「湯谷温泉」は、愛知と静岡の県境に広がる天竜奥三河国定公園の南側入り口に位置する。川底が岩板を敷き詰めたように見えることから板敷川の別称を持つ豊川水系の清流・宇連川(うれがわ)が流れ、その両岸に10軒の旅館が点在している。鄙びた温泉街の風情というよりも、山深いキャンプ場の雰囲気といったところか。
自然の作り出した渓谷「鳳来峡」の景勝地としても知られ、四季折々で違った表情の景観を楽しむことができるのも、湯谷の特徴の一つだ。
開湯は非常に古く、今から1300年前、鳳来寺を開山した利修仙人によって発見されたと伝えられている。1978年に建立された鳳液泉碑には、古来よりこの霊泉に浴した多くの人々が薬師如来の仏徳を受けて、心身の病や怪我を癒したとの碑文が記されていて、度々浴していた利修仙人は309歳もの長寿を得て神仙の術を身に着けたという伝説も残されている。
戦国時代、それまでの戦の方法を根底から覆すこととなった「長篠の戦」があった設楽原にほど近く、歴史の深い土地でもある。勝頼率いる武田軍が長篠城に攻め入り、劣勢を強いられた徳川家康が織田信長に援軍を求めたことで、設楽原の野戦へと繋がっていく。ここで当時最強とうたわれた武田騎馬隊を織田信長の鉄砲隊がことごとく撃ち砕き、火縄銃の有用性を世に知らしめることとなった。玉込め、火打ち、狙撃の三段構えで火縄銃の欠点である発射までの時間を克服した戦法や馬の進攻を防ぐ馬防柵など、知略を巡らせた作戦は、後の戦に大きな影響を与えた。また、落城に危機に面した際、命懸けで城を抜け出し見事家康から援軍の承認を得ることに成功したが、城に戻るときに武田軍に捕まり「援軍は来ない」と仲間に向かって叫べば命は助けるとの要求に対し、「援軍は数日内に来る。だから頑張れ!」と叫び、武士の忠義を見せた鳥居強右衛門の逸話も広く知られている。湯谷周辺は長篠城址や古戦場跡、将士の墓など、歴史好きなら心躍る探訪スポットが多いのだ。
そんな戦国の歴史と自然豊かな場所にあるのが、「旅館翠明」だ。国道151号線からそれて細い路地を進むと、木立に囲まれひっそりと佇む宿が現れる。取材に訪れた4月下旬では玄関前に石楠花(シャクナゲ)が咲き誇り、道中の疲れをほっと一息つくように癒してくれた。季節ごとに違った花が出迎えてくれるというのは、そこを訪れる者にとってはかなり嬉しいウエルカムサプライズだろう。
2階建ての全13室で全体的に典型的な和風旅館の造りだが、一部モダンな意匠も併せ持つ。館内は古さを感じさせるが、それが逆に落ち着きをもたらし気持ちよく寛げる。何より、玄関からすぐのロビーからは渓谷沿いの木立が窓一杯に迫っていて非常に明るいのがいい。
館内のパブリックスペースは今のところロビーのみとなっているが、マッサージ器や書棚を設置したリラックスルームや喫茶室も近くオープンする予定だ。なお、ロビーには翠明のご主人がオススメする1万ボルトの電流で血液のマッサージを行う電位治療器と体内の脂肪を強烈にシェイクしてくれる振動マシーンが設置してあり、風呂上りに利用すると効果が絶大だという。
なにはともあれ、まずは部屋に荷物を置いたらすぐ源泉掛け流しの贅沢な湯に浸かって旅の疲れを癒すというのが、ここでの正しい過ごし方のスタートだろう。
13室ある客室は全て宇連川の斜面に生い茂る木立に面していて、部屋にいながらにして森林浴が味わえるほど緑豊かだ。
広さは8帖〜15帖で「芙蓉」はトイレのみだが、以外の客室には全てバス・トイレが付く。また、「養浩」と「夢路」は他の部屋と趣が異なり、和洋織り交ざった面白い造りになっている。部屋までのアプローチは数段の小上がりになっていて、廊下に面している窓ガラスはステンドグラスが嵌め込まれている。室内の天井には太い梁が渡り、床の間にもステンドグラスが。年配の方には若干不向きのように思うが、若いカップルには受けがいいそうだ。ちなみになぜこの2室だけ違った趣の部屋になったのかというと、知り合いの職人さんに改装工事をお願いしたのだが、まかせっきりにしていたらこのような部屋になってしまったと、苦笑いでご主人が話してくれた。
