辰口鉱泉)の様子が描かれていることからも窺い知れる。明治32年発行の北国新聞掲載の、「加越能三州 宿屋料理屋 投票得点数」(温泉番付のようなもの)にもここ辰口(辰ノ口)のお宿はよく登場する。
辰口丘陵公園の近くに広がる緑豊かなこの町は、現在は温泉街という言葉からイメージされる雰囲気には程遠く、特にここ「旅亭 萬葉」周辺は閑静な住宅街。この丘陵地帯を外れれば、あたりは一面の田園風景だ。穏やかな光景の続く道を折れ、細い道にさしかかると玄関口が見えてくる。木立の中、軒も低いこの湯宿は、“ひっそりと”という表現に違わぬ存在感である。
2000坪という敷地の中に10室のみというこのお宿、以前は、ある銀行の保養所として活用されていたが、平成13年にここ辰口の老舗旅館「たがわ龍泉閣」の姉妹館として再スタートを切ることとなった。宿名の由来は「犬養萬葉」の名でもその業績が知られる学者、故犬養孝(いぬかいたかし)氏の萬葉歌碑が置かれていることから。前オーナーであった銀行の取締役が、万葉集に深い造詣を持つことからこの敷地内に置かれるに至ったという。万葉歌碑は日本全国で131基に及び、そのうちの3基がここに置かれる。現在でもこの歌碑は大切に受け継がれ、自慢の庭園と溶け合うように鎮座する。
長屋門を抜け、石畳のアプローチを進むと大庭園が目に飛び込んでくる。ゆるやかな斜面に広がる枯山水庭園で、主張をおさえた建物とケヤキの大木、どれもが自然に溶け合う空間である。この庭園はロビーや渡り廊下、またいくつかの客室からも見ることができるもので、広い芝生の緑が青空によく栄える。玄関で靴を脱ぎ、館内に入ると畳敷きの廊下が続く。スロープを下ると吹き抜けに勾配天井が開放的な印象のロビーに案内され、ここでお抹茶をいただく。
館内の共有施設はこのロビーと、露天風呂もある男女別大浴場「養老の湯」・「薬師の湯」、湯上り処、大・中宴会場、個室食事処、お酒も飲めるサロン「萬葉倶楽部」とさらに貸切風呂が一箇所あり、全10室という規模ながら多くの施設があるといえる。広大な敷地を存分に生かしたゆとりある空間は、やはり落ち着きある大人に似合う。
男女別大浴場は、男湯「養老の湯」・女湯「薬師の湯」のどちらにも内湯とサウナ、そして露天風呂が設けられている。どちらも広さは変わらず、湯舟は内湯も露天風呂にも大人5人ほどが同時に入れる大きさ。岩の露天風呂は屋根で覆われており雨風を防げる。また、その屋根も透明の素材でできており、明るい光を落としこむ。風呂上りには、マッサージチェアも置かれる湯上り処でくつろぐのもいい。ここにはハーブティーや女将手作りのわらび餅が置かれ、自由にいただくことができる。
10ある客室は、専用の池泉庭を持つ離れの貴賓室、和洋特別室、メゾネットタイプの3室、二間続きの2室、和洋室、一般和室と、多様な個性を持つ。全部屋にバス・トイレが付き、貴賓室、特別室、メゾネット、二間続きの計7室には、専用の温泉風呂が備えられている。
貴賓室「福禄寿」は、専用の玄関を持つ離れの一室。本館とは通路で連絡もされている。室内は広く、12帖と8帖の二間続きの和室を取り囲む広縁、ツインのベッドが置かれる寝室、内湯に隣接する坪庭に露天風呂を設けた浴室という構成。広縁は16帖分の広さを持ち、この部屋からしか見られない専用の池泉式庭園を望む。この気品ある一室は宿泊の利用だけにとどまらず、茶会の席を提供したり、結納の場として活用されたりと、多くの用途を持つそうだ。
この部屋の特色として挙げられるのは、この部屋からしか見られない庭園である。奥に滝を設え、豊かに水をたたえる池に注ぎ込む。この庭園全体は能登半島の形状を模したもので、池に浮かぶ小島は能登島、かかる石橋は能登島大橋という具合だろうか。松やつつじに彩られ、苔の生す情緒ある中置かれるのは、犬養孝揮毫の万葉石碑。この宿にある3基のうち2基が、この貴賓室からしか見ることができないというものだ。
本館内にある特別室、「福寿草」も、専用の庭園を備える一室。10帖の和室に巡らされた広縁から自由に出入りできるようになっており、綺麗に手入れの施された光景が目を和ませる。和室の隣にはツインベッドルームが設けられているため、いつでも横になってくつろぐことが出来るのも嬉しい限り。また、浴室に設けられているのは信楽焼の丸い湯舟。食事を部屋でいただけば、一歩も部屋から出ずに過ごすこともできる。
3室あるメゾネットタイプ客室は、どれも上記の大庭園を望む。間取りに多少の違いこそあるものの、入口のある2階には10帖和室とバス・トイレ、室内の階段を下りた1階にはツインベッドのある寝室と、目の前の小庭園を望む浴室という構成は同じだ。浴室前にある庭園は大庭園とは別のものだが、こぢんまりとした風情がまた心地よい。湯舟は部屋により異なる。また、浴室には箱から顔だけ出す、「箱蒸し風呂」が置かれる。使用方法は、箱の中に置かれる椅子に腰掛け、扉を閉めスイッチをONにするだけ。10分間経つと自動的にOFFになる。顔だけ箱から出る状態でサウナを楽しめるというお手軽なものだ。
二間続きの客室は、元別の部屋であった2室を合体させたもので、そのため玄関もバス・トイレ2つずつある。広縁の外にあるテラスはガラスで覆われたサンルームのような佇まいで、明るい光に包まれた湯浴みができると好評。ここは2・3世代での家族旅行や、仲間同士での旅行などに最適であろう。
他にも和洋室が1室、和室が2室用意されているが、ゆったりとした設えのどの部屋も、窓の外には庭園の緑が見られ、こころゆくまで寛ぐ雰囲気が整っている。
料理は季節の旬の材料を使用した加賀懐石料理。日本海白山麓、加賀平野のそれぞれの旬の食材が、季節の風情とともに供される。東近江の八日市にある有名料亭、「招福楼」で先代料理長に師事していたという藤井料理長による品々は、舌はもちろん、目でも料理の美しさを味わうことができるだろう。彼は“天下の名店”での修行を経て、「たがわ龍泉閣」で20年、そしてここ「萬葉」オープン時以来、料理長として包丁を振る。その腕は確かなもので、この料理長の食事をいただきに常連になるお客もいるというほど。
部屋でいただく事もできるが、希望により1階の個室食事処や、大人数の場合などは大中宴会場も利用することができる。取材時(2008年4月)の献立は以下の通り。
食前酒には辰口特産、柚子酒。さっぱりとした甘い味わいが、先付けに出された独活、蛍烏賊と鹿の子烏賊の辛子酢味噌がけによくあう。
先吸は、若竹豆腐と才巻海老に、一寸豆、花びら百合根、木の芽が添えられた、薫り高い一品。多彩な食材の香りと味わいが、さっぱりとまとめあげられている。
お造りには日本海の幸。平目棒作り黄身まぶし、鯵針葱針生姜巻き、がす海老が小鉢に載る。旬の素材に一手間加え、より洗練された味に仕立て上げたものだ。
温物として菜の花竹の子入り長芋万寿(まんじゅう)のあんかけ。若干もっちりとした食感の中、山葵の鼻に抜ける香りがよいアクセントになる。
焼き物の炮楽焼(ほうらく焼)の具は、あいなめ木の芽味噌焼、白玉汐焼、小芋。炮楽焼とはほうらく鍋に旬の素材を入れて蒸し焼き、素材の旨みを閉じ込める料理法。アツアツで出される。
お凌ぎで鯛とろろ飯が出される。海苔と玉あられの香りもよい。
進肴は白貝、天津海老、アスパラ、椎茸が蒸し焼きにされた・・・。木の容れものに入った具材の香りが、蓋をあけると湯気とともにパッと広がる。
焜炉物として和牛ミニステーキ。ブロッコリーとエリンギが添えられる。素材の旨みが強い和牛には、能登塩の甘みあるシンプルな味つけがよく合う。
たっぷりと熱いものをいただいたところで、お口直しに酢物が出される。お皿に並ぶのは車鯛龍皮巻、さより重ね、わらび、万能ねぎ結び、茗荷酢漬。完成度の高い造作はここにも見られる。
締めの御食事の汁物は、蓮根餅湯葉茶巾が浮かび、三つ葉の香りが添えられる。茶巾は香り、食感、味と、段階を経て楽しめるものだ。
果物には苺、マンゴームース、キウィフルーツ。口の中をさっぱりとしてくれる。
朝食はカレイのみりん干し、しいたけの味噌粕漬け、その場で火にくべて温める茶碗蒸し、ほうれん草のおひたし、ほうれん草の胡麻和え、明太子、土産物としても好評の山くらげ、ご飯とお粥、そして味噌汁に、オレンジジュースが付く。デザートにはメロンが出された。
食事に舌鼓を打ち、お湯に癒され、庭園の緑に目を和ませる・・・。チェックインも14時、チェックアウトも11時となっていることから、ここではのんびりと滞在する時間がある。宿泊客へのサービスとして、姉妹館、文政2年(1819年)創業の老舗宿「たがわ龍泉閣」に平成18年にオープンした混浴露天風呂、「田んぼの湯」も無料で利用することができる。ここには寝湯や立湯など、全部で6つの湯殿が、実際に稲を育てる田んぼの傍らに設けられている。田んぼの真ん中から湧き出たユニークな源泉を利用したもので、春には田植え、秋には稲刈りを行い、田園風景が存分に楽しめる。ここは混浴のため、家族や夫婦で、一緒に湯浴みを楽しめるというもの。男女ともに湯衣を着用して入浴することになるという気軽さも手伝って、水のせせらぎや里山と田んぼののどかな雰囲気の中入浴できるという趣向が好評を博している。「萬葉」から車で5分程度の距離にあるこのお風呂へは送迎がついているというのだから、利用しない手はないであろう。
お土産も郷土のものを中心に、数多く揃う。ロビー脇や個室食事処の入口にずらりと並べられているので、帰宅前に是非見ておきたい。人気の商品は辰口特産でもある柚子の商品。柚子酒(\1,000)、柚子エキス・温泉水を配合した柚子の湯(\1,050)などがおかれる。他にも、食事にだされる漬物や山くらげなども人気の品。地元の窯で焼かれた酒器セットなども置かれている。
このお宿には、姉妹館「たがわ龍泉閣」の常連客もよく訪れるという。この姉妹館の創業は文政二年(1819年)、6代目にあたる現当主の田川剛社長は辰口温泉観光協会・能美市観光物産協会の会長も務め、地域全体の発展に携わる。88室という大型旅館である姉妹館は、家族連れから団体客まで多くの客層が混在する懐の広い旅館である。館内で充実の湯めぐりを楽しめるなど、大きいお宿には大きい宿なりの魅力がある。だが、もしより静かに、よりのんびりと日常生活の喧騒から離れたいと考えるならば、閑静な住宅街の片隅にひっそりと佇む「旅亭萬葉」での滞在は、またとない休息となることだろう。常連客もその時の目的によって使い分ける、ということのようだ。
春は、日本三名山(三霊山)にも数えられる白山から流れ出る、手取川の清流で鮎釣り、夏は青空の下でゴルフ、テニス、秋は落ち葉を踏みながらキノコ狩り、冬は湯の香漂う温泉と雪景色。四季を通じて風物を楽しめる。手取川の南、丘陵地に位置する。周辺には、いしかわ動物園や辰口丘陵公園などのレジャースポットがあるので、行き帰りのプランにも困らないだろう。また、ここ能美市は米大リーグ、ニューヨークヤンキースの松井秀喜選手の出身地としても知られており、「松井秀喜ベースボールミュージアム」もある。源平の戦いを描いた『源平盛衰記』に出てくる「根上の松」や、歌舞伎『勧進帳』の名場面の一つ「弁慶謝罪の地」、”福を集める寺“と言われる「集福寺」などの名所旧跡や古刹も多い。金沢市街という大きく有名な観光地にだけ訪れるのではなく、様々な見所や遊びを提供してくれるのがこのエリアだ。ファミリー層や地元客にも愛されているというのは、こういうところにも理由があるのだろう。
この宿の宿泊客のほとんどは、チェックイン時間の14時には到着するという。これはこのお宿に来ることが第一の目的であることの表れではないだろうか。
その理由はいくつかあろうが、北陸の一大都市、金沢の奥座敷として認知される立地でありながら、自然に溢れ閑静な環境と、都会では味わえない安らぎの空間が用意されているに他ならない。
経験豊富なスタッフの方々も、つかず離れず適度な距離感をもって接してくれる。彼らはこちらの居心地の良さを高めてくれる名脇役だ。接客スタッフのレベルの高いからこそ、ここでの過ごし方は宿泊客の自由度の幅がとても広い。
それでもここにいると、自然とゆっくりとした歩調になり、目は窓の外の緑に向かう。それはおそらく、1400年という気の遠くなるほどの長い歴史を持つ温泉が醸し出す包容力、そしてその空気の上に築かれた宿そのものの魅力によるものだろう。
万葉歌碑やガンダーラ仏に見られる静かな悠久の世界と、四季折々の変化を見せる豊かな自然が織りなす和風空間。これら静と動がバランスよく同居する「旅亭 萬葉」は、ワンランク上の上質な時間を提供してくれるはずだ。
これほど、しっとりと大人が寛げる小さな宿は、なかなか見つからない。
だからこそ、この宿には常連客が多い。中には別荘代わりに年に何度も訪れる客も増えている。
それは、日本人だからこそわかる、侘び寂びの精神にも相通ずる空気感が漂っているからかもしれない。
是非、大事な人と宿泊したい湯宿と言えるだろう。(J/eb)