日本有数の湯量を誇る地でもあり、そのお湯と景観を求めて多くの観光客が行き来する一大観光地帯だ。
新平湯温泉はこれら温泉郷のほぼ中心、新穂高ロープウェイや上高地、乗鞍スカイライン、平湯大滝など、周囲に広がる多くの観光地へのアクセスも便利な立地にある。
その新平湯温泉の街道沿いにある、「料理旅館 奥飛騨 山草庵 饗家」は、2007年(平成19年)8月にオープンしたばかりの新しい宿だ。
「奥飛騨」という地名、そして「山草庵」という名称から連想されるのはきっと、山の素朴さ。
だが、そればかりではないのがこの宿だ。もちろん館内は民芸調に統一されており、懐かしさ漂う調度品の数々が旅情を彩る。
窓から望む景色はやはり“奥飛騨=山奥”というイメージそのもので、この取材時(2008年2月)は厳しい寒さに見舞われた雪深い「山の冬」であった。
しかし、ここには“山の宿”、もしくは山小屋が持つ男性的な無骨さはなく、館内は焚かれたお香の甘い香りに包まれ、色鮮やかな生花が随所に飾られるなど、女性的な気配りが施されていた。
それもそのはず、ここは以前「プチホテルかみち」という名のペンションであった。
この家で育った裕子さんが、この「饗家」がオープンした際に女将となり、幼い頃から培われたセンスで、この宿の居心地の良さをプロデュースしているようだ。
そのご主人、江間敦さんは、以前、同じ奥飛騨温泉郷の中でも一、二を争う人気旅館の料理長を務めていた経歴を持つ。
このご夫婦による、宿作りはオープン間もないにも関わらず、評判を呼んでいる。
その際に、自分の最も得意とする料理を最大限に活かすために考案したのが、通りをはさんだ奥にある新設の離れ「山草庵」。
名前のとおり、「もてなし、ふるまう家」であるこのお宿は、素朴さを感じさせる山の食材を利用しながらも、都会的なセンスで磨かれた料理を提供する。
20年にわたり調理人として仕事に携わる間に、練りに練りこまれたアイデアがここに花開く形となったのである。
太い梁がめぐらされ、日本人の心にある“懐かしさ”を刺激するこの建物は、豪雪地帯の新潟の古民家を移築したもの。
やはり雪深いこの奥飛騨の風情にはぴったりで、背後にそびえる山々にも違和感なく馴染む。
客室は5つのみと、家族経営のお宿だからこその規模。
旅館だからといって背伸びはせず、「家」という名にふさわしい心配りが行き届く規模ともいえる。
客室にはこの近隣でよく見られる山野草「蛍ぶくろ」、「笹ゆり」、「かたくり」、「野あざみ」、「にりん草」の名が冠されている。
4室は畳の和室、天井には飾り梁がめぐらされ、ゆったりとした空間に設置された、落ち着きのある照明が心休まる時間を提供してくれることだろう。
二間構成のものもあれば一間のみの客室もあるが、これらの部屋には洗面所とシャワー付トイレが付く。
1室のみ、「にりん草」は和洋室となっており、主客室はカーペットが敷かれ、ダブルベッドが置かれている。
布団での寝起きに慣れない若い世代や、段差のあるベッドのほうが起き上がりやすいとの理由などから、幅広い年代に支持を受けている部屋でもある。
この部屋はユニットバスが設置されているが温泉水は出ないので、基本的に全宿泊客は、4つある貸切風呂を利用する事になる。
お湯を楽しみ、旅路の疲れを癒したら夕食だ。
先にも述べた通り、御食事はこのお宿にとっての主役。
料理人歴20年、卓越した技が冴える江間料理長の創作懐石料理は、古民家離れ「山草庵」に移動していただく。
ユニークな扉をくぐると目の前には、太い梁から吊るされた囲炉裏がある。
個室も用意されているので、プライベートを大事にしたい方はそちらで、さらには調理の様子をライブで楽しめるカウンター席や、中央の囲炉裏端で車座になっていただくこともできるので、好みに合わせた場所で食事を楽しむことができる。
料理は山の素朴な素材を活かした懐石料理。
『新・奥飛騨懐石』と名付けられたこの献立は、山の素朴な食材を中心に利用しながら、都会的な味付けが施されたもの。
田舎と都会の融合をテーマに練りに練られた季節の品々は、「美味しく、かつ見た目にも面白いものを」という料理長の心がけそのもの。
作りたてのものをタイミングよく、一品ずつ提供されるラインナップを紹介する。
前酒には、山葡萄酒。
座付には、“飛騨山里の幸盛り合わせ”と題され、ほうれん草としめじのおひたし、飛騨産なめこ、郷土料理であるコモ豆腐、一年寝かしたフキノトウ味噌、慈姑イモ、梅肉をのせた百合根、ゴボウこそで寿司、そして柚子巻き柿、ナツメが素朴な風合いのお皿に盛り付けられている。
替鉢には、飛騨牛のタタキ。A5等級のモモ肉を使用した柔らかな肉に、アボガドと茸のタルタル、そして味をまろやかにする大根黄身おろしと“山のキャビア”、とんぶりとポン酢ゼリーを添えたもの。
素材の味わいをしっかりと活かし、さらに食べやすくアレンジしたこの一品は、やはり印象的なお皿に盛り付けられている。
汁物として、お餅ロール白菜の鶏パイタンスープ仕立て。鶏の軟骨入りのつくねを餅で包み、さらに白菜で巻いた創作料理。
炊き込むことで濁りが生まれる、白湯(パイタン)の柔らかい鶏肉の旨みが餅に浸透し、あっさりと飲みやすく仕立て上げられている。
お造りは川鱒の生湯葉和え。川魚というと臭いというイメージから敬遠されがちだが、湯葉を加えてあえることで食べやすく、まろやかな味わいになっている。
その季節により旬の魚を使うのもこの品の特徴だ。焼物としてまずは飛騨牛の炭火焼。
飛騨牛のA5等級というと筋が入り、柔らかいものの脂っこい傾向にあるが、ここではそうでない部位を厳選。
囲炉裏の炭火でさっと焼くことでさらに脂分も落ち、さらに食べやすくなる。焼物もう一品は岩魚の塩焼き。
炭火でじっくり焼かれることで、骨まで残さず食べることができる。塩のさっぱりとした味付けが川魚には一番よく馴染む。
冷鉢には、パン巻き岩魚と生野菜、地味噌ドレッシング掛け。
自由な発想を味わうことのできるこの一品、パンで巻かれた揚げた岩魚、このシャキッとした食感と生野菜にかけられたシンプルな味噌ドレッシングの味わいが絶妙。
進肴として、蕪の豆乳茶碗蒸し。
ダシのかわりにまろやかな豆乳を使用、添えられたワサビが飛騨産の蕪の甘みを引き立てている。
油物として、焼大根と里芋しんじょう。
これぞ里山料理というシンプルな一品だが、ダシに一工夫が施され、飽きることのない味が口の中にひろがる。
御食事にはサツマイモの炊き込みご飯と赤出汁と香の物。
ホクホクとしたサツマイモの食感が、素朴な食材で彩られたこのお料理を締める。
デザートには、タピオカ、オレンジ、キウイの入ったホワイトゼリーに、イチゴソースをかけたもの。
最後の品に至るまで、味はもちろん皿の盛り付けなど、美味しくて見た目にも面白い料理で徹底されていた。
朝食は一転、郷土料理を中心に提供される。
飛騨の伝統工芸「春慶塗」の重箱に入れられた、温泉卵そば、茄子の筍のおひたし、飛騨の定番・朴葉味噌、切干大根、国産黒豆、野菜の炊き合わせ。
飛騨産のコシヒカリに、鮎の開きと五平餅を囲炉裏で炭火にかけ、煮込まれた鍋からこの場でよそう豚汁風の味噌汁、デザートの苺、柿などをいただいた。
夜の都会的な洗練とのギャップも面白い、出立前に山にいることを再確認させてくれる内容の朝食であった。
献立を考える際、料理長はお皿を見てイメージを沸かせるという。
料理という“作品”はお皿に盛り付けられることで完成し、その完成形を具体的にイメージすることで詳細が出来上がっていくのだろう。
当然お皿もこだわりの品々で、3人の地元陶芸家による作品のみを使用しているという。
このうちの1人、近隣の福地温泉で茶房『萬葉館』を開く、水谷豊氏の作品は母屋の喫茶コーナーの背後にギャラリーのように並べられ、展示販売されている。
どれもこの山奥の素朴な風合いを感じさせる作風で、この宿の佇まいを象徴するかのよう。
この食器類を日常で使っていれば、ここで食べたものを帰宅後に、じんわりとまた思い出すこともあるかもしれない。
このエリアには、福地温泉をはじめとして、“日本人の懐かしさ”という琴線に触れるつくりのお宿も多く、見た目にもタイムスリップしたような気分になれる。
だが、「饗家」は同様の要素を兼ね備えながら、適度な距離感を保ったおもてなし、そして洗練された料理をさりげなく提供するという、本当の意味での「質」を追求しているのだ。
このお宿の料理へのこだわりは、いわゆる一般的な温泉旅館のレベルを超えているといっても過言ではない。
旅館というよりもむしろ、近頃人気がある、宿泊施設つきのレストラン=オーベルジュ的な要素が強く感じられるのである。
だが自らをオーベルジュだなどとは呼ばず、“もてなし、ふるまう家=饗家”、花や木ではなく“山草”と名乗る。
これは和へのこだわりだけでなく、お宿の謙虚さであり、宿経営を家業としてきた家族の実直さに他ならない。
普段着で訪れるような気軽さがあるこの宿に泊り、一番の思い出となるのはやはり、いい意味で期待を裏切られる料理だろう。
これから増えるであろう常連客に、「奥飛騨の饗家でアレを食べたい」と思わせるほどのインパクトがある。
これだけの料理が食べられて、温泉も貸切でのんびり利用ができる、しかも小さなお宿独特の“おこもり感”に満ちたこの宿、この価格設定はリーズナブルと言えよう。
奥飛騨温泉郷の宿には福地温泉がそうであるように、重厚な梁が特徴的な萱葺きの合掌造りとか、囲炉裏でいただく山里の料理、飛騨牛とか、どちらかというと男性的なイメージが強い温泉地とも言える。
その”剛”の印象とも言える宿が多い中、この「饗家」は女性ならではの優しさを感じさせる空間を持っている数少ない和の宿なのだ。
しかも、この地の宿は、建物の設えが特徴的で、どちらかというと温泉などハード面重視で、料理などサービス面は後回し・・・といった旅館も少なくはない。
一方、この「饗家」の若き主、江間敦さんは、まだ30代で自ら包丁を握る。
だからこそ”料理”に関するこだわりは、他の旅館とは一線を画する。
客室が5部屋というのも、彼がお客様に対して充分に気配りできる部屋数なのだ。
客室を増やせば売り上げは上がる。でも、それでは満足できるサービスは提供できないというわけか。
接客、サービスは奥さんである女将、裕子さんに任せ、そして宿全体は社長である上地正義氏が仕切る。
家族的な雰囲気を持ちつつ、奥飛騨の郷愁をも感じさせ、それでいて本格的なこだわりの献立を用意する。
上地社長は知略家の一面も持っているかもしれないが、こんなに真面目に取り組んでいるところは最近珍しい。それは驚異的な客室稼働率に表れている。
「饗家」は、パブリックの施設で目立つものはない。客室に篭り、好きな時間に湯浴みし、夕食時に離れの食事処に赴く。
なんとも移動距離の少ない空間ではあるが、大事な人との共有する時間を濃密に過ごすには、最適な宿なのかもしれない。
家族連れや女性グループも見受けられるが、やはり男女二人の旅行向けと思った方がいいだろう。
しかし、この宿はまだ生まれたばかりの宿。今後、「饗家」が、どのような変貌をとげていくか興味はつきないが、ここには本物の”料理”がある。
旅館の魅力は、ハードとソフトの絶妙なバランスだと、改めて感じさせてくれた宿であった。(J/eb)