宿オススメの部屋は2階の「滝見」。その名のとおり、広縁の窓からは宇連川の渓流と、木立の合間から流れ落ちる滝を臨むことができるのだ。手を伸ばせば届く距離には八重桜の枝が張り出しているので、その季節に訪れれば花見と滝見が同時に堪能できる。湯上りに広縁で寛ぎながら景色を楽しめるのは、景勝地にある温泉宿ならではの最高の贅沢だろう。
温泉に浸かり身も心もほぐし、思い思いの時間を過ごしていると、夕食の時間に。
食事はゆったり周りを気にせず食事を味わうことのできる部屋食。饗される料理は山菜や地元食材を使用した会席料理になる。食材の仕入れはご主人自らが行い、温かいものは温かく、冷たいものは冷たく出す。つまり客が席についてから料理を作り、出来立てを召し上がってもらおうというこだわりだ。
先付けは、フキとワサビ菜と小筍の和え物、ワラビのよせもの、カボチャのキントキ。続いて毎日手造りする自家製ごま豆腐。蒸し物は、エビ、鶏肉、カニカマと、銀杏の代わりに枝豆が入る茶碗蒸し。ご主人いわく、
銀杏よりも柔らかく蒸した枝豆のほうが茶碗蒸しとの相性がいいそうだ。なるほど銀杏よりも癖がなく、濃厚で滑らかな茶碗蒸しと見事にマッチしている。小鉢はナスの田楽だった。さっと揚げたナスと鶏肉のミンチを味噌で煮込んだタレが絶妙に合う。こちらの料理はあっさりしたものが中心だが、濃い目の味付けの品が良いアクセントになっていて、バランスのよさを感じた。
鍋物は、4月ということで、筍とゼンマイの春野菜とタラとアサリが入った「春野菜鍋」。春菊とニラで彩を添え、鍋蓋をとった瞬間、ニラの香りが食欲を刺激する。もちろん鍋の食材は季節によって色々変わるが、冬はなんと猪鍋になり、ここの名物にもなっている。猪の肉は、牛ほど臭みがないのに豚よりもコクがあり、イメージに反して大変美味しいそうだ。割り下ではなく、八丁味噌をベースにブレンドした自家製味噌で煮炊く鍋は、ぜひ時期に来て味わってみたい。
続く焼物とお造りは、宇連川で採れた新鮮なあまご。あまごはヤマメと非常に似ているが、ヤマメにはない鮮やかな朱点がある。また、幻の魚といわれ、天然物にはなかなかお目にかかることはできない。こちらで出されるものは養殖だが、宇連川の清流のお陰で変に脂肪が付くことなく天然に近い状態でいただくことができる。焼きは塩をふって串焼きにしたものを、串を抜いて出してくれる。じっくり炙られているので骨まで柔らかく、頭からかぶりつきで丸ごといただける。お造りはコリコリと弾力のある食感、淡白で飽きのこない味だ。ちなみにあまごが味わえるのは11月から5月一杯まで。6月から10月はアユになる。揚げ物は天ぷら。タラの芽、ワラビ、シイタケ、エビ、ナス、カボチャの盛り合わせだ。
そして会席のメインが翠明オリジナル料理の「仙人焼」である。先代社長がグツグツと出来立て感が溢れる一皿を作りたいという思いから生まれた料理で、ムカゴ、銀杏、フクロウダケ、ワラビ、ヒメダケ、ピーマン、ニンジン、ウズラの卵、鶏肉を酒蒸しにした山菜料理だ。調味料は一切使わず酒で蒸したのみのシンプル料理なのに、それぞれの食材から染み出した旨味が渾然一体となり、味わい深い一品になっている。名前の由来はこの地に縁の深い利修仙人からとったものだ。
料理の最後は水菓子で口直し。この時出されたのは苺とオレンジだった。
山菜中心のヘルシー料理は、会席の名に相応しくお酒の酒肴にもぴったりだ。もちろん、アルコールを嗜まない方も満足の、季節の旬を味わえるもてなしとなっているので、心ゆくまで料理を堪能することができるだろう。
朝食はお部屋ではなく、1Fの大広間「松の間」でいただくことになる。
メニューは湯豆腐、山菜の和え物、ニジマスの甘露煮、ダシ巻き玉子、スパゲティサラダに白米と味噌汁、お新香、ノリ、さらにデザートのヨーグルトが付く。朝食にしてはかなりボリュームがあるが、朝からしっかり食べたい方は嬉しい量だろう。ご飯はお櫃で出してくれるので、小食の方はこちらで調節するとよいかもしれない。
個人的に嬉しかったのは、ダシ巻き玉子が温かかったことだ。朝食は作り置き、という旅館が少なくないなか、きちんと作りたてを出してくれる心配りが、なんとも気持ちよかった。
早起きして朝風呂を楽しむ、せっかく温泉宿に宿泊するのだからこの贅沢を味わわないともったいない。露天風呂は朝6:30からチェックアウト30分前の9:30まで貸切利用できるので、朝食前、または朝食後、時間の許す限り源泉掛け流しの湯を堪能するといいだろう。また、大浴場に関しては22:00から5:30までが貸切となっているので、滞在中ほぼいつでも貸切で湯浴みができるので、何度でも入りたいという方には、嬉しいシステムだ。
さて、風呂と食事で心身の充電を終えたら、この旅の記憶をさらに強固にすべく周辺観光に出かけよう。
まずは宿周辺を散策すると、すぐ真裏に「浮石橋」という赤い吊り橋を発見。橋の真ん中まで進み上流へ目を向けると、宇連川の清流と渓谷美が一望できるという魅力的なポイントだ。
対岸に渡ると飯田線「湯谷温泉駅」前に出ることができる。飯田線は愛知県豊橋市の豊橋駅と長野県上伊那郡辰野町の辰野駅を結ぶJR東海の鉄道路線だ。1983年までは旧型国電の宝庫として鉄道マニアの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うようにして走る車窓からの風景や、ひっそりと佇む無人の秘境駅の存在など、鉄道マニアだけでなく多くの人を魅了してやまない路線である。1時間に1本程度しか運行しないので、車両を見るないし、撮影するにはタイミングを計らないと厳しいだろう。
駅前広場からちょっと歩くと、誰でも利用できる温泉スタンドが現れる。これはまさに温泉の自動販売機で、100円で100リットルの温泉を購入できるのだ。観光客のみならず、地元の方も多く利用しているとのこと。自宅で気軽に温泉を楽しめるなんて、なんとも羨ましい限りだ。
温泉スタンドの背後には、鳳来寺山がそびえている。標高684.2メートルで、紅葉の名所や「ブッポーソー」という独特の鳴き声から仏法僧の別称を持つコノハズクが棲息すること、さらに鳳来寺があることで知られている、国指定の名勝及び天然記念物に指定されている山だ。樹齢800年、樹高60メートル、幹周り7.5メートルの、現存する杉では日本一といわれる傘杉や、大宝3年(703)、利修仙人によって開かれた真言宗の古刹・鳳来寺、その鳳来寺に松平広忠と於代の方が子授かりの祈願をし、家康を授かったという徳川家康誕生の縁起によって建立された東照宮など、歴史的
、文化的な見所が満載。また、俳聖・松尾芭蕉や旅と自然を愛した俳人・若山牧水など、多くの文人が俳句や短歌を残した山でもあり、自然の美しさも格別なものがある。
車でないと訪れることが難しい場所にあるが、百間滝もなかなかに見応えのあるスポットだ。日本最大の断層帯・中央構造線に沿って流れ落ちる滝で、落差は120メートルと愛知県最大といわれている。また、中央構造線の地中深くから湧き出る「気」が検出され、日本でも最高レベルの「気」が満ちているパワースポットであることも確認されていている。
「旅館翠明」は、あらゆる意味でシンプルな宿だ。パブリックスペースが充実しているわけでもなければ、エステやサロンなど女性が喜ぶサービスも無い。しかし、極上のお湯、豊かな自然、知的好奇心をくすぐる歴史の痕跡、家族経営ならではのアットホームな雰囲気と、そこから生まれる素朴ながらも細やかなサービスがある。
エコ・ネイチャーが注目されるようになってきた昨今、それに興味のある方にとって「翠明」は絶好の宿といえる。また、両親を連れての孝行旅行などは、まさに最適といえるだろう。もしくはカメラを抱えての列車撮影旅行なんていうのも、いいかもしれない。
歴史スポットのフィールドワーク、飯田線に揺られながらの電車旅行、鳳来峡の自然を全身で感じながらの散策。翠明での楽しみ方は、そんなスロー・フードならぬ、スロー・トラベルにこそあるのではなかろうか。宿を後にする時、強くそんなことを感じた。(J/hr